太陽と月に背いて 14
「もう…、疲れちゃった…。こういうの、あたし、もうダメかもしれない…」

長い間雨に打たれ、ずぶ濡れになった体は急速に体温を失っていく。

「電池…、切れちゃいました…。充電しても、充電しても、もうあなたに恋するパワーは残ってません」

熱に浮かされたようにぐらりと揺れた体は、重心を失ったようにして、バランスを崩し、男の腕の中へ倒れ込む。

「抱きしめてなんかくれなくていいのに…。
倒れたってほっとけばいいのに…。
あたしのこと、どうにも出来ないんだったら、こんなふうにどうにかしないでよっ! 優しくなんかしないでよっ!」

絶望的な叫びが黒い雨に混ざる。



そこまで見て、真澄はTVの画面から目を背けた。
画面の中でマヤは泣いている。
妻子ある男との恋に疲れ果て、泣いている…。
そういえば、昨晩も雨だった。
けれども、マヤは泣いてはいなかった。

真澄の前で、涙を見せたことは…、

一度もなかった…。



自分がマヤを一人残して、ホテルの部屋を後にする時、いつも必ずマヤの睫がかすかに震え、不自然に整えられた寝息が聞こえてくることを、真澄は知っている。舞台の上で『睡眠の演技』を強いられれば、恐らく完璧にこなせるに違いないが、舞台を降りた途端、彼女の『義務の演技』は途端に崩れる。額にそっと口付ける瞬間に、いつも息を止めてしまうことも、閉じた瞼がぴくぴくと震えてしまうことも、時々必要以上に硬く瞼を閉じてしまうことも、真澄は知っていた…。

触れれば触れるほど壊れていく、たんぽぽの綿毛のように、自分はマヤを壊している…。恐ろしい思いが、ほどよくアルコールが回った真澄の脳内に侵入する。

  ━自分はマヤを壊している…。

寒くもないのに、一瞬背筋がブルリと震え、何か黒く冷たいものが這い上がる。

電話をしなければ…。
そう思うのに、受話器を持ったまま指が止まる。
声を聞いて、どうしてるか聞いて、他愛なく今日の出来事を喋り、そしてこの胸の中で渦を巻くような感情を少しだけでも、砕いて声に混ぜる。
それだけの作業がとても気が重い。
なぜだろう…。こんなに愛しているのに…。
誰よりも愛しているのに…。傷つけたくなどないのに…。


鷹通との提携事業の一つが暗礁に乗り上げた。一日も早く事を進め、身辺整理に入りたかった真澄の強引な政策が裏目に出た結果とも言えた。 焦れば焦るほど、糸はもつれ、絡まりあい、出口を見失う。
努力をすれば、がむしゃらに働けば、全てはどうにかなると思っていた自分の奢った自尊心を粉々になるまでに打ち砕いてしまいたくなる。
全てを海の底にでも沈め、何もかも捨て、どこかへ行ってしまいたくなる。
彼女を連れて…。
けれども、自分が何よりも愛するのは舞台の上で輝く、マヤの姿である。
全てを失っても、全てを敵に回しても、自分はマヤを守れるのか? 過去に一度、芸能界というこの非情な世界でマヤを守り切れなかったあの悔恨が真澄の胸に、鈍い痛みとともに甦る…。
愛だけでは済まされない、守りきれない、この特殊な世界の重責に、グラスの中のウィスキーは体内で不快な回り方を始める…。






(今日は麗、居ないんだっけ…)

つきかげの公演が近づいており、今日から3日間泊り込みで練習や準備をすると言っていた。誰も居ない家に帰るのは、気が重かった。明かりのついていないあの部屋へ、一人で帰るのは嫌だった…。
けれども、マヤは自分が帰るべき家へ帰る。そこ以外に自分の帰る家はないのだから…。
帰り道の途中、明かりの消えた米屋の窓ガラスに映った、自分の姿を見てマヤは思う。

(まるで、孤独が服を着て歩いてるみたい…)

