天使の休日 9
「諦めの悪い男ね」

唇を閉じたまま横いっぱいに伸ばしたような苦笑を一つ浮かべ、 鼻から息を吐き出しながら、軽く頭を左右に振る。呆れてものも言えない、そんなふうを装うように。
けれども天使はまっすぐに聖のほうへ歩みを進める。体が触れるほどの距離まで近づくと、くいと顎の角度を挙げ、 その肉感的な唇を挑発的に尖らせる。10cmのピンヒールを履いてしまえば、二人の身長差はほとんどない。
そんな天使の様子に聖も苦笑を返しながら、その魅惑的な唇に問う。

「諦めの悪い男は嫌いですか?」

からかうように、誘うように唇を歪ませたあと、あっさりと天使は答える。

「好きよ」

左手の細い指先で聖のネクタイを掴んだかと思うと、一気に引き寄せ、その唇を奪う。

「ヤバイくらい好きよ」

そう言ってもう片方の手を聖のうなじに差し入れる。聖の両手がそのか細い腰に回され、薄手のドレスは その手のひらの熱を容赦なく、天使の体内に送りこむ。
角度を変え、場所を変え、何度も交わされるキス。
ふいに聖の下唇を薄く噛んだまま、天使が言う。

「キスがうまいのね」

眉間の筋肉を少しだけ上げて。

「あなたもね」

長い前髪の向こうの瞳が屈託なく笑った。






「二人は仲直りされましたか?」

国道246の車線を巧みに変えながら、聖は助手席の天使に問う。

「あー、したした。やっとこさっとこね。でっかいお灸、据えといたけど……」

「お灸?」

訝しげな表情の聖に、天使は思いついたようにニヤリと笑う。

「キス」

瞬時に聖の表情が変わる。聖が無言のままなのを確かめたあと、確認の判子を押すように天使は言う。

「シャチョーとキスしました」

突然の急ブレーキに激しく体がつんのめる。

「ちょっ、何っ?!あぶなっ……」

道路の脇に車を寄せると、激しく睨むような視線で挑まれる。

「真澄さまがあなたにしたのですか、それともあなたが……」

尋常でない聖のその様子に、天使は両手の手のひらを見せながら言う。

「やだ、何、本気で怒ってるのよ。お灸だって言ってるでしょ。そういう意味じゃないわよ」

そこまで言って天使は噴出すように軽く笑う。

「嫉妬……ですかぁ?」

悪戯っぽく、上目使いで見つめながら、体を前に乗り出し、明らかに不機嫌な聖の顔を下から覗き込む。
聖ははめられたことにようやく気付くと、大きくため息を一つ吐いて、顔を逸らすように窓の外を見る。

「あなたは意地悪な人だ」

「そうね、意地悪な女、嫌い?」

天使はさらに身を乗り出して、お得意の唇を尖らせたポーズで聖を覗き込む。

「意地悪は嫌いですが、あなたのことは好きですよ」

さらりとそう言って、聖は天使を見つめ返す。

「あたしも嫉妬深い男、大好きよ」

笑いながら、その尖った唇を甘えるように重ねた。






体中に思いを刻まれるように聖に抱かれたあと、喉の渇きだけではない、体内の飛ばされた水分が水を求める。 スルスルと肌触りのよい薄いスリップドレスを再び体に纏うと、ミニバーの扉を開け、 エビアン水のボトルを切る。
壁の向こうからは聖が浴びるシャワーの音が薄く聞こえた。

ふと虚しくなる。
何事もないかのように、そう何事も起こらないかのように振舞う自分が。ホテルの窓の外に横たわる、煩雑な東京の夜 に目をやりながら、目を逸らしていた問題が足元から這い上がる。

まるで、恋人のよう……。

そんな言葉が浮かぶ。
そう、まるで人間同士の恋人のよう。

天使と人間。あってはいけないその組み合わせの罪深さが、目を逸らしていた心の隙間から這い上がる。
明日になれば、自分は背中に羽根の生えた天使に戻る。明日になれば、自分はこの人にキスはおろか、触れることも 触れられることも、その瞳に存在を映してもらうことさえ叶わぬ夢となる。

そして何も知らないこの人を黙って置いていくことになる……。



ガチャリと扉の開く音がして、プツリと思考が遮られる。
まるで久しぶりに会うかのように、聖は待ちかねたように天使に近づくと、その唇を奪う。聖の濡れた髪から、雫が滴り、 天使の開いた胸元、鎖骨のくぼみに水溜りを作る。

