彼女を見ればわかること 2
(速水さんは気が付いているんだろうか…)

社長室を後にし、長い廊下をトボトボ歩きながら、マヤはジーンズの裾から覗く、尖ったブーツの先を見つめる。
真澄に会っている間は、他愛もない冗談を言い合ったり、わざと言い争ってみたりしているが、マヤにとってはかけがえのないひと時である。例えそれが、全て自分が真澄に子どもとして見られているという証拠だとわかっていても…。

(速水さんは気が付いているんだろうか、あなたに馬鹿にされる度に、本当はキリキリ胸が痛んでる事を…)

さっきまで愛する人と同じ空間に居て、同じ空気を吸っていた事が嘘のように、冷たい空気が心の隙間から入り込む。手のひらの中で、あっという間に冷めていってしまう、自らの気持ちをマヤはぎゅっと握り締める。

(速水さんは、きっと知らない。こんなにあたしが、速水さんの事、好きだって…。きっと、夢にも思っていないんだ…)





冗談のように

「俺とデートは嫌かな?君も、大都の女優になったんだから、たまには社長の御機嫌取りもいいんじゃないか?」

と、からかう真澄にマヤは一瞬言葉をなくす。

(速水さんと、デート…)

押さえようと思っても、降って沸いたような、突然の誘いにマヤの鼓動は高まる。

「ご、ご機嫌取りならいっつもやってると思いますけれど…。ほら、呼ばれたら、あたし、ちゃんといっつもすぐに来るじゃないですか…」

本当は何か負かしてやるような事が言いたいのに、なんだか自分の弱さがはみ出てしまうような事を言ってしまう。

『君も案外、暇なんだな。もっと、仕事を増やしてやろうか?』

それぐらいは言われると思っていたマヤには、

「あぁ、そうだったな…」

そう言って切なそうに一瞬表情を歪めた、真澄の言葉が意外に響く。空気がおかしな方向に傾きだしていくのが耐え切れず、マヤは声をあげる。

「いいですね。そういえば、私と速水さんで、デートって無かったですよね。昔は結構いろんなところに連れまわされましたけど…。
速水さんこそ、こんなチンチクリンの女優のお相手で嫌じゃなければ、どうぞ!」

強気な発言も、最後の方で声が少し震えてしまったのに、真澄は気付いてしまっただろうか。頭の隅っこでそんな事を心配する。

「それじゃぁ、6時半に帝劇の前のBARで…」

と、真澄は店の名前を走り書きしたメモをマヤに渡す。

「じゃぁ…」

と言って、俯きながら出て行こうとするマヤに

「おい。一応、夜の芝居だからな。へそは隠してこいよ!」

言わなくてもいい嫌味を真澄は一発効かせた。
かっとなったマヤは言い返す。

「馬鹿にしないでください。これでも女優です。PTAぐらい弁えられます!!」

「……。
マヤ、それを言うならTPOだ…」

マヤは真澄の史上最強とも思える、馬鹿笑いを背に社長室を出てきたのだ。





(速水さんとデート…)

頭の中で何度も信じられないように、そのフレーズを確認する。それも、あと数時間後に。慌てて時計を見ると、まだ3時を少し回ったところだった。
家に一度帰って、着替えを済ませてくるにはちょうどいい時間だった。

(よし…!)

小さく心の中で握りこぶしを作って、マヤは自分を励ます。大きく深呼吸をして、体中の中身を入れ替える。

(見てろぉ!!)

切なさも愛しさも、今は冗談のように誤魔化して、真澄をびっくりさせる事だけに、集中した。





約束の6時半を5分ほど回った頃、真澄は帝劇の向かいにあるBARに駆け込む。素早く店内を見回し、まだマヤの姿がないのを認めると、ホッと胸をなでおろし、カウンターに腰掛ける。と、耳元で囁く声。

「ねぇ、速水さん。今、私の事見逃したでしょ。私だって気が付かなかったでしょ」

驚いて真澄が振り向くと、確かに先程視界に入りながらも素通りしてしまった、黒いドレスの女が居た。絶句したままの真澄を満足そうにマヤは見返しながら、笑う。

「ふふふふふ。どう?また、化けました?」

やっぱり少し照れくさいので自分で茶化しながらマヤは言う。咄嗟に切り返す言葉も失った真澄は、ついジロジロとマヤを見てしまう。
真冬だというのに、惜しげなく肩と背中を晒したその黒いドレスはとても品のいい素材で、一目でいいものだとわかる。寒さをしのぐためなのか、それとも、纏わり付く男の視線をよけるためか、肩には自然な感じでパシュミナのストールがかけられていた。

