太陽と月に背いて 2
「俺の欲しいもの…、なんだと思う?当ててみろ…」



(試されてる…!)

咄嗟にマヤはそう思い当たると、ガチリと音がして体中が金縛りにあったうように固まってしまう。

(子どもだと思って馬鹿にして・・・)

そう思っても、全く動かなくなってしまった体が、何よりもそれを証明しているのは自分でもわかっていた。そして、きっとそれは真澄にもばれてしまっているだろう、と思うと動かなくなった体の心拍数はますます速度を上げていく。

「わ、わかりません…、そんなの…。あたしなんて自分の欲しいものだって、やっと最近気づいたばっかりなのに…。
人の欲しいものなんて、そんなのその人にしか分からないじゃないですか…」

やっとの思いでそれだけ口にすると、口を噤む。目線を合わせることも出来ず、目の前にある仕立てのいい真澄のスーツの生地ばかりを見つめてしまう。
ウールの生地の匂い、コロンの匂い、タバコの匂い…。
クラクラする…。

「そうか…、分からないのか…。君はやっぱりまだ子どもだな…」

その声はいつものあの人を馬鹿にした声ではなく、なぜかどこか切なく苦しげだった。

「…もう、子どもじゃありません…。あたしだってハタチですよ」

精一杯の強がりも、声が震えてしまえば、なんの意味もない。その表情は見ることは出来なかったが、息使いから真澄がフッと笑ったのが分かる。

「子どもじゃないと言うのなら、試してみるか?」

「えっ?」

その言葉の意味を理解するよりも前に、マヤは顔を上げてしまう。そして、目線を合わせただけで、それはもう充分に試されてしまった事に気づく。大人の男を嫌でも感じさせるその強い視線に射すくめられ、「全てに自信がなくなる」という瞬間はこうい時を言うのではないか、とマヤは思う。

(あたしは子どもだ…。こんな時にどうしたらいいのか分からないほど、やっぱり子どもなんだ…)

「…試すって、試すって…、な、何をですか?」

聞いても無意味かもしれないことを、強がりから口に出す。
ふと、自分のすぐ頭上に置かれていた真澄の片方の手が、髪に触れる。ゆっくりと、耳の上あたりに入れられた真澄の長い指が、髪の間を梳いていく。

「綺麗な髪だ…。長いな…」

掬ったマヤの黒い髪は、はらはらと真澄の指の間から落ちていく。
あれほど合わせることを恐れていた視線は、一度合わせてしまえば、今度は離すことが出来なくなった。まっすぐに真澄を見詰め返したまま、マヤは問う。

「…速水さん、長い髪が好きですか?」

「…あぁ、好きだ…」

真澄も全く視線を外さない。
3度目に頬の横の髪を掬われた時、強く乱暴に引っ張られた。痛みに驚き、マヤの顔が強張る。

「…大好きだ…、だから、この髪はずっと切るな。ずっと伸ばしたままでいろ」

あまりにも真剣なその様子にマヤは膝が震えだしそうになる。

「勝手ですね…。社長は女優の髪の長さにまで、口を出すんですか?」

この得体の知れない空気に呑まれないための、最後の抵抗をマヤは試みる。できるだけ、明るい声の調子で…。

「そうだ、俺は勝手だ…。髪の毛一本だって、君は大都の…、いや、俺のものだ…。だから、勝手に切るな」

それは常識はずれに威圧的で高飛車で、そして絶対的な命令にマヤには聞こえた。

(もう充分…)

マヤは逃げ出したくなる。真澄に子どもである自分が試され、そして遊ばれていることは、もう充分に分かった。そして、自分が相変わらず何も知らない子どもであることも、充分に真澄に伝わってしまっただろう。
マヤは自らの髪を梳いていた真澄の手を取ると、一気に引き離す。
自分の指は冷たくて、真澄の指は熱かった…。

「速水さん…、もう…、もう充分です。どうせ、私は子どもです。試すことなんて、もう何もないでしょっ!欲しいものだって、結局教えてくれないし…。あたし、帰りますから…」

