| 太陽と月に背いて 1
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「ねぇ、麗、この返信ハガキ、御出席のところ丸つけて出せばいいんだよね?」
金縁のしっとりとした重さを持つアイボリーの招待状の中から、返信用のはがきを取り出し、ひらひらとさせながらマヤは訊ねる。 「御出席の”御”のところは消しておくんだよ」 「あぁ…、そっかそっか…」 小さく独り言のようにマヤは呟いた。 二重線で御出席の御を消し、そして丸で囲んだ。 手が震え、指が震え、丸が歪んだ…。 (あ〜あ、おめでたいハガキなのに…) いびつになってしまった丸にため息をこぼしつつ、そんなことはどちらでもいいと分かり切っている自分も居る。何百というハガキがきっと送り返されるのだろう。こんな自分のハガキ一枚ぐらい、出席を囲んだ丸のいびつさなんて、きっと誰も気にしない。ましてや、それが真澄の目に触れるとも思えない…。 きつく握って汗でべったりと指に纏わりついていたボールペンを、投げるようにしてちゃぶ台の上で転がす。転がっていたボールペンは、転がる速度を落としながらも、結局ちゃぶ台の端から畳に落ちた。 ボトリ… 畳を叩く、中身のないようなスカスカな音がした。 ボールペン一本分の重み…。 こんなことはずっと前からわかりきっていたことだった。そうでなくとも、自分などの手の届かない存在だと、嫌というほどわかっていた。 それでも、「手が届かない」と「手が届けられない」は違う。 それはまるで、ずっと待っていた死刑が、永遠に来なければいいと思っていた刑の執行が、やっぱり目の前で執り行われてしまうのと同じようで、マヤは成す術がなかった。ただ、そこへ丸をつけて、自分でそれを認めてしまう以外、するべき事はなかった…。 他人のものになってしまう…。 永遠に手の届かない人になってしまう…。 ちゃぶ台の向こう側に落ちたボールペンを拾おうと、マヤはのろのろとちゃぶ台の下にもぐった。手を伸ばして、よく見もせずに手の感覚だけで、ボールペンを探す。ぺたぺたと畳の上をなんど叩いても、ボールペンは見つからず、ただ畳の目だけを見ていたら、涙が零れ落ちた。 (どんなに探しても、欲しても、手の届かない人になってしまうんだ…) 大声で泣き叫ぶことも、何かにすがることも出来ず、マヤはただ肩をガクガクと震わせ、畳を濡らす。気配に気づいた麗が訝しげに、洗い物の手を休め、振り返る。 「マヤ…?」 ちゃぶ台に頭を突っ込んで、そのまま突っ伏したようにうつぶせになっているマヤ。だらりと伸びた指の先3cmのところにボールペンが転がっていた。 「何やってんだよ、アンタ…」 ふざけているのか、なんなのか、麗は図りかねる。 「…なに、やってるんだろうねぇ、アタシ…。 ホントになに、やってるんだろう…、こんな人好きになっちゃって…。 ばっかみたい…」 涙の滲んだ声がちゃぶ台の下から聞こえてくる。麗は一瞬、言葉を失う。 「好きになっちゃって、って…、マヤ、アンタ、好きな人居るのかい?」 麗はゆっくりとマヤの側まで来ると、畳に膝をつく。 「…好きな人かぁ…。好きだった人にしなきゃいけないんだろうなぁ…」 ぐすりと鼻をすすり上げる音がする。 「麗、その人ねぇ、結婚しちゃうの。今までも手の届かないような人だったけれど、今度こそ、今度こそ、アタシが死んでも逆立ちしても、手の届かない人になっちゃう…。 どうやったら忘れられるんだろうねぇ…、こんなに好きなのに…」 自嘲的な笑いさえ震える声に含ませ、マヤは言う。 「アンタの好きな人って、まさか…」 続きを言えない麗の代わりにマヤはずるずると、上体をちゃぶ台のしたから引き抜く。 「その、まさかだよ…。速水さんだよ…」 麗の絶句を当然のように受け流しながら、マヤは続ける。 