「第二話。『芸術劇場に行く』です」

訝しげに首をかしげる真澄にマヤは笑いながら付け加える。

「だからぁ、ドラマの第二話のお洋服。これもお買取したの」

あまりにも真澄が黙ったまま何も言わないのが恥ずかしく、マヤは一人で喋っている。

(やっぱり、似合わないのかな、私にこういうの。きっと、また馬鹿にしてるんだ…)

そんな想いが胸をかすめ、キリッと心臓が縮んだ瞬間、真澄の声がする。

「驚いた…」

普段どうでもいい女優の相手をしてる時は

『まるで真珠のようだ』やら
『美しい薔薇には棘がある』だの

いくらでも気の効いた褒め言葉が溢れ出てくるはずの、真澄の脳は完全にショートしてしまっていた。

(何か言わなければ)

そう思って焦って口を突いて出てきた言葉は、あまりにも情けないものだった。

「君にしては上出来だ…」

少しだけ哀しそうな表情を瞳に浮かべ、マヤは答える。

「それって、褒めてないですね…」

一瞬の沈黙が横たわった後、マヤは打ち消すように明るく促す。

「そろそろ開演ですよ。行きましょう」



劇場内のクロークにコートを預けたあと、真澄は思い切って肘をマヤに突き出す。

「…もし、君が嫌じゃなかったら…」

マヤは一瞬なんの事かわからないというように、真澄を見上げる。痺れを切らした真澄は、マヤの細い手を掴むと無理矢理自分の肘の中に閉じ込めた。

「迷子にならないように、掴まっていろ」

急に近くなった二人の距離と、真澄のスーツから立ち上るコロンとタバコのに匂いにマヤはクラクラしそうになりながら、しっかりとその腕にしがみ付いた。





芝居は素晴らしいものであった。どんな精神状態であろうと、芝居が始まればその世界に没頭できるマヤは、真澄が隣に居るのも忘れ、その世界に入り込む。
だが、2部が終わる少し前、マヤはある事実に気付いてしまい、現実に引き戻される。

共有した肘掛の上に置かれたお互いの手の、小指の先が一瞬触れた時、マヤの体内に電流が走る。一体どのくらいこうしていたんだろう。もしかして、もうずっと前から触れていたのだろうか?
気付いてしまった指先は、小刻みに震えだす。手を引っ込めればいいのに、それさえも出来ずに体は硬直したままになる。

(どうしよう…。震えが止まらない…。神様どうか、速水さんが気付きませんように)



真澄はずっと悩んでいた。この手を、この指を取ったら彼女はなんて言うだろうか。かつて、同じようなシチュエーションで強烈に拒絶された記憶が蘇る。

(あの時は、無理矢理脅しつけて座らせたんだったな…)

マヤは夢中で気付いていないが、真澄の手はマヤのその細い指先まで、あとは空気だけが1mm、二人の指の間を隔てる距離まで近づいていた。

(この1mmのために俺は何年、待ったのだ…)

真澄の指がその1mmを越えようとした瞬間、無意識に体を動かしたマヤの指が真澄のそれに触れる。触れている部分はわずかだというのに、体中の血がそこに向かって走り出したような錯覚を真澄は覚える。
そして、その触れ合った細い指先は、小刻みに震えだした。

もう、待てなかった。

真澄はその震える指先を少し乱暴に奪うように、包み込む。一切の有無を言わせぬ調子で…。
マヤは一瞬、体を強張らせたが、真澄に目をやる事もなく、ただ食い入るようにひたすらに舞台を見つめていた。


マヤは真澄を見る事が出来なかった。

(どうして?)

その想いは次から次へと溢れ出てきたが、答えを聞くのが怖かった。昔聞いた神話のように、今、真澄の顔を見たら、自分は石になってしまう気がした。

だから、見なかった…。

それでも、溢れ出る想いが指先を伝って、真澄の体に入ってしまえばいいのに…。それだけは心の奥で切に願って、それだけが自分に許された唯一の行為であるかのように、舞台を見つめ続ける。


1.11.2003









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