思わず、暗い窓ガラスに、無理に頬を吊り上げ笑いかけると、一瞬救われたような気がしたが、結局同じぐらいにまた孤独を感じた。
暗い部屋に帰って、固い電気のスイッチを押して、白い冷たい電気が灯るのを待つ。そして、何も入っていない携帯の着信履歴を見て、ため息のかわりに目を瞑る。押し出されては困る何かが、喉元を突き上げてくるのを、何度も深呼吸しながら、再びお腹の底へと押し戻すように…。

(だから毎日かけるなんて、約束しなければ良かったのに…)

自分が思っているほど、この関係は固いものではないのかもしれない…。
一度転がり出すと、止めることの出来ない、思考の連鎖反応にマヤは愕然とする。
たった今、自分が真澄を疑ったことに驚き、そして動揺した。 信じきっていなければ、愛に意味などないと分かっていた自分は、そのことに恐怖を感じる。
信じきっていることこそが、自分には唯一の武器であったはずなのに…。
唯一の、そして無敵の…。



電話をすると約束してくれたから、電話を待ってしまった。
「じゃぁ、また」と気軽に言うから、また会えるのを信じてしまった。
2012年に太陽の指輪をくれると言うから、2012年の夢をみてしまった。
そうしているうちに、その声も指も匂いも、全部全部、覚えてしまった。
愛することも、愛されることも、全部からだが覚えてしまった。
何一つ、自分のものにならないのであれば覚えなければよかった…。



その瞬間、マヤの手の中の携帯が、ブルブルと短く一度震えた。心臓が飛び上がり、携帯を取り落としそうになる。
開いたディスプレーには
”メール未読”
の文字。震える指で、開けたメールには、ただ一言…。そう、一言だけ、

『会いたい』

の文字。

「な…、なによぉ、『会いたい』だけじゃ、わかんないよぉ…」

嬉しさと戸惑いがごちゃまぜになって押し寄せる。そして、こんな短い一言で、これほどまでに舞い上がってしまう自分を恐ろしくも思う。

「会いたいって…、会いたいって…、もぉ!今、どこにいるかぐらい、言ってくれたっていいじゃないっ…!」

その時、窓の向こうで、車のエンジンが切れる音がした。
マヤは迷わず、外へ飛び出す。サンダルを履くのももどかしく、裸足のまま駆け出していく。転がるように駆け下りた階段の下には見慣れた大きな黒いベンツ。
そして、外灯に照らされ、車を背に佇むその人が、こちらにむかって

「アイタカッタ」

そう唇を動かした瞬間、マヤは弾かれたようにその胸に飛び込んでいった。
溢れた気持ちを抱きとめてもらうように…。
壊れかけた心臓を包みなおしてもらうように…。
今まで一度も口に出してみなかった言葉を口にしたくなる。音を立てて湧き上がるこの感情を、マヤは今こそぶつけたくなる。

「速水さんっ!好きっ…!大好き!愛してる…!!
自分じゃもう持ちきれないほど、速水さんのこと、好きです…!」

真澄の大きな腕が、一際強く、マヤを抱きしめる。

「どうしよう、あたし…、速水さんのこと、速水さんのこと…」

そこでマヤの言葉は途絶える。真澄の熱い口付けに蓋をされ、息もつげなくなる。その息苦しさとは裏腹に、胸元のつかえたような痛みがやわらいでいくのをマヤは感じる。
傾いた心を戻してくれるのはこの人しかいない。
ほつれかけた気持ちを直してくれる人は、結局この人しかいない…。
そんな気持ち…。
真澄の唇の感触も、キスの仕方も、吐息の温度も、両頬に当てられた大きな手の輪郭も、自分はもう全て覚えてしまっていた。
長い熱い口付けの後、ゆっくりと唇を離した真澄は、手のひらを頬にあてたまま、何度も親指だけで唇の輪郭をなぞる。

