太陽と月に背いて 15
 ━「正式にあなたと離婚するつもりです」

真澄は次に切り出す言葉を思案しながらも、じっと紫織の反応を待つ。
けれども相変わらず、紫織の黒い瞳は何も映さない。ようやく紫織の乾いた唇が隙間を作り、そこからひゅっと息が漏れ、続いて言葉がこぼれ落ちる。

「…離…婚?そんな…、そんなこと、生まれてくる子どもに可哀想だと思いませんの?真澄さま…」

真澄の頭蓋骨に鈍器が振り下ろされたような衝撃が走る。

「なっ…、何を仰るんですか?紫織さん!!子どもとは、一体なんのことですかっ?!」

真澄は混乱と苛立ちを隠さずに叫ぶ。

「なに…って、わたくしと真澄さまの子どものことに決まってるではありませんか」

紫織は笑みさえ浮かべてそう言い切る。
そんなことはあり得なかった、自分と紫織は子どもが出来るような行為はおろか、口付けを交わしたことさえないのだ。
そんなことはあるはずがない。

「紫織さん、冗談はやめて下さい。そんなことがあるはずがないのは、あなたが一番よく分かっているