桜の花の咲くころに… 1
※※このお話は長編『手のひらで融けた雪』の続編となっております。お読みになる際は、そちらをお読みいただいた後のほうが、より一層お楽しみいただけると思います。



「今日も返事は聞かせてもらえないのかな…」

いつものように車でアパートまで送ってもらう途中、あと信号2つ分の距離まできて、真澄は口を開いた。もう何度もこの話題は二人の間を通り過ぎ、そしていつも同じところで止まっていた。

「え…、あの…、返事って言われても…、返事はもうしてあると思うんですけど…」

困ったようなマヤのその口調に、真澄は大きく一つため息をつく。

「俺の聞きたい返事はYESだけだ。ごちゃごちゃ理由をつけた上でのNOは、返事のうちに入らないっ!」

思わず、声を荒げてしまう。もう少し違う言い方をされていたら、マヤもそんな風には思わなかったかもしれないが、ついカチンときてしまう。

「な…、なに、その…『ごちゃごちゃ』って…。あたし『ごちゃごちゃ』なんて言ってない。ちゃんと理由言ってるじゃないっ」

「だから、それを『ごちゃごちゃ』だって言うんだ!誰も君がほんとに『ごちゃごちゃ』と言ったとは言ってないだろうが!」

つまらない言い合いになってしまったことに、真澄は一層苛立ちを隠せない。これではまた、ただの痴話喧嘩で終ってしまう。言いたいことはこんなことではないのに…。

車は静かにマヤのアパートの前で止まった。
すぐに黙って降りるかと思ったら、マヤは下唇を前に突き出すような仕草で怒った顔のまま、シートベルトも外さずにいた。

「外して欲しいのか?」

冗談のように真澄が言うと、マヤはムッとした表情で答える。

「結構です!キスされるからっ!!」

そう言って、乱暴にシートベルトを外して、外へ飛び出そうとするので、真澄は大きく息を吐く。怒りや焦りもなんとか、体の外へ出て行ってくれるように、と。その大きなため息が怒鳴られるよりもマヤには堪えたので、さすがに気まずくなって、ドアにかけた手が止まる。

「今のままじゃ、だめですか…?」

小さな声が俯いた顔からこぼれる。

「こうして、一緒に居れるようになって一年たったけれど、アタシ、今でも時々幸せで立ちくらみ起こしそうになるんです…。あまりに幸せすぎて怖くなるんです…。これ以上のことを望むなんて、あたしにはとても…、とても無理なんです…」

必死にそう言うマヤの横顔は髪に隠れてよく見えない。真澄の指がそっと伸び、その髪を耳にかける。先月の誕生日にプレゼントした小さなアメジストのピアスが光る。晒された頬の上を涙が一筋伝わっているのを見て、真澄は自分の心臓のどこかをぎゅっとつねられたような気分になる。

「俺も同じ気持ちだ…」

そう言って優しくその涙を親指でぬぐってやった。

「君が幸せで立ちくらみを起こした時も、支えてやる。
幸せすぎて怖くなったら、俺が『怖がらなくていい』と抱きしめてやる。
そして俺が同じようにそうなった時は、同じように君にそうして欲しい…」

拭っているそばから溢れ出る涙を、もう一度拭いとると真澄は、もう5度目にもなる言葉を発する。

「…結婚しよう…」

瞬きもせずに数秒、その濡れた大きな瞳でマヤは真澄を見つめたあと、瞼を閉じると、大きく口で息をした。心の中身を入れ替えるように…。

「…それでも、やっぱり…、できません…」

マヤの頬を優しく撫でていた真澄の手が止まり、離れる。自業自得なのに、まるで心のぬくもりまで失ってしまったかのように、マヤは不安になる。その瞬間、真澄は激しく車のハンドルを叩き、やるせない怒りをぶつけた。

「君も相当、強情だな…。
明日も撮影が早いんだろ?早く帰って寝なさい」

そう言っていつものように同じ場所で追い返されてしまう虚しさを押し込めた。
マヤはまだ何か言いたそうだったが、数回不自然な瞬きをしたあと、『おやすみなさい』と一言だけ残して車を降りた。その小さな背中がアパートのドアに吸い込まれるのを見届けてから、車を発進させるつもりでいたが、気が変わり、真澄は車を降りる。
夜風を避けながらタバコに火をつけると、ゆっくりと歩き出した。



紫織と婚約を解消して一年。
マヤと付き合い出して一年。正確にはその前からも付き合ってはいたので、一年と3ヶ月。今日で5度目のプロポーズも、断られてしまった。
原因は色々考えられた。まだ新しい結婚話もない紫織に対する気兼ね、そして溝の埋まらない英介との確執、そして何より、自分が現在の大都芸能の社長の座を追われることへの責任をマヤが感じているのは、真澄にも明らかだった。
英介との約束通り、鷹宮との事業提携失敗による損失補填は確実に埋められてきた。どういった配慮がなされたのかは分からないが、予想していたような鷹宮サイドからの圧力や妨害は全くなく、すでに始まっていた提携事業に関してはこれまで通りに進められたほどだった。紫織にそれほどまでの発言力があるとは到底思えなかったが、かと言ってそれ以外に理由は考えられなかった。
最初の頃は、真澄が出した予定通り、もしくはそれ以上の結果を持ってくる真澄に対して、苦虫を潰したような表情で嫌味を浴びせていた英介であったが、最近は報告書を渡しても