「速水さん…、あたし…」

けれども、そこで真澄は首を小さく左右に振る。否定された訳ではないのは、その優しい色を湛えた瞳からも分かった。

「それ以上、言わなくていい…。俺も同じ気持ちだ…。全部、わかってる…。
俺も君に会いたくて、気が狂いそうだった…」

そう言って、もう一度短く、唇を重ねたあと、真澄はおもむろにコートのポケットから何かを取り出す。

「君があまりにも物を欲しがらないから、勝手に贈るぞ」

言葉はどこか意地悪なのに、少しも辛辣な色は滲ませずに真澄は言う。目の前に差し出された、水色のベルベットの小さな丸いジュエリーケース。マヤは、口を開けたまま息を止めてしまう。

「え…、あの…、これ…」

心臓の鼓動の速度が一つ上がる。真澄の瞳が、無言のままケースを開けることを促す。

カクン…。

小さな手応えでもって、その手のひらにすっぽりと収まるケースを開けると目に入って来たのは、予想外のシルバーのチェーン。キラキラと輝いて、それは美しいものだったけれど、マヤは拍子抜けしたように数回瞬きをする。胸に去来するかすかな失望。

「あれ…?これ、トップはないんですか?…チェーンだけ?」

「トップはこっちだ…」

そう言って真澄が差し出したもう一つの水色のジュエリーケース。マヤが口をポカンと開けたまま、目を白黒させていると真澄は、マヤの目の前でそれを開ける。
そこで眩い光を放って輝いていたのは、いつか見た、あのダイヤモンドの婚約指輪。

「は、速水さん…、これ…」

震える指先を口元に押し当て、マヤは言葉を失う。

「いつか、必ずこれを君の指にはめてやる。それまでは、こうやって持っていて欲しい…」

真澄はそう言って、マヤの手のひらのケースからチェーンを抜き取ると、指輪の間を通らせる。真澄の両手がそっと首の後ろに回され、その所有の証の鎖が首元へとかけられた。
ちょうど、ブラウスの開いた首もとから見える、白い鎖骨のくぼみの部分に落ち着いた、そのダイヤの輝きに真澄はそっと指を触れる。途端にマヤは呼吸の仕方を忘れたように、胸が熱くなるのを感じる。まるで、直接心臓を素手で触られてしまったように…。

「これから二人の未来のために、具体的に動くつもりだ。君に心配させるつもりはないが、正直に言っておけば、色々リスクの伴う作業になると思う。多分…、そう簡単には行かないだろう…」

そこまで言うと真澄は一度、言葉を切る。マヤは信じられないものを聞くように、唖然としつつも緊張のあまり、ゴクリと唾を飲んだ。

「何があっても君のことは俺が守る。約束する…。だから、俺を信じて欲しい…」

 ━信じきることが、唯一で無敵の武器…。

マヤはずっと今まで胸に充満していたどす黒い不安や疑心が、細胞が分裂するように融けていくのを感じる。

「返事は?」

指輪を通して真澄は、そのマヤの小さな鎖骨に触れる。

 ━もう…、迷わない…。

「…はい…」

喉元で掠れたマヤのその声は、震えるばかりで音にならなかったが、喉元でかすかに揺れたその筋肉を真澄は愛おしく、手のひらで感じ取った。






その翌日、真澄は本来の帰るべき場所であるはずの、屋敷へと向かう。仕事の書類を取りに行くためではなく、一通の書類を持ち込むために。
唐突に玄関に現れた真澄を、紫織は訝しげに一瞬見つめたあと、すぐに電気が灯ったように、顔をほころばせる。

「まぁ…、おかえりなさい、あなた…」

芝居じみたその様子を真澄は、まるで見なかったように目を背ける。

「今日はあなたに、大事なお話があります」

紫織の瞳は、そう言われても何も映さなかった。その動かない黒い瞳に真澄は一瞬、冷やりとするものを感じる。けれども、それはきっと後ろめたい思いのある自分が見た錯覚だと思い込み、一枚の薄い紙を差し出すと、出来るだけ感情を込めずに言う。

「正式にあなたと離婚するつもりです」


2003.4.19


…to be continued










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