天使が堕ちた夜 9
次の日は、マヤにとっても真澄にとっても、人生始まって以来の怠惰な一日であった。目覚まし時計もかけずに眠ったのは、真澄の記憶では思い出せないほど昔のことであった。いつまでも二人でシーツに包まり、眠るわけでも行為に及ぶわけでもなく、ただお互いの肌の感触を確かめあうように、体を重ね合わせる。

体温でお互いを確認しあう事が、これほどまでに心地よいことを、真澄は悪戯に重ねてきた過去のどちらでもよい自らの肉体関係では知り得なかった。
体をうつ伏せにし、枕の上に重ね合わせた両腕の上に顔を置いた体勢でマヤは言う。

「男の人の体温って、あったかいのね…。アタシ、お父さんも居なかったし、そんな事もぜんぜん知らなかった…」

真澄は上体を起こし、マヤの方に体を向ける。そっとシーツをめくり、露わになったマヤの美しい白い背中に指を沿わせる。背中の中心のくぼんだ背骨のラインを真澄の長い人差し指と中指が、ゆっくりとなぞり上げると、マヤの体が途端に緊張していくのが分かった。

「知ってたら俺は困るよ。君がそんな事を知っていたら、俺は嫉妬で狂うかもしれない…」

首元まで登り切った真澄の指は再びゆっくりと下降していく。

「でも速水さんは、女の人の手足が冷たい事、ずっと前から知っていたんでしょ?」

マヤは背中から全身に広がっていくゾクゾクするような波に飲み込まれないよう、必死で言葉を探す。

「知っていたが、暖めてやろうと思った事は一度もない…」

そう言って、素早くマヤの背中に口付けを落とす。

「…んっ」

思わず淫らな吐息がこぼれてしまう。肌の細胞の一つ一つまでもが、真澄に支配されてしまっているような錯覚を覚える。

「速水さん、あの…」

そう言ってマヤは真澄と目を合わせたあと、恥ずかしそうに俯きながら言葉を繋いでいく。

「アタシ…、初めてだったし、その…、どうしたらいいのかとかもぜんぜん分からなかったし、『どうだったか』って聞かれても『よくわからない』としか言えないけど…、速水さんは?速水さんはどう思ったの?」

こんな事を潤んだ黒い瞳に聞かれて正気でいられる男がいたら、教えて欲しいと真澄は思う。一体なんと答えればいいというのだ。足掛け8年、夜毎の夢で抱いてきた女をようやく現実の世界で、自らの腕の下で思うままにした感想など、言えるわけがない。
実のところ真澄は、初めての夜に、まだいたいけな無垢な存在であるはずのマヤに対して自らの爆発しそうなほどの欲望をどこまで抑えきれるか自信がなかった。思うままに、情熱の迸るままにまかせ、乱暴に組み敷いてしまうのではないか、そして傷つけてしまうのではないか、という恐れがあった。実際のところ、どこまでそれを抑えられたのか自信はない、欲望の赴くままに組み敷いてしまったに等しい状況であったことを否定出来ない。
しかし、一晩中寝ずに見守っていたマヤの寝顔は穏やかで、そしてぴたりと自分に体を預け、安心して眠るその様子は、そういった真澄の不安を掻き消すに充分なものであった。

しかし…。
マヤの体を知ってしまった今、その全てを独占してしまった今、それを手放すことは不可能に思えた。それは自分が亡き後、マヤに忍び寄る男の影に対する単純な嫉妬以上に、今ここに確かにある腕の中の温もりを、永久に失うなどとても考えられないといった種類のもであった。そして、何よりもマヤに与えたこの自らの温もりを、奪い取る事の残酷さが真澄の心臓を抉る。

「俺は何度も君を諦めた。諦める理由はいくつも見つかったが、それでも心のどこかでいつかこうして君を抱く事を諦めていなかった。
君には到底わからない種類の感情だろうが、男には狂うほどに愛する女を狂うほどに抱いてしまいたい瞬間がある。それが俺にとって、昨日の夜だった…」

あまりにもストレートな言葉に、マヤはどう答えたらいいのか分からず、言葉を喉に詰まらせる。

(この温もりは永遠ですか?ずっと私のものですか?)