「うむ…」

と頷いて、パラパラとめくるだけで、さして興味がある様子さえも見せない。
どこか、諦めたような寂しそうな表情を見せることに、真澄も気づいてはいたが、『出て行く』と大見得を切った手前、今さら『残らせて欲しい』などと話し合いを持ちかける気にはならなかった。また、今さら英介がそれを望んでいるとはやはりとても思えなかったのもある。英介が自分に固執するとすれば、おそらくそれは自分が『紅天女』を所有しているからだろう。
二人の間に最近、時折流れるあの妙な空気は、恐らく日々確実に迫ってくる『決別の瞬間』への秒読みだと、真澄は思う。義理ではあるが親子であった自分と英介、自分と大都芸能、そして、二人を繋いでいた紅天女との『決別の瞬間』が…。
夜風に吹かれただけではない薄ら寒さが真澄の背筋を掛けあがる。

何かをなくすことには慣れていたはずなのに…。
切り落とすことにも、切り落とされることにも、もう何も感じない人間になっていたと思っていたのに…。


さっき別れたばかりだというのに、こんな時、どうしようもなくマヤに会いたくなる。会って、抱きしめて、強く胸の中に閉じ込め、

「君だけはどこにもやらない。誰にも渡さない。一生側に居て欲しい」

そう言って、本当に閉じ込めてしまいたくなる。この腕の中に…。



その瞬間、夜道の静寂を打ち破る、携帯の着信音が響き渡った。ふいのことで必要以上にドキリと心臓が跳ね上がったのに、苦笑しながら真澄は着信を見る。その電話の主の名を見た瞬間、思わず顔がほころんだ。

「どうした、チビちゃん。もう、寂しくなったか?それとも、ついに返事をする気になったか?」

「ち、ちがいますっ!ぜんぜん、ちがいますっ!」

何もそんなに一生懸命否定しなくてもいいだろうに、と真澄は心の中で苦笑する。

「あ…、あの…、さっきはごめんなさい。呆れたでしょ?」

普通の女がこんなことを言えば、それはあからさまに男を試す見え透いた陳腐な誘導尋問でも、マヤの場合は大真面目な問いなわけで、こちらも大真面目に答えなければならない。

「残念ながら、俺はこうされると余計に燃えるたちなんでね。諦めたりなんてまだしない」

その言葉に、マヤはため息とも吐息ともつかない音を電話口でたてる。

「でも、やっぱり…、ちょっと怒ってるでしょ?」

「いいや…。もう、怒ってない…」

真澄は歩くのをやめ、立ち止まって答える。

「あたしのこと、ちょっと嫌いになった?」

「…好きだよ」

受話器の向こうでマヤが、小さくシュンと鼻をすする音がした。



「星がきれいだ…。今日は空気が澄んでいる…」

立ち止まったまま夜空を見上げながら真澄は言う。

「そうですね…」

静かに同調するマヤのその声は、その日一番真澄にとって心地よいものであるような気がした。

「君も見てるのか?」

「見てますよ…。あなたのすぐ後ろで…」

その言葉が受話器を通して伝わってきたものと重なったので、真澄は驚いて振り返る。数メートル後ろでマヤは携帯の受話器を耳に押し当てたまま、笑っていた。照れたような、恥ずかしそうな、少し曖昧な笑いを浮かべて…。
真澄は受話器を耳に押し当てたまま呟く。

「参ったな…」

「参りましたか?」

お互い目に見える距離で佇みながら電話を通じて会話をするこの不思議さが、なんともおかしさを誘う。

「走ってこないのか?」

「え?」

真澄の唐突な問いに、マヤは訝しげな表情を浮かべる。

「君が今出ているドラマだったら、ここで主人公は走ってきて抱きつくんじゃないか?」

笑いながらそう言う真澄に、マヤも笑い出す。

「やだ…、もう…。
でも…、どうしようかな…。会いたくなって来ちゃったから、なんだか急に寂しくなって来ちゃったから…、そうしてもいいですか?」

「おいで…」

そう真澄の声が優しく、受話器の中と闇夜の中の両方で響いたのを合図に、マヤは駆け出す。
もう春はそこまで来ているとはいえ、夜ともなると気温は容赦なく下がる。冷たく冷えた真澄のトレンチコートの表面がマヤの頬に触れる。けれども、真澄のその胸の中はやはり暖かく、大きな腕に抱きしめられる安心感は、ここだけは安全地帯であると教えてくれているようにマヤには思える。真澄の手のひらがゆっくりと、俯いたままのマヤの頭を撫でる。

「あと一週間…」

ぽつりと自分の胸の中で呟いたマヤのその声に、真澄は首をかしげる。

「なにがだ?」

「うん…、あと一週間ぐらいかなぁ、と思って…。桜が咲くの…」

ようやく思い当たったように真澄は、辺りの木々を見回す。外灯に照らされた桜の木々にはまだ硬く閉じた蕾が、夜の冷気のもと、しっかりと身を固めていた。

「この辺の桜並木もとっても綺麗なの…。速水さんも…、会社の近くとかで見れる?」

「会社から歩いて行ける距離にはないが、都内だったらいくらでもあるからな…」

否定したのか肯定したのか分からないような返事を真澄はしてしまう。

「…桜の花が咲くまで、待っててください…。
それまでに、あたし、ちゃんと色々するので、待っててください…」

そう言ってまた俯いてしまうマヤの声が頼りなさとは違う震え方をするので、真澄はズキリと胸が痛くなる。大人気なくこの小さな少女を追い詰めているような気持ちにさせられる。

「…わかった…」

何か、かけるべき言葉を捜したが結局見つからず、それだけ言うと真澄は後はただ黙って、マヤを抱きしめるだけだった…。











4.3.2003


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