| 太陽と月に背いて 11
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不幸であるはずがない。
愛する人と結婚し、家を守り、卓を整え、帰宅を待つ。 毎日、部屋に美しい花を飾ることも、いつその人が帰ってきてもいいように、玄関を掃き清めることも欠かさない。 朝は決まって2杯のコーヒーを沸かし、冷え切った頃に手のつけられなかった一杯を流しに流す。一面に広がった茶色い染みが、流れる透明な水によって中和され、そして流れ去り、あとには一滴の染みも残さないのを見届けてから、水道の蛇口を閉める。 昼間は具合のいい時は花をいじり、気分が少しでもすぐれない日は横になる。 ただ、横になる。 眠るわけではなく、それでも偶然に眠りに誘い込まれ、目が覚めた瞬間は、幾ばくかの間だけでも記憶が切り取られ、思考が停止したことに、とても、とても救われた思いがする。 二人前の食事を作り、食卓が一度華やかに彩られたあと、端から全て捨てていく。 時々、皿ごと割ってしまうこともある。 結婚前にカタログを見てドイツから取り寄せた、美しい薔薇模様のRosenthalの食器は全て粉々にしてしまった。キッチンの固いタイルの上で、思わぬ大きな音をたててそれは砕け散った。すぐに家のものが駆けつける。 「お、奥さま…、どうなさいました…?」 顔色を変え、声を震わせるそれに、抑揚も付けずに冷静に━そう、それは本当に文字通り、冷たく静かに━答える。 「ちょっと手が滑ってしまって」 そして、一度砕けたあとも、まだ原型をとどめたような大きな破片の一つをゆっくりと持ち上げると、何度も何度も、薔薇の模様が見えなくなるまで床に叩きつけた。 不幸であるはずがない。 愛する人と結婚したのだから…。 けれど、これを幸福とは呼ばないのを、紫織は少しずつ、少しずつ、よそったばかりの茶碗の白いご飯が、自分の目の中で、湧き上がった白いウジ虫に姿を変えていくのを見つめながら、憂鬱と絶望の中で認めていた。 耐え切れないほどの絶望の中で…。 ![]() 「まるで泥棒が入って来たように、ご自分の家にお帰りになりますのね、真澄さま」 予想外のその声に真澄の背中が一瞬、ビクリと揺れる。 屋敷に必要があってものを取りにくる場合など、出来るだけ紫織が居ないような時間帯を狙ってくるような姑息な手段を取っていたのは事実だった。 このまま話し合いを避けて通るつもりもなかったし、いつまでも仕事を理由に家に寄り付かずに済まされるとも思っていなかった。マヤとこうなることなど夢にも思わず、結婚してしまったあの頃も、今も、自分はただ問題を先送りにしているばかりであることは、嫌というほど真澄にはわかっていた。けれども、今、命に代えてでも守るべきものを持ってしまった身では、思うように動きがとれないのもまた事実であった。 あの鷹宮のことだ。紫織との気持ちの上での決着だけで、離婚が成立するとはとても思えない。そもそもこの結婚に人間の気持ちなどの感情的な要素が入り込む隙など、もともとないも同然であった。あるのは、それぞれの背後にうごめく思惑と、そして行き場を失ったお互いの愛だけだった。 一方はその愛を諦めるため、そしてもう一方はその、叶わぬ愛を無理にでも貫くために…。 事業提携にあたってのこちらに都合のいい部分だけを利用した直後に、離婚の話など出せば、思わぬ事業妨害に発展するのは明らかであり、またその原因がマヤにあると分かれば、その影響はマヤにまで及ぶことが容易に予想できた。 損害を最小限に食い止めるには…。 できるだけ綿密に計画を立て、それを計画に移すまでのこの時間稼ぎは、例え卑怯と呼ばれる種類のものであっても、避けられないものであると真澄は考えていた。 