心の底から出かけたその問いを、マヤは慌てて飲み込む。言葉の代わりに、真澄のその広い胸元に飛び込むと、真澄の鼓動が聞こえる位置に頭を預け、じっと動かずに、心のさざ波が収まるのを待った。






「速水さ〜ん。今日はちゃんとベッドから出ようよぉ〜」

翌朝マヤは、ベッドの中で真澄の手を引っ張ってみる。

「金曜日からまたお仕事でしょ?そしたら、あと4日しかないよぉ〜。速水さんこんなに長いお休みなんてもう一生取れないかもしれないんだから、もっと有効に使わなきゃぁ」

そう言ってさらに力を込めて、マヤは真澄の腕をぐいぐいと引っ張る。

「俺は充分、有効に使ってるつもりだが」

そう言って乱暴にマヤをその腕の中に再び閉じ込めようとする。マヤはその手には乗らないと言わんばかりに、慌てて真澄の胸に両腕を突く。

「あのね、でも今日お天気いいみたいだし、アタシね、行きたいところがあるの」

そう言って例の真澄がどうしょもなく弱い、潤んだ瞳で上目使いに自分を見つめるものだから、真澄は降参する以外に術を知らない。

「どこに行きたいのかな、チビちゃん?」

暴れた拍子にマヤの口の中に入ってしまった、髪の束を掬い取ってやりながら真澄は訪ねる。

「あのね、この間スーパーにお買い物に行く途中に見えたんだけど、今、イチゴ狩りが出来るんだって。あれって、いくつでも食べていいんでしょ?」

そう言って、宝島の大発見でもしたように瞳を輝かせて言うのだから、たまらない。真澄は小さく吹き出すと、からかわずにいられないといった表情で答える。

「そうだな、ここは有名な苺の産地らしいしな。この近くにもイチゴ狩りが出来る農家があるだろう。しかし、チビちゃんの事だから畑中の苺を食い漁って、金輪際、立ち入り禁止になりかねないんじゃないか?」

マヤはお約束のように0.1秒できーーーーっとなると、ベッドから飛び起きる。

「いいじゃないですか、苺はお菓子じゃないから、いくら食べても太らないしっ!」

「太るとか太らないは関係ないだろうが」

真澄は大げさに笑い飛ばしながら、ようやく体を起こす。
無造作にガウンを羽織ると、ベッドの脇でシーツでぐるぐる巻きになっているマヤの頭をクシャリとなでる。

「よし、わかった。朝食を食べたら出発だ。もっとも、もう昼食だがな…」

その優しい笑顔にマヤは立ちくらみを覚えそうになる…。






真澄の運転する車で、二人は地元でも有名な、イチゴ狩りのために畑を解放してる農家を訪れる。伊豆のイチゴ狩りのシーズンは12月の下旬から4月いっぱいと言われており、2月の中旬から下旬にかけての今がまさに最盛期である。週末には家族連れなどで大変な賑わいを見せるらしいが、平日である今日は人影もまばらで、真澄はこの自分がマヤとイチゴ狩り、という事に対する照れも手伝って、少しだけホッとする。

マヤが大騒ぎして熟れた苺を探しては頬張っていくその様を、真澄は穏やかな表情で見守る。

「ちょっと外でタバコを吸ってくる」

苺に夢中なマヤにそう声をかけると、真澄はビニールハウスを後にする。
家族連れや他の客がたむろする休憩室に行く気にもなれず、愛車に寄りかかりながらタバコに火をつけた。

2月の澄んだ冷たい空気は好きだと思う。余計なものの一切が凍りつくようなこの寒さが好きだと思う。そして、
『寒いのはキライ』
そう言って自分の隣で白い息を吐くマヤを好きだと思う…。