そう言って、真澄が今にもいつもの高笑いをして、
『いや、チビちゃん、ちょっと薬が強すぎたかな』
そんな声が聞こえてくるのを俯いたまま待った。でも、いつまでたっても、高笑いは聞こえてこなくて、代わりに低い声がマヤを刺す。

「俺はまだ、何も試していないぞ」

その強い声の調子にマヤが驚いて顔を上げた瞬間、一気に視界に何かが迫ってきて、生暖かい空気が口元にかかり、唇をふさがれ、そして真澄の匂いに包まれた。

キスをされてしまった…。

数秒経って、事態に気づいたが、どうすることも出来ず、目をあけたまま、真澄の美しい長い睫をただ見つめていた。繋がった唇から、心も頭も吸い取られていくように、何も考えることが出来ない。時間の感覚さえも奪われる。

ゆっくりと、真澄の唇が離れ、呆然としたまま立ち尽くしてたマヤの手足に、感覚が戻ってくる。
次の瞬間、激しく肉がはじかれる音が社長室に響く。

パチーーーン

「…っ」

予想外の応酬に真澄は前髪を乱し、一瞬俯く。

「な、な、なに考えてるんですかっ?速水さんっ!!女優だったら、みんながみんな、社長にこういうことされて、嬉しいとでも思ってるんですか?自分のところの女優にだったら、何してもいいって言うんですか?
ば、馬鹿にしないで下さいっ!!
結婚する人が何、やってるんですかっ?!サイテー!!」

それだけ、まくし立てるようにマヤは叫び、真澄を突き放すようににして追いやると、あっという間に身を翻して、ドアを開けて出て行った。



「だから、君はこどもだって言うんだ…。
俺の欲しいものを教えて欲しいと言ったのは、君だろうが…」

誰にも聞こえない独り言を呟きながら、真澄は痛みの走った頬に当てていた手を口元にやる。叩かれた頬よりも、確かに繋がりあったその唇のほうが、ずっと熱を持っている気がした…。






社長室から飛び出し、廊下を走り抜け、今この瞬間だったら誰に会っても自分は誰にも気づかないだろう、というほどに動揺した状態のまま、マヤはエレベーターを待つ。すでに下へ向かうことを促すボタンは赤く点灯しているにも関わらず、マヤはしつこく何度もそのボタンを押す。エレベーターは出てしまったばかりで、入り口の上に並ぶ数字のランプはマヤを最上階に取り残したまま、順番に下降していく。
ふと、頬に生温かい感触…。あわてて、右手の指先でそれを拭うと涙であることに気づく。止めようと何度ぬぐっても、上を向いても、それはどうにもならなくて、マヤは諦めたようにゆっくりと足を非常階段の方へ向ける。
今この状態では誰にも会いたくなかった…。
無機質な蛍光灯のあかりに照らされた、白い階段を下りていく。階段を一段下りるたびに、かかとから離れるミュールが激しく地面を叩きつけ、拍子木のような音をたてる。駅の階段を降りる時はその耳障りな音が気になるはずなのに、誰も居ない階段を真っ白な電気に照らされて降りていると、そんなことはどちらでもいいような気にさせられた。 もう涙もぬぐわなかった。
下まで降りる頃には涙も乾くだろう。乾いてしまえば、跡さえ残さない。血を流せば、傷口が残る。かさぶたが出来る。でも、涙は乾けば何も残らない…。

(便利に出来てるな…)

マヤはそんな風に思う。

(あたしがこんなことで泣いてるなんて、誰も気づかない。速水さんだって、絶対気づかない…)

そこまで思うと、足が止まった。止まったまま足元を見つめ、音のしなくなったミュールを見つめる。変わりに、壁に突いた右手の人差し指で規則的に壁を打つ。

(このままでいいんだろうか?)

足元から湧き上がってくる疑問…。
こんなに好きな気持ちは、真澄の結婚を境に自然にどうにか消滅したりするなんて、とても思えなかった。そんな線を引いたように、気持ちを変えたり、引っ込めたりするような器用なことはとても自分には出来ないと思った。
ただ…、一つ分かっていることは、他の誰かのものになってしまった人には、こんな気持ちは迷惑なだけで伝えることさえ出来ないということ…。

(でも、今ならまだ…?)