それは、大都という自らが背負う組織に対する執着よりも、責任によるものであり、またマヤという自らが守る愛ゆえにの事であった。 言葉も出ないままにゆっくりとようやく振り返り、書斎の入り口に立つ紫織に真澄は目をやる。どういった表情を作ればいいのか分からず、自然と険しい表情になってしまう。 「久しぶりに会った妻を見る目とは、そういう目なのですか…」 怒りをぶつけるわけでもなく、また責めるわけでもなく、ただ哀れな調子のその声に、真澄は思わず動揺する。あわてて、その険しい表情を取り外そうと試みるが、顔の筋肉が引きつり、かえって奇妙な表情になってしまったのが自分でもわかった。 「すみません。急ぎの用事で、必要な書類がありまして…」 何かを喋らなければと口をついてでてきたその言い訳も、紫織には真澄の自分に対する拒絶の上塗りにしかすぎない。 「ご自分のお家にお帰りになるのに、特別な理由が必要なのですか、真澄さま…。 おかしいですわね…。本当におかしいですわ…」 紫織はそう言って、口元を歪ませて笑みを浮かべるが、瞳はまるで笑っていなかった。 「真澄さま、あなたは変わってしまいました…。もう、あのお優しい真澄さまは、戻っていらっしゃらないのですか?」 哀願するその瞳には、寂しさと虚しさが滲む。一瞬、流されかけた情に厳しくブレーキをかけるようにして、真澄は思考を取り戻す。 (彼女に同情してはいけない…) 同情から生まれた偽りの優しさがどれほど、お互いを、そして周りの者を傷つけることとなったか…。まだ事をはっきりさせるには、何もかも早すぎる時期だと分かっていた。けれども、事実を理解することを拒否し、ひたすらに自らの感情だけを優先させてきた紫織に対しての真澄の積もりに積もった思いが、口を突いて出る。 「僕を…、僕を変えたのはあなたですよ、紫織さん…」 虚ろだった紫織の瞳のなかで、何かが一瞬揺れる。 「あなたが手首を切ったことに対する責任として、僕は自分の心を捨てました。 だから…、だから僕はあなたと結婚できたのです。もしも、僕に心を持つことが許されるとしたら、僕は決してあなたと結婚など出来なかった。なぜなら僕が愛する人は、生涯たった一人だからです…」 紫織の口唇が薄く開き、口で呼吸をし始めたのがわかる。 「『あなたを幸せに出来ない、結婚できない』という僕に対して、強引に結婚を望んだあなたとの間に何か繋がりがあるとすれば、『形だけの結婚』それだけでしょうね…」 「でも、お互い一緒に生活し、苦楽をともにすることによって、何かが変わってくるかもしれないではありませんか。例えば、信頼関係が生まれたり…」 紫織の縋るようなその声をそこまで聞くと、真澄は遮るように言う。 「信頼関係…?私とあなたの間で? …無理でしょうね。 他のことではどうとなっても、残念ながらあの子に関することでは、僕はちょっと普通ではなくてね、あなたを許せないんですよ…。あの子を傷つけ、追いやったあなたが…」 真澄の冷静だけれども、とても厳しいその糾弾するような視線に、紫織は言葉を失う。自分がしてきたことの事実の重さだけが、今さら心を潰すようにのしかかる。 (この人は自分のしたことを、決して許してくれない…) 真澄を繋ぎとめようとして行ったことが、更に真澄を遠ざけてしまったことを思い知らされる。けれども、何かを一つずつ少しずつ失い始めた女は、少しずつ時間を逆戻りし、過去の幻影だけに縋りつく。そうして、少しずつ少しずつ、光のない失われた時の箱に閉じ込められていくのも知らずに…。 「激しい情熱でもって愛してくれとは申しません。ただ…、あの優しさで、あの昔のあなたさまがわたくしに下さった優しさで接してくだされば、それで充分です。 世の中のすべての結婚が、激しく求め合う愛の形ではないではありませんか。