「紫のバラのひと…、速水さんだったの…」 それだけで全てを理解するには充分だった。 麗にしてみても、速水真澄という人物は不可解であった。敵であるはずなのに、常にマヤの成長にかかわってきた男。マヤのこれまでの軌跡を辿れば、常に一人の人物の影があった。それが速水真澄だ。 あの速水真澄が紫のバラの人であるという事実は、驚きよりもむしろ探していたパズルが合わさるような感覚を麗に与える。 (そうか…、やっぱり、あの人だったんだ…) しかし、残酷に時は刻まれ、運命の瞬間が間もなくマヤを襲うことは麗にも理解できた。 ちゃぶ台の上の返信ハガキに手を伸ばし、静かに言う。 「無理して行く事ないよ…。アンタがそんな、無理なんてすることない…」 マヤは涙を含んで重く垂れ下がった睫を数回しばたかせ、しばらく麗を見つめる。 力なく頭を小さく左右に振ると、麗の持ったはがきに手を伸ばす。 「いいの…、このままじゃ、アタシ、ここから動けないから…、いつまでたってもホントのこと、理解できなくなっちゃうから…。ちゃんと見てくる…。この目で、ちゃんと見てくる…」 手にしたはがきの上にポタリと涙が一滴零れ落ち、インクを滲ませる。 (あ〜、歪んだ丸の次は、滲んだ文字なんて、サイアクだ、もぉ…) それでも、マヤには分かっていた。 たとえ、文字が歪もうが滲もうが、真澄は来月紫織と結婚してしまう。 自分のこの恋は行き場のないものになる…。 ![]() 大都芸能社長室。 「招待状頂きました」 書類にサインする手を休めず、顔も上げず、真澄とは目を合わせないようにしてマヤは言い出した。 「…来るのか?」 それまで穏やかな表情でマヤを見つめていた真澄の心臓が、一瞬にして凍りつく。抑揚のない声で真澄はそれに答えたつもりだったが、かすかに声が震える。 「え〜、もちろんですよ。社長さんの結婚式だもの。すっごい、豪華で派手なんでしょうね。派手婚って言うんですよね、そういうの」 痛々しいほどの明るさが空回りする。 「あの…、結婚祝い、何が欲しいですか?」 不自然な声の震えは精一杯消して、何気ない風を装う。 「…いらないよ…」 本心だった。もし自分のこの結婚をマヤに祝福されるとしたら、それはこの世で一番辛いことのように真澄には思われた。 「あたしからのお祝いなんて、欲しくないですか?」 書面から哀しげな視線を移して言う。 「そういう意味じゃない!」 思わず声が荒いでしまう。訝しげにマヤは一瞬、眉をひそめると、戸惑いがちに言葉をつなぐ。 「…じゃぁ、どういう意味なんですか?」 言葉が出なかった…。 (好きな女に、他の女との結婚を祝われるなんて、茶番もいいところだ) はき捨てるようにそう言い切れてしまえば、どんなに楽なのか…。 真澄の沈黙の意味を推し量るようにマヤは言う。 「…まぁ、でも、何もいらないって気持ちも、ちょっと分かる気がします」 真澄のタバコを持った指先が動きを止める。 「あれだけ欲しかった紅天女も、こんなに素敵な結婚相手も手に入れたら、他に欲しいものなんて、何にもないですよねぇ…」 そう言って寂しげな笑いを薄く浮かべると、マヤはサインした書類を真澄に渡す。 「紅天女は俺のものじゃない。君のものだ」 マヤからその書類を受け取りながら、真澄は言う。それに対してマヤは静かに答える。 「いいえ、速水さん、あなたのものです。私が大都のもので居る限り、あなたのものです…。 紅天女とは、そういうものです…」 (だから、せめて女優として一生私をあなたの側に置いておいてね…) それは胸の中だけで、呟いた。 「ハッキリさせておきたいことがある」 タバコを灰皿で揉みつぶすと、真澄は声の調子を幾分強めて言う。 「どうして、大都を選んだ?君を欲しがるプロダクションはいくらでもあったはずだ。殺したいほど憎いはずの俺のところを選んでくれたはどういう風の吹き回しかな?」 