天使の休日 6
「ご苦労だった。雑誌社の方からも記事の取り下げの連絡が入った。マヤと田辺の写真のネガもすでにこちらの手に渡ってる。 あまりにあっさりとした全面降伏で驚いてるよ、どんな手を使ったんだ?」

真澄の表情には、忠実な部下をねぎらう、陰りのない笑みさえ浮かぶ。

一瞬沸き起こった殺意のような行き場のないやるせない気持ちを押し隠すように、聖も曖昧な笑みを浮かべてそれに答える。

「『目には目を』ですよ、真澄さま……」



「二人には絶対言わないでよ。アタシがこんなことしたって絶対言わないでよ」

そう言って自分の腕をきつく握り締めた、天使の強い眼差しを聖は思い出す。

「あの二人さぁ、ただでさえアタシに、すっごい借りがあるわけよ。だから、これ以上負い目感じさせちゃうとさ、 もうアタシのために家ぐらい建てかねない勢いなのよ。ね?だから、内緒にしといてね」

予想以上に強く握り締めてしまったその腕への束縛を誤魔化すように、そんなことを言って、不器用に張り付けた 笑顔の痛々しさが、聖の胸を刺す。



「一つだけお聞きしてもよろしいですか?」

「なんだ?」

どこか思いつめた様子の聖を訝しげに見つめながら真澄は答える。

「杏樹というあの方ですが、真澄さまにとって特別な方なのですか?例えば、マヤさまのような……」

そこまで聞いて、真澄は柔らかな苦笑を浮かべ首を振る。

「特別な存在ではあるが、お前が思っているような関係ではない。前にも言った、命の恩人だ」

「それでは、彼女に女性として何か特別な感情を寄せていらっしゃるということはないのですね」

外堀から埋めていくような形で、聖は真澄に確認を求める。
何か思い当たったように、真澄の表情が変わる。

「聖……、あの女はやめておけ。お前の相手にはならない」

聖の神経のどこかに亀裂が入る。

「それは上司としての命令ですか?」

挑むような強さで聖は食いつく。予想外の聖の強い眼差しに真澄は、一瞬息を止めたあと、静かに答える。

「いや、命令ではない。男としての純粋なアドバイスだ。お前の好きにしろ」

諦めたように真澄は大きなため息を紫煙とともに吐き出した。

「報われないぞ」

タバコを灰皿で押しつぶす。

「報われないことには慣れていますから……」

冷静な聖のその声を真澄は、噛み砕くように小さく何度も頷きながら受け入れる。

「そうか……」






「やだ!あたし、やっぱり結婚なんて出来ない!速水さんなんかと、結婚なんて出来ない。 結婚しないーー!!」

マヤは特大のクッションをきつく抱きしめながらそう叫ぶ。

「もーしもーし、北島さーーん!北島は北島でもサブちゃんじゃなくて、マヤちゃーん!! もぉぉぉぉ、何言ってるのよぉ!ん?マリッジブルーってヤツかな?そ〜んなものは、この天使さまが お空の向こうに持って行ってさしあげちゃったりなんかしちゃったりしますからね、ここは一つ素直に……」

「いやっ!!いやなのっ!!あんな嫉妬深い人、やっぱり嫌!!」

マヤは駄々をこねるように叫ぶ。
天使は仁王立ちになって、腰に手をあて、フローリングの床の上に座り込んだそんなマヤを見下ろし、大きなため息を一つ吐く。

結婚式の前日、マヤと真澄はまたもや振り出しに戻ったような喧嘩をしていた。

「ちょっとキッチン借りるよ〜」

そう言って、天使は何気ないふうにリビングを後にする。
マヤに気付かれないように、電話をキッチンに引っ張り込み、ドアを閉めると、ドアの向こうの気配を気にしながら、ダイヤルを押す。

turrrrrrrrr

短い呼び出し音のあと、それはすぐに繋がる。

「あ〜、もしもし?ディスプレーには、マヤちゃんマークでてるかもしれませんが、残念ながら、偽マヤちゃんですので、 血迷って愛してるとか言わないでくださいね」

いつものようによく回る口で、短くご挨拶を入れると、さっそく本題に入る。

「ちょっと、マヤちゃんに何したの?ビービー泣いてて手がつけられないんですけど」

思わぬ小姑の攻撃に真澄は一瞬ひるむが、黙っていれば一方的に攻撃されるのがオチと分かっているので、とりあえず言い訳を試みる。

「いや、別に大したことじゃないんだが……」

「あぁ、もう、大したことか、ぜ〜んぜん大したことじゃないかは、この天使ちゃんが決めますから、さっさとお言い!!」

一言ごとに小気味よく突っ込む天使のそれに、真澄は敵わないという苦笑を浮かべながら、言葉を繋ぐ。

「田辺の一件にお灸を据えたんだ」

「なんて?どうやって?何、言ったのさ?」

天使はなんとなく嫌な予感がして、言いながら眉間に皺を寄せる。

「仕事の上でするだけじゃ物足りなくて、ついにはプライベートにも進出か?と。あぁ、まぁ、もちろん冗談で言ったわけだが……」

「ぶわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっかぁっ!!!」

受話器の向こうの真澄の鼓膜がキーンと鳴る。

「アンタ、馬鹿じゃない?
かぁぁぁっ!!男の隅っこの隅の隅にも置けないね。あぁ、もう物置にでも閉じ込めてやりたいよ。 いや、お便所がいい。そうよ、シャチョーにはお便所で充分だわ。しかも、ぼっとん、とかね!!」

ひとしきりこき下ろしたあと、天使は息継ぎをすると、トーンを落として言う。

「ねぇ、分かってます?あなたがたね、明日、結婚するんですよ。結婚!ちゃーんちゃーかちゃーん、ちゃーんちゃーかちゃーんって。 どうするのよ、バージンロードよ、バージンロード。この際だから、マヤちゃんがもうバージンじゃないよの、 野暮な突っ込みはそれこそ、ぼっとん便所にでも突っ込んでおいてですね、何やってるんですか!天下の大都芸能 鬼社長と世紀の紅天女の大女優のビッグビッグウェディングですよ。 絶対幸せにならないといけないのよ、あなた達。何、くだらないことやって、一生一度の晴れ舞台に、 痴話げんかしたまんま突入しようとしてるのよ」

あまりの天使の剣幕に、真澄は完全に言葉を失う。

「今晩7時。水城さんに頼んで、アルポルトでも予約してもらっておいてください。マヤちゃん連れてきますから。 『あっ、残業が!』とか『あ、貧血が!フラッ』とかやったら、今度こそぼっとんに突き落とすからね、分かった?!」

真澄はついに耐え切れないというふうに、馬鹿笑いをはじめ、わかった、わかったと、天使に降参する。

「今晩7時だな。必ずマヤを連れてきておくれよ」

「かーーーーーーっ!!調子いいこと言っちゃって、あんまし人を当てにしないでよねー!」

そう言って天使はがちゃりと乱暴に受話器を置く。
これでなんとかなりそうだ、そう胸をなでおろしながら。
その瞬間、けたたましく電話が鳴る。一瞬ビクリと飛び上がったあと、天使は受話器を取る。

「何よ、まだ言い残したことでもあるんざますか?そういうことはですねぇ、今晩直接ご本人さまにお会いになって、 申し上げるのがよーござんすかと――」

「……杏樹さん?」

その穏やかな低い声に、ぐらりと気持ちが揺れ、心に穴が開く。
遠い昔に叩き込まれた天使の掟が脳裏に蘇る。

――決して人間に恋をしてはいけません。

受話器を握った指先が、一気に冷たくなっていく。


6.16.2003








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