気持ちだけでも伝えてみたい、とマヤは思う。どこからそんな大胆な気持ちが湧き上がってきたのか、分からないが、今、このチャンスを逃したらきっと自分は一生後悔する気がした。

(同じ諦めるだったら、いっそはっきり振られたほうが、自分らしいのではないか…)

そんな事まで考える。

(その方が、きっと気持ちも楽になるかもしれない…。こんなに好きだったことだけでも、知ってもらいたい…)

冷めていたはずの血の流れが、再びドクドクと音を立てだす。

(キスをしてくれた。
例え、からかわれただけだって、心底嫌いな相手にはキスなんか出来ないはずだ。
好きじゃなくても、嫌いじゃない程度の気持ちはきっと持ってるはずだ。
だったら、きっとこの気持ちだって、応えてはくれなくても聞き流すぐらいしてくれるはずだ…)

一歩一歩、速度を速めながら降りてきた階段を、再び駆け上がる。

(まだ、間に合う…!!)



再び、社長室のある最上階に辿り着いたマヤは階段から廊下に繋がる、重い鉄の扉をゆっくりと開ける。窓一つなかった階段の不自然な蛍光灯の明るさと一転して、廊下の角に設けられたガラス張りのコーナーから、眩しいほどに太陽の日が降り注ぐ。
その逆光に一瞬目を潰されながら、南向きの社長室へ足を向けた途端、突然太陽の日を遮る影。一つだと思ったその影はやがて二つになって、その輪郭だけをマヤの前に晒す。しかし、輪郭だけで充分だった、廊下の向こうからやってくる紛れもないその二つの影。マヤは慌てて身を翻し、再び非常階段の扉の前の角に身を潜める。
二つの足音がこちらに近づいてくる。その足音と自分の心臓の音がシンクロし、マヤの足元が目で見えるほどに震えだす。

「嬉しいですわ、真澄さま、こうやってやっとお時間を取って頂けて…。お仕事でお忙しいでしょうに、ごめんなさいね。でも、どうしても紫織一人では決められなくって…」

「とんでもない、婚約者として当然のことですよ」

いまだかつて自分が聞いたこともないような、穏やかな真澄の声。顔を見なくても、二人の穏やかな表情が目に浮かぶようだった。

「ありがとうございます、真澄さま…。紫織、本当に嬉しいですわ…。
ウェディングドレスの方はもう出来上がってますの、ただお色直しのドレスはどうしても、派手になりがちでしょ?お品がないのは紫織もきらいですし…。真澄さまに決めていただければ、一番紫織も安心ですわ…」

はにかむような紫織の声。きっと、幸せそうに頬を染めているのだろう。

「あなたにだったら、どんなドレスでも似合いますよ。あなたに似合わないドレスを探すほうが、一苦労でしょう…」

「まぁ、真澄さまったら…」

エレベーターの目の前まで来た二人が、エレベーターが到着するまでの間に繰り返す、その婚約者らしい会話…。その角に身を潜めたマヤから二人の居る場所は、数十センチ。しかし、そこを隔てるあまりの深い距離にマヤは絶望する。

チン

短く音が鳴って、エレベーターの扉が開く音がすると、紫織の軽やかな笑い声とともに、二人は箱の中へ吸い込まれていった。

よろよろとマヤは再び、非常扉を開けると蛍光灯に照らされた白い空間に迷い込む。
世界で自分はたった一人になってしまった気がした。
ぐらりと体が揺れ、バランスを崩した瞬間、階段を踏み外す。片足からもげたミュールが、カラカラと乾いた音をたてて、階段を転がり落ちる。踊り場の手前、2段目のところでそれは止まった。
ミュールを取りに行くことも、体を起き上がらせることも出来ないまま、マヤはぐったりと階段に座り込み、壁に頭を持たれかける。


声が出なかった。
何も考えられなかった。
でも、涙だけはきちんと出た。


太陽の光も、月の光も届かないのに真っ白なまでに明るいその場所で、マヤは絶望的に確信させられる。



この恋は、叶わない…。








2003.2.28


…to be continued

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