「そういうことはサインをする前に聞けばいいのに…」 マヤはおかしそうに笑う。 「まぁ、でも、サインさえさせちゃえば、こっちのものだ、とか速水さん思ってるんだろうなぁ…」 俯きがちにもう一度笑みを浮かべたが、とても楽しげな幸せな笑いとは、程遠かった。 「そうだな、うまく大都の所属にした上で、上演権も君からもぎ取って、後の始末はどうとでもつけられるだろうな」 心にもないことを言って、胸の痛みを楽しむのは自分への自虐的な行為なのか、それともマヤの何を試しているのだろうか?すぐに口を突いてでてくるそれらに、真澄は虚しくなる。 「また、そういうこと言う…。 無駄ですよ、そんなこと言っても。あたし、知ってますから…。速水さん、そんなこと、あたしに絶対しないの、知ってますから…。もう、その手には引っかからないんだから…」 いつもいつも、こうやってわざとひどいことを言う。紫のばらの隠れ蓑のために、自分が真澄に被らせた仮面は、冷酷で非情で、わざと自分を傷つけるものばかり…。そうさせてきたのは、全部自分のせい。 (あたしがそうさせた…) 放っておいたらあっという間に涙腺まで緩んでしまいそな気配を感じ、マヤは慌ててかぶりを振る。 「ええっと…、理由ですか?あたしが、大都を選んだ理由…。そうですね、来月の速水さんの結婚式でわかると思いますよ。どうして、あたしが速水さんの大都を選んだのか、どうして、速水さんに紅天女を預けたのか…。きっとわかりますよ…」 それ以上は喋る気はないという意思を見せるかのように、マヤは身支度を始める。 (来月の結婚…) その逃れようのない運命の瞬間が、鉛のように真澄の心にのしかかる。 「それまでは秘密ってわけか?」 「…かな?」 そう言ってマヤは曖昧な笑みを浮かべる。そして、思いだしたように付け加える。 「あと、速水さんにも少しは胸に手を当てて考えて欲しいからかな。どうして、あたしが大都を…、速水さんの大都をあたしと紅天女の落ち着き先として選んだのか…。ど、どうせ、悩みのない幸せボケの最中でしょ?少しは悩んでくださいよっ」 取り繕ったような明るい声でそう言うと、背中を向け、ドアに手をかける。 「待て!」 引き止める声。 (やめて欲しい) とマヤは思う。あと一分でも長く居たら、思いがあふれ出そうだった。ぐらぐらと、気持ちが揺れ、体が揺れだしそうだった。 振り向かずに背中で声を聞くつもりでいた。顔を見たら、きっと泣いてしまうと思ったから。 「俺も君に宿題を一つだしておこうかな…」 (何を試しているのだろう?) 湧き上がる疑問。 「俺には欲しいものなんて、何もないと言ったな。 あるよ…、俺にも狂いそうなほどに欲しいものが一つな。だが、それは一生手に入らない…」 ゆっくりと真澄が近づいてくる。気配からすると、すぐに自分の後ろまで来ているのがわかる。 怖かった…。 振り向いてしまえば、きっとすぐ目の前に真澄が居る。自分が何をやりだすか、コントロールも出来なくなりそうで、マヤは怖くなる。 でも…。 (独身の速水さんを見るのは、これが最後かもしれない…) そう言い訳して、思い切って振り向いたあと、マヤは思い切り振り向いたことを後悔した。 予想以上の真澄との至近距離に、その真澄の匂いに、眩暈を起こしそうになる。真澄は片手をポケットに突っ込んだまま、もう片方の腕をドアにつくと、自分とドアの間にマヤを閉じこめた。 「俺の欲しいもの…、なんだと思う?当ててみろ…」 うなじのあたりを冷たい雫が伝っていくような、得体の知れない緊張感がマヤを襲う。薄氷の上で保たれていた均衡が今にも崩れそうになる…。 2003.2.26 ![]() |
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