「やっぱりあなたの目、キレイ」

そう言って、天使は細い指先をその濡れた髪に荒く入れると、そのままかきあげ、聖の隠れた目を露わにする。

「あなたの目が好きだわ」

その瞳に直接囁くように言う。

「この目はあなたのものです。私はあなただけしか見ないから……」

その言葉は、甘く胸を焦がし、そして強烈に切り裂いた。
天使の中で小さな決心の泡が弾ける。

「聞かないの?」

何気ないふうに、けれども確実に核心部に触れるかのように天使は言う。

「この胡散臭い女の正体とか、まぁ、どっから来たのかとか、何して生きてるのかとか、年はいくつかとか、 血液型とか星座とか、好きな食べ物とか、今までで一番こっぱずかしかった衝撃的事件とか……」

言ってる途中で、やはり怖くなってしまって、誤魔化すようにくだらない言葉を慌てて付け加えてしまう。

「聞いて欲しいんですか?」

そう静かに返される。思わず言葉に詰まり無言になっていると、聖は穏やかに言葉を繋げた。

「興味がないわけではないですよ。あなたのことならば、なんでも知りたい。けれども、言えない事情というものを 私は分かりすぎるほどに分かっている。あなたが、私について何も聞いてこないのと同じように、私もあなたには 何も聞けません。
今、こうして私の目の前に居るあなたが全てです。それだけでは駄目ですか?」

その優しさと理解に、涙が出そうになる。
けれども事実はそうではないこと、聖が言うように自分達は同じようにお互いに 秘密を持ったワケありの恋人なのではなく、自分だけが一方的に聖の全てを本当は知っていることに、罪悪感の塊が 胸を疼かせる。
そして、聖は自分について何も、そう、何も知らないということに……。
明日になれば、その存在さえも消えてしまうということを知らないということに……。

一年前に、何も言わずにマヤを置いていく真澄に対して、さんざんはっぱをかけたのはどこの誰だったのだろう。
まさか、自分がこのような選択を迫られる崖っぷちに立たされる日が来ようとは、夢にも思わなかった。

「杏樹さん?」

遠くを見たまま心がどこに飛んでしまっていたところをその声に呼び戻される。

「……じゃない。私は杏樹なんかじゃない……」

低い声が地底から這い上がるように、心の割れ目から逃げ出す。それはとても静かに、残酷に……。

「私はもうすぐ206歳になります。
私は天国で生まれ、天国で育ち、そして天国で生きてます。
私の仕事は、死んだ人を迎えに行くこと。天国まで送り届けること。
困っている人を助けること。時々、魔法をかけること……。
私はあなたの恋人になれる”女”でもなく、”人間”でさえもなく、あなたからみたらオバケみたいなものかもしれない。
私は……、天使です……」

永遠の沈黙にさえ思われる数秒の闇。天使はまっすぐに聖の瞳を見つめる。喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むことさえ困難に感じる。 聖の前髪から雫がまた一つ滴り落ちる。その瞳は何も映さないほどに、硬直したまま、こちらを見つめ返す。

「あなたらしい、冗談だ……」

ようやく聞こえた聖のその声は、一切の理解を拒否するように静かに、けれどもある種の拒絶を持って響く。

「天使だから、私とは居れない、そう仰りたいんですか?」

何も映さなかった瞳に少しずつ、怒りの色が浮かぶ。

「私を本気でからかいたいのですか?それとも、怒らせたいのですか?だとしたら、その二つはすでに達せられましたよ、杏樹さん。
何一つ知らなくても、知ることが許されなくてもあなたを愛したい、私のその思いを、あなたはそういう冗談で一喝すると 仰るわけですね?」

その声は震え、そして凄む。

天使は自分の言ったことを後悔する。
理解してもらおうと思ったことを後悔する。
この胸の痛みを分かち合ってもらおうと思ったことを後悔する……。

「お互いがお互いのことを何も知らないから、お互い様だってあなたは言うけれど、それは違うわ……」

質問の答えではない天使のその言葉に、聖は出口の見えない迷路に立たされたような心境になり、顔をしかめる。

「私はあなたのこと知ってるもの。何もかも、あなたの秘密知ってるもの……。
あたしだけが知ってるんだもの……。そんなのフェアじゃないじゃない」

「あなたが私の何を知っているというのですか?」

高圧的な勢いさえ込めて、聖が喰いつく。

「戸籍がないことも、大都芸能の数々の裏工作の実行員であることも、法に触れるようなことをいくつも犯しているということも……」

「それはあなたが真澄さまから聞いた事情でしょう」

決め付けるように聖は間髪をいれずにそう言い切る。
天使は小さなため息を一つつくと、少しも焦らずに、さらに穏やかな声で続ける。

「シャチョーは知っているの? あなたが子供の頃飼っていた犬の名前が優作だったってこととか、あなたの初恋の女の子が 北村さんていう小学校で隣の席だった子だったこととか、どうしてあなたが生クリームが嫌いかって言うと、 子供の頃、お母さんが作ってくれたケーキに、仕上げで塗られるはずだった冷蔵庫のボール一杯の生クリームをあなた全部食べちゃって、 それでお腹壊して、それ以来トラウマで食べれないってこととか、それから、雨が降るたびに あなた通学路に捨てられてた子猫の心配して、新しいダンボール持っていってたこととか、シャチョーは知ってるのかな?
例えば、今日してるそのネクタイ、2ヶ月前にヤバイ男に尾行されてたあなたが、それを撒くために入った、 青山のHUGO BOSSのお店で買ったものだって知ってるの?値段は税込み12600円。 そんなことまで社長は知ってるの?ねぇ、知ってるの?」