立ち上る紫煙を何とはなしに眺めていると、煙の向こうに見覚えのある顔。

「かわいいところでデートしてるのね。ごちそうさま」

「おかげさまで」

真澄は苦笑しながらそう答えると、いつもとは違う出で立ちの天使をまじまじと見つめる。

「なによっ?羽がない、とか言わないでよ。あれは初回サービスよ。天使ったって、普段からあんな格好してるわけじゃないんだし」

極普通のロングコートを羽織り、その中身は見えなかったが、コートの裾から覗くロングブーツも、流行のものであるという以外は普通であった。ただ、真っ白なそのコートはどこか非現実的で、のどかな農家の午後には不似合いであった。

「偵察かい?」

「別にいちいちこうやって姿現さなくても、いっつも見えてるんだけどね。ちょっと、言っておいた方がいいかなぁ、って思ったからさ」

白いコートの袖から覗く、白い美しい指先の爪はマニキュアもなにも塗ってないのに、桜貝のような色をしている。

「なんだ?」

まっすぐに天使を見つめ返し真澄は低い声で尋ねる。

「このまま言わないで逝く気なんだ…。このまま、タイムリミットが来て、『はい、さようなら』で済ませる気なんだ…」

それは真澄の神経に確実に障る言い方で、真澄は思わず声を荒げる。

「じゃぁ、どうしろって言うんだ?真実を告げたところで、彼女を混乱させるだけだ。信じるはずがないって言ったのも君じゃないか。一生、消えない思い出を残してやるぐらいしか俺には出来ない。他にいい案があるなら聞かせて欲しいぐらいだ!」

「まぁ…、フツーは信じないわよね。『天使のお迎えが来たので、これから死にます』なんて言われてもね…。
でも、あなた達、そもそもフツーじゃないんだしさ、あの子だってフツーじゃないレベルであなたの事、愛してるみたいだし。
置手紙一つで置いてかれても、あの子は納得しないわよ、分かってるでしょ?」

天使の意図を図りかね、真澄は鬱屈した思いを募らせる。

「彼女に真実を告げたとする。その真実が嘘ではなかったと証明されるのは、俺の死が現実になる瞬間だ。その瞬間、俺はもうここには居ない。何をしてやることも、慰めてやることも、抱きしめてやることさえ出来ない。これ以上残酷な事があるなら教えて欲しい…」

やるせなさが滲むその声は、どこか疲れていた。

「言ったでしょ。あなたには最後の一週間でも、あの子には最初の一週間だって。彼女にこの一週間だけを心の支えにして生きていくような人生が待っているとしたら、後悔して欲しくないのよ、あなたにもあの子にも…。今あるこの瞬間は後で二度と取り返せないものなの。時間は止められないし、運命も変えられない。
でも、知ってて受け入れる運命と知らないで受け入れる運命は、意味が違うわ」

「言えというのか?」

指先のタバコはもう灰へと姿を変え、今にも真澄の指から崩れ落ちそうになる。

「それはあなた次第としか、私には言えないわ」

そう言うと足元の砂利の音をさせ、声音を変える。

「あ〜あ、もう喋りすぎちゃったわよ。帰んなきゃ。
じゃ、あと3日と6時間。
それからあなた肝心な誤解を解く事も忘れてる。何とは言わないけれど、そこだけでもナントかしといてよ。あなたに取り残されたと思うのは、あの子だけじゃないでしょ」

そこまで言うと、ひらりと白いコートを翻す。

ほとんど吸わないままに灰になってしまったタバコを、車の灰皿で押し潰すと、真澄はマヤの居る、ビニールハウスへと戻っていく。



真澄の姿を見つけたマヤが駆け寄ってくる。

「速水さんは食べないの?苺嫌い?」

少し困ったような表情でマヤは見上げる。

(だから、そんな顔をしてはいけないと言っているのに…)

真澄は高まる場違いな動悸と、先ほどの罪悪感を誤魔化すように苦笑する。

「いや、嫌いではないが、君みたいにそんなに底なしには食べれないよ」

「じゃあね、ほらっ」

そう言ってマヤは両手にのせた大きな苺を真澄に差し出す。

「一番おっきくて、一番甘そうなの探してきた」

瞳の奥がキラキラと輝く。
真澄は黙ってマヤの手のひらから一粒、苺を摘み上げると、その大きな粒を半分だけ口に含む。途端に甘酸っぱい汁が広がる。甘いものは苦手な真澄だが、この固い苺の歯ごたえと甘酸っぱさは嫌いではなかった。残った苺の断面図を見てると、どこか淫らな思いが頭をもたげる。そんな自分を持て余しながら、残りの半分を口に放り込むと、マヤの手のひらからもう一つ大きな苺を摘み上げる。
ゆっくりとマヤの口元に持っていくと、口を開ける真似をして、口を開ける事を促す。ようやく真澄の意図に気付いたマヤが慌てて、口を開けて苺に噛り付こうとした瞬間、真澄はさっとそれをよける。