静かに労わり合って、許しあって、認め合う、そういう形の結婚があってもいいではありませんか」 目に浮かぶのはあの時の優しい真澄の瞳だけ。求めるのもあの優しかった真澄だけ…。 「…許しあえるのであればね…」 真澄のその低い抑えた声に、紫織の体温が下がる。 「僕はあなたを許せない。紫のバラを汚し、あの子を傷つけたあなたを許せない…。 そして紫織さん、あなたも僕を許せない…」 真澄のその言葉の最後に、紫織は訝しげな表情を作る。 「私が…、あなたを?こんなに愛しているのに? そんな…、許すも何も…」 何か、自分が思いつきもしないような、恐ろしいことを言われるのではという恐怖に、紫織の声が震えだす。 「あなたは僕を許さない…。 あなたの事を決して愛さない僕を、決してあなたは許せないでしょう。 …やがて…、憎しみに、変わる…」 最後は血を吐くような苦しみを滲ませた口調で真澄は言う。 これほどまでの拒絶を紫織は自分の生涯で、聞いたことがない。恐ろしさのあまり、手足が冷たくなるのを呆然としながら感じる。 「紫織さん…、あなたは僕をあなたの言うところの『愛する』という行為で求めつづける限り、同じ強さで僕を憎しみ続けるでしょう…。 愛と憎しみは一体ですから…」 今まで決して寄り添う形ではなかったけれど、ある一定の距離を保っていた二つの平行線が、交わりぶつかり合い、そして急速に離れていくのを、紫織は感じる。 「真澄さまは…、あなたは紫織のことを憎んでいらっしゃるのですか?だから、そんな…」 涙で声を震わせながら発せられた紫織のその言葉を、真澄はすぐに遮る。驚いたような表情さえ浮かべ…。 「僕が、あなたを? そんな事あるわけないですよ。あなたを憎むだなんて…。 愛していない人に対して憎んだりするような、消耗的な感情を僕は持ち合わせていませんよ。 ただ、僕はあなたに対して、恐ろしいほどに、そう自分でもどうしようもないほどに無関心なのです。愛の反対が憎しみではなく、無関心であるという言葉通りに…」 そこまで真澄は言うと、いささか自分が言い過ぎた感も免れず、いくら紫織に分からせるためとはいえ、カードの出し方を間違えたような焦りも感じる。 「こんな結婚はしてはいけなかったんです。僕も、あなたも…。 こんな結婚は不毛で、不幸で、何も生まない。この先もあなたを不幸にするだけだ。だから…」 真澄の言葉の行く先が見えた紫織は、悲鳴のような叫びをあげる。 「だから離婚しろ、と仰るのですかっ?」 真澄の脳裏で、カードのジョーカーが不気味な表情でにやりと笑う。 カードの切り方を間違えたか…。 「それが…、お互いのためです…」 抑えた口調で真澄が冷静にそう言うと、ククククッ、と俯いた紫織から異様な笑い声が聞こえてくる。その湿ったような不気味な音に、真澄は一瞬耳を疑う。 「…フフフッ。お互いのためだなんて…、相変わらずいい人ぶるのですね、真澄さま。 ご自分のためだけの間違いではなくって? 何かが抜けていませんか?あなたが今、『性急に離婚したい理由』が…」 真澄の心臓がドクリと音を立てる。間違った場所から血が噴出したように。 「隠すなんて卑怯です。ハッキリ仰ればいいではありませんか。『愛人が居るから別れて欲しい』と…」 先ほどニヤリと笑ったジョーカーは、今度は肩を揺らし、卑しい音を立てて笑い出す。 「シラレテイルヨ」 ジョーカーは高い声で含み笑いを隠しながら言う。 車輪の外れかかった火車が、狂ったように坂を駆け下りる様子が真澄の脳裏に浮かぶ。 赤い火の粉を散らしながら…。 2003.3.26 ![]() |
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