桜の花の咲くころに… 2
結婚、結婚、結婚、結婚…。

最近、頭の中を駆け巡るのはこの二文字。
真澄と居るのは幸せだった。「幸せ」という言葉の意味がわからなくなるほど、幸せだった。同じ年頃の顔見知りのアイドルが結婚した際の記者会見で

「幸せになります」

と言ったのをマヤは不思議に思った。
自分はもう、こんなに幸せなのに…。結婚なんかしなくても、こんなに幸せなのに…。
けれども、私たちが結婚したら、「幸せ」に思わない人がきっと居る…。



はっきり言ってマヤは、真澄と居れるのであれば、どんな形でも良かったのだ。結婚でも同棲でも、ただのお付き合いでも…。望むものはただ一つ、真澄も幸せであることだった。
けれども、一年前に突如訪れた圧倒的な幸せは、マヤに圧倒的な戸惑いももたらした。
『何もかも捨ててきた』
という真澄に対して、自分も何もかも忘れた振りをして、その胸に飛び込んだつもりでいたが、今はよくてもいつか真澄は後悔するのではないか、という不安は日に日に大きくなった。
真澄は自分を愛していると言ってくれる。それは疑ったりなんかしていない。自分が心からそう誓えるのと同じように、きっと彼もそうなのだろう、と理屈ではない直感で分かっている。
けれども、平凡な自分が想像する以上に、真澄は仕事の出来る男であり、また求められる男でもあると分かっていた。その真澄が今までの人生で培ってきたものを一瞬にして自分は奪い去ってしまうということに、マヤは押しつぶされそうな不安を感じるのであった。
敢えて普段はそんなことは口には出さないマヤではあったが、一度だけ恐る恐る聞いてみたことがある。全てを失うことに未練はないのか、と。

「君が居るなら、それでいい」

真澄の返事はそれだけで、後はもうその話は打ち切りといった様子で、遮られてしまった。

そして、もう一つ…。
真澄が英介と約束した1年という期限がもうすぐやってくる。鷹宮との事業提携解消による損失補填に従事してきた真澄であるが、この穴が埋められればその時こそ、彼が大都芸能、ひいては速水の家を出るときだと聞いている。それが意味することは、義理とは言え、長年続いてきた親子の縁の断絶を意味する。

「もともと、紅天女だけがこの醜い親子の縁を繋いでいた。俺にとって、紅天女の持つ意味が変わってしまった今となっては、それももう、どちらでもいいことだ…」

真澄はそう言って、マヤが心配する英介との関係を、全く修復する気さえないという素振りを見せていた。
マヤにはそうは思えない。
地位も名誉も財産も全てを持ち合わせたこの大人たちが、たった一つのことに関してはあまりにも不器用であることを、痛々しく思う。

それは…、お互いに対して許しを乞うこと…。

真澄と英介のいがみ合いを見ていてマヤが思ったことは、お互いにお互いを許していない素振りを見せ合っているが、実は何よりも、相手に許されないことを恐れているのではないか、と。
本当の問題は許すことでも、許しあうことでもなく、「許されること」を受け入れることではないか、と…。
けれども、そこまで分かっていながら、あまりに無力である自分の存在は、問題を悪化させることは出来ても、解決させることは到底出来ない、とマヤはため息づくばかりであった。

そして、マヤが心痛める、結婚を遠ざけるもう一つの原因…、紫織であった。 真澄との婚約解消後、

「速水真澄程度の男だったら、鷹宮にはいくらでもいる」

と豪語する鷹宮扇の言葉通り、いくつもの見合い話が持ち込まれ、実際いくつかの縁談が進みかけたようだが、いまだ結婚には至っていなかった。詳しい事情を知らないマヤには、預かり知らぬことだが、それでも脳裏をよぎるのは、今でも紫織は心を痛めているのではないか、という思い。同情とは違う種類の感情で、マヤはいつもそのことが頭を離れなかった。

紫織が結婚するまでは、結婚出来ない…。

真澄にそれを言ったことはなかったけれど、なんとなく漠然とそう思い込んでいたのも事実であった。



『…桜の花が咲くまで、待っててください…。
それまでに、あたし、ちゃんと色々するので、待っててください…』

いつまでも逃げているわけにはいかない。
けれども、自分の気持ちを切り替える以外にも、しなければいけないことがあるような気がマヤにはするのだった…。






「マヤちゃん、今日は2時からパレスホテルでインタビュー3つ入ってるから」

移動の車の中で、マネージャーがスケジュールを確認する。

「雑誌でしたっけ?」

窓ガラスに指を当て、外の景色を見ながらマヤは言う。車が揺れた瞬間、中指の指輪が窓ガラスに辺り、カチャリと音を立てた。先月の誕生日に真澄から貰ったピアスとお揃いのアメジストの指輪。一瞬迷ったあと、左手の中指に入ってしまったので、そのまま中指にはめている。
本当は薬指のために買ってくれたのだろうか…。

「うん。一個はテレビガイドの短いインタビューだけど、残りの二つはファッション誌だから、それなりに写真撮影とか入るから夕方までかかるわね」

マネージャーはパラパラと予定表をめくりながら答える。

「あ、水着だって」

「えっ!ウソっ!!」

マヤは慌てて窓ガラスから目を逸らし、マネージャーの方に向き直る。

「ウソよ。あるわけないじゃない、そんなこと…」

おかしそうにマネージャーは笑い出す。マヤは『あるわけない』というその言葉の真意にちょっとむっとしながらも、同じように笑い出す。

「あ、良かったぁ、マヤちゃん、やっと笑った…」

ポツリとこぼれたマネージャーのその言葉にマヤは驚いて、言葉を失う。

「え…、あたし、笑ってませんでした?」

「うん…、笑ってるふりはよくしてたけどね…。あんまり思いつめないでね、色々あるのはわかるけれど…」

このマネージャーは新進女優であるマヤと、所属事務所の社長の秘めた付き合いを知っている。それをどういう意味にとらえているのかはわからないけれど、スケジュール調整などの面で協力してくれているのも、マヤは知っている。
人に気を使うことばかりで、人に知られる事を恐れ、誰かに心配されたり励まされる恋ではないと思っていたマヤには、そんな一言が予想外に染み入り、堪えてしまう。

「…はい…」

たった一言その返事に、色々な思いを込めて答えるのがマヤには精一杯だった。






「お疲れさまでしたー」

「お疲れさまでしたー」

形ばかりのような掛け声が飛び交う中、マヤはそそくさと控え室であるホテルの一室へと向かう。

「予定より1時間も早く、終ったから次の撮影まで時間空いちゃったわね。部屋で寝てる?」

撮影のあった中庭から中に入り、ロビーを突き抜けながらマネージャーが声をかけた。

「うん…、そうしよっかな…」

その時、背後から全く予期せぬ声が飛んでくる。

「マヤさん!」

もう随分と長い間聞いていないはずなのに、決して忘れることのなかったその声に、マヤは硬直し、そしてゆっくりと振り返る。

「…紫…織さん…」

そこには一年前と変わらぬ美しさで、品の良い着物姿の紫織が立っていた。









4.4.2003


Top / next