「あぁ、もうっ!」

途端にマヤは脹れるが、真澄は笑いながらもう一度、苺をマヤの口元に持っていく。今度こそマヤはその大きな苺に、半分だけ残して噛り付く。こちらを上目使いに見つめながら、唇を尖らせて、自らが差し出した赤い果実に吸い付くその様子は、真澄の心と体の両方を充分に翻弄していることに、マヤはもちろん少しも気付かない。真澄が少し考えたあと、その残りの半分を口に入れたのをマヤは不思議そうに眺めつつ、口の中で潰した苺を飲み込む。次の瞬間、突然、そう、本当に前触れもなく唐突に、唇を奪われる。
真澄の舌がいつもとは違う動きで唇をこじ開けたかと思うと、真澄が荒く噛み潰した苺が押し込まれる。それは苺のようで苺でなく、マヤの知らない味が口内に広がっていく。お互いの口の間を、苺の甘い汁と唾液の混ざり合ったものが行き来する。
やっとの思いでそれらを飲み込んで、解放されたマヤに真澄は涼しい顔で告げる。

「この方が甘いだろ?」

苺よりも真っ赤になってマヤは俯きつつも、甘さよりも酸っぱさが胸に広がっていく思いがした。

(こんなに好きになっちゃって、どうしよう…)

一緒に居れる幸せな思いを、いつ後ろから追いかけてくる不安が追い越してしまうのか、口内に残った苺の果肉を舌でつつきながら呆然と考えた…。






「タバコが切れてる…。ちょっとそこまで戻って買ってくる」

別荘の前まで車で着いてから真澄は思い出したように言う。

「あ〜、じゃぁ、先入って、お米ぐらい研いでおくね。今日はカレーにしよ!」

そう言って、マヤは軽やかに車を降りようとする。

「忘れ物」

そう言って真澄はマヤの腕を掴むと、素早く口づける。

「わ、忘れ物って…!なんで、これが忘れ物なんですかっ!」

マヤはすっかり真澄のペースでいいようにされてしまってる事に、羞恥心を隠し切れない。

「一分でも離れるときは、こうするのが当たり前だ」

マヤは絶句する。この目の前に居る男が、一体大人なのか子どもなのか、わからなくなる。
どこまで本気でものを言っているのかわからなくなる。
そして、いつまでそんな事を言ってくれるのか、わからなくなる…。

「早く帰ってきてね…」

それだけ言って車を降りる。真澄の運転する車が別荘の前の道の角を曲がるとき、挨拶代わりのクラクションが2回軽く鳴る音がした。






「あ〜、もう速水さんてば、窓閉め忘れてるし〜」

明らかに暖房の利きが悪いのを訝しく思ったマヤは、真澄の書斎の窓が開け放たれているのを見つけた。出掛けに空気の入れ替えを行ったまま、閉めるのを忘れたらしい。日中吹き荒れた強い風の煽りを受けて、デスクの上の書類が何枚も床に散らばってしまっている。

(お仕事しないとか言って、やっぱりやってたんだな、速水さん…)

大都の関係書類と思われるそれらを、床に屈みながら手早く拾い集めていたマヤの指が止まる。途端に両手から滑り落ちる、拾い集められた書類。
震える指で、見つけてしまった仕事の書類ではないその紙面を拾い上げると、マヤはその場に崩れるようにして座り込む。

『愛するマヤへ』

見慣れた美しい文字でそう始まるその白い手紙は、指先を伝って、あっという間にマヤの全身の体温を奪っていく…。


...to be continued



2.11.2003








Top /next