聖は白く頭が染め抜かれ、言うべき言葉も、理解するべき事も見失い、ただ何度も首を左右に振りながら、天使を見つめる。

「気持ち悪い?こんなに勝手にあなたのこと全部知ってて、気持ち悪い?」

呆然と立ち尽くす聖に天使は哀しい声を落とす。

「天使なんてその存在を知らずに信じてるうちは綺麗だけれど、実際に会ったら、おばけと一緒。気持ち悪いもんなのよ……」

そう言って天使は聖から顔を背けるように目を逸らした。

次の瞬間、天使は抗えないほどの力で強く抱きしめられる。息もできないほどに。

「あなたが……、あなたがもし本当にあなたの言うところの天使だったとして、それのどこに問題があるのですか? 私たち二人の関係が続かなくなるほどの問題があるというのですかっ?!」

興奮した勢いを隠しきれない声で、聖は叫ぶ。
腕を垂直に下ろしたまま折れるほどの強さで抱きしめられると、思わず溢れるほどの思いとともに、この腕の中で、この胸の中で 全て壊れてしまいたい衝動に駆られる。けれども、天使は息継ぎさえもままならないその腕力に抵抗するように、 冷静に言う。

「あるのよ。問題大ありなのよ」

かき抱くようにまわされた聖の腕の力が少しだけ緩む。

「あなたが今こうしてあたしのこと見ていられるのも、抱きしめられるのも、キスできるのも、Hできるのも、全部あたしが今は 期間限定の人間だから。今、一週間お休みもらって天使じゃなくて、人間としてこっちに降りてきてるから。 だからなの……。
あたしが天使に戻ったら、キスもHも問題外、あなたはあたしの存在すら感じられないんだから。 どれほど私があなたの側に居ても、あなたには私は居ないのと一緒なのよ」

聖の腕から力が抜ける。手のひらの温かいぬくもりがゆっくりと背中から離れていくのを、天使は目を瞑って堪える。

「一週間が終わるというのは……」

聖の絞るような声が低く囁く。

「……明日よ」

そう呟いて、天使はゆっくりと目を開ける。

呆然とした慟哭に包まれた表情で、こちらを見つめる聖を目の前に見る。

「でも、大丈夫よ……。明日が来て、その時が来たら、あなた全部忘れるから……。あたしのことなんて、 キレイさっぱり忘れるから」

理解できないという焦燥感の滲む表情で、聖が天使のその陰りのある表情の向こうにあるものを読み取ろうとする。

「どういう意味ですか?」

「天使と人間の恋は掟破り。掟を破った天使は、恋の相手の記憶を持ち去るの。
だから私は明日、私に関するあなたの全部の記憶を持っていく。あたしは……、あなたに忘れられる運命……。
あなたが私のことで苦しむことなんてないの……、だって覚えてないんだから」

そう言って哀れな弱々しい笑みを浮かべる。その貼り合わせたような貧弱な笑みを浮かべる以外、どうすることも出来ない、そんなような表情で。

聖はガクリと力が抜けたように、ベットの上に呆然と腰を下ろす。
天使はゆっくりとその聖のもとに歩み寄ると、その頭を壊れ物のように胸に抱き寄せる。

「本当はね、言わないで勝手に消えちゃおうって思ってたの。そしたら、あなたは私が天使だって知るわけもないんだから、 記憶も消さなくっていいわけで、あなたきっと私のこと覚えててくれる。
でもね、あなたの哀しむ顔見たくないの。突然、勝手に目の前に現れて、勝手に心引っ掻き回して出てった私のことなんかで、 哀しんで欲しくない。哀しいのは、私一人で充分だよ……」

聖の柔らかい濡れた髪の間を、天使の細い指先が滑る。

「どうして、あなたはいつでもそうやって勝手に決めるんですか?あの時も、今も、全て自分で引き受けようとする」

お腹のあたりに、聖の吐く生温かい息が当たる。

「天使だから……。あたしは、天使だから。
天使は、人の哀しみと苦しみを肩代わりするために、居るのよ……」

そう穏やかな静かな声が、聖の髪の間に落ちる。



ベッドサイドの小さな時計の針がカチリと12時に合わさり、最後の休日の始まりを告げた……。



6.17.2003








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