| 天使が堕ちた夜 8
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ベッドに横たえたマヤの体は、本当に中身が詰まっているのかと疑いたくなるほど軽く、そのくびれた細いウエストは両手で掴みきれてしまうほどの細さで、真澄はこれから自分がマヤに与えるべく痛みを想像して、少なからぬ罪悪感に苛まれる。
昨日の今日のこれでは、いくらなんでもマヤに早すぎると思われてもしょうがない、という思いもあった。 「嫌だったら言ってくれ、無理強いはしたくない」 とりあえずそうは言ってみたものの、火のついてしまった己の体の行く末に真澄はまるで自信が持てなかった。 「…嫌じゃ、ない、です…。速水さんだったら、嫌じゃないです…」 必死にそれだけ答えたが、 (初めての人は速水さんがいい) その言葉だけはなんとなく口に出す事が躊躇われ、喉元で押し戻される。 「でも…」 マヤの髪を梳いていた真澄の手が止まる。 「でも?」 「あ、あの…、アタシきっと上手くできないと思います。速水さんの事がっかりさせちゃうかもしれない。でも…、それでアタシの事嫌いにならないでね…」 泣きそうな顔でそう訴えるマヤに真澄は心臓を握り締められたような思いがする。 「君こそ俺の事を『こんな事をするなんて』と嫌いにならないで欲しいな」 優しくそう言って、前髪をかき上げ額にキスを一つ落としたかと思うと、瞼に頬に唇にと順番に唇でその存在を確かめるようにして降りていく。 服を脱がされる事に協力するなどという術も知らない、ベッドの上で棒のようにまっすぐに固くなったマヤの体を丁寧に動かしながら、その滑らかな美しい素肌を空気に晒していく。 真澄が首筋に吐息を這わせた瞬間、マヤの体がビクリと震えた。 「恐がらなくていい…」 真澄の掠れる声が耳元で囁く。 マヤは恐くはないと思った。ただ、襲ってくる鳥肌だけはどうにも止められなかった。でもそれは、未知のものに対する恐怖や、真澄の今まで見たこともない『男』としての圧倒的な存在感に対する嫌悪感でもなかった。しいて言えば、自分が何か知らない人間になってしまうのではという思いに囚われ、それはまるで今まで自らの体を頑なに覆っていた鱗がポロポロと剥がれ落ちていくような感覚であった。 真澄の指がマヤの秘部を覆う最後の砦に差し掛かった時、服を一枚一枚奪われていくことに協力こそはしなかったが、抵抗も見せなかったマヤの体が強張り、腰の辺りを弄っていた真澄の指を止める。きつく両足を閉じ、真澄の右手の自由を奪うかのごとく、添えられたマヤの左手は、力としてはなんの役にも立たない微々たるものであったが、真澄は指を止める。 「あ、あの…、恥ずかしいし…」 ここまで来て言うべき台詞でもないとマヤも思った。しかし、正直な気持ちは自然と口からこぼれ落ちてしまう。 「それは君の本心からの抵抗かな」 からかうような、しかし穏やかな口調で真澄はマヤの顔を覗き込む。その目は確かに欲望の色が見えたけれど、決して無理強いはしないという優しさも読み取れた。 「本当に嫌だったら、全力で俺を止めて欲しい。今なら、まだ間に合うだろう。だが、中途半端な抵抗は男には逆効果だと覚えておくといい」 そう言って無造作に素早くマヤの唇を奪うと、顔の距離を近づけたまま、苦しげな掠れた声を落とす。 「君は無意識に男を本気にさせる困った女だ…」 真澄の苦しそうに歪んだ顔は (どうするのか?) と無言で問いかける。紫織の顔が一瞬、マヤの頭をよぎる。 (愛しているからって、だからって、こんなことしていいんだろうか?他の人のものになっちゃう人とこんな事していいんだろうか?) 羞恥心とは全く別の問題が頭をもたげ、マヤの中で渦を巻く。 『俺には時間がない…』 真澄の先程の苦しげな声が耳の奥で蘇る。 (今抱かれなかったら、きっと一生抱かれないのかもしれない…) 『愛する人が他人のものになってしまう日』という迫り来る運命の足音に、真澄の右手を押さえていたマヤの左手から力が抜けていく。変りにその細い指先が、ゆっくりと真澄の左腕を登りつめるように辿っていく。ほどよく引き締まった筋肉質なその肉体は、どこの部分をとっても、自分とはまるで違うもので出来ている、と思うほど違っていた。肩まで辿りついたマヤの指が真澄の鎖骨をゆっくりと辿る。まるで骨の形を確認するかのように…。 「速水さん…、アタシにはもの凄く特別な事だから、もの凄く大事な夜だから、今日の事、速水さんも忘れないでいてね。毎日は思い出してくれなくてもいいけれど、記憶のどこかに無くならないようにちゃんと取っておいてね。お願い…」 それだけ言うと、真澄の首に両腕を回し、全てを真澄に任せた。マヤの体から最後の砦が引き下ろされる。 「死んだって忘れやしない…」 真澄のその言葉を合図に、頑なに閉じていたマヤの足がゆっくりと緩む。 ![]() 「ねぇ、速水さんはいつから私の事好きだった?」 その逞しい温かい腕の中に閉じ込められ、乱れた髪を何度も真澄に直されながらマヤは呟く。 「君よりずっと前だ」 「それは分かってるっ!だから、いつからか、聞いてるの!」 すましてはぐらかそうとする真澄に噛み付くようにしてマヤは言う。もちろん言葉の強さとは裏腹に突き刺すような棘はそこには一ミリも含まれていない。 「自覚はなかったが、多分初めて会った時からだろうな。なんだかんだで8年になるか…」 まるで自分自身に確認するように呟くと、何かを思い出すかのように目を細める。 「信じられない…」 ぼそりとマヤは真澄の胸に顔を埋めるようにして、呟く。 「速水さんほどの人が、女優もモデルもきれいな人ばっかり毎日見慣れてる人が、どうしてよりによって、あんなチンチクリンな子どものこと好きになったのか、まるで分からない…」 「だからじゃないか?」 からかうような色がその声音に含まれたので、マヤは嫌な予感がする。 「外見の綺麗な女は見飽きていた。だから、君が新鮮に映った」 たちまちマヤはむくれると、その自らをきつく抱きしめているその腕から逃げ出そうともがきだす。 「あぁ、もう言うと思った、絶対、そういう事言うと思った。速水さんねぇ、一生そうやって人の事からかってればいいのよ、人の事バカにしてればいいのよ。いつかね、アタシがすっごいキレイな女優になって、『しまったー』とか思っても遅いのよっ」 言ってて滅茶苦茶な論理だと思ったが、この際どうでもいい。何か言い返さないと悔しいだけだった。 予想通りの反応を示す、腕の中の不機嫌になってしまったかわいい恋人に、真澄は呆れるほどの甘ったるい声で嬉しそうになだめる。 「これ以上綺麗になんてならなくていい、他の男が寄って来て困るから…」 頭上から降ってきたその言葉にマヤは真っ赤になって俯く。 (どういう顔してこういう台詞を言うんだろう…) そう思ったが恥ずかしくて、真澄の顔を見上げる事は出来なかった。かわりに真澄は頭のてっぺんにいくつものキスを落とす。 「今も、今までも、そしてこれからも、俺は君しか愛せない…」 「死ぬまで?」 俯いた頭の下から小さな声が尋ねる。 真澄の心臓が一瞬、潰れる。 「…死んでからもだ…」 声が震えるのを隠すためにわざと体を動かし、シーツの衣擦れの音をさせる。ふと、体を動かされた瞬間、マヤの下腹部に鈍い痛みが走る。 「…っつ」 物理的に不可能と思われるほどのもので引き裂かれた痛みは、いまだにその存在のなくなった場所に奇妙な異物感を与える。 (これが前と後とで違うってことなのかな?) マヤは漠然とそんな事を思ってみる。確かに、真澄に貫かれる事によって全身に駆け巡ったあの痛みは想像を絶するものであったが、自分の体の隙間を息も出来ないほどにぴったりと真澄に埋められたあの感覚は痛みや苦痛以上の不思議な感覚をマヤに与えた。 体が繋がってしまったのではないかと思った。 かつてそう望んだように、一つのものになってしまったのではないかと思った。 そして真澄が抜け出ていってしまったあと、取り残されてしまった自分のそこは魚が地上に上がったようにパクパクと口を開けている気がした。急にまた一人になってしまった事に心細さを感じてしまう自分に戸惑う。こんなに近くにいるのに、こうして腕の中で抱きしめてもらっているのにだ。 「痛い思いをさせて済まなかった」 労わるように抱きしめた真澄のその声が思った以上に切なかったので、マヤは真澄の腕の中で小さく左右に頭を振る。 「痛いだけじゃなかったから、いい…。速水さんのこと、今のほうがもっと好きだから、いい…」 消えてしまいそうな小さな声だった。真澄にとってあまりにも甘美なその言葉たちは、記憶の網にかからずに真澄の体をすり抜けていきそうになる。しかし、絶望的な思いで真澄は思い知らされる。 (愛する人を置いて逝く痛みと、愛する人に置いて逝かれる痛みでは、どちらのほうが残酷に心臓を抉るのだろうか?) 自らの肉体が朽ちた後も、滅びる事のない精神でマヤを愛していく漠然とした自信が真澄にはあった。しかし、肉体も精神も取り残されるマヤはどうなるというのだろう? 自分にはどうしてやる事も出来ないというのに…。 規則的な穏やかな寝息を立てながら、自らの腕の中で安心しきった表情で眠りに落ちていくマヤを、真澄は壊れるほどに抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。 しかし、どれほど強く抱きしめたところで、時間を止めることは出来なかった…。 2.10.2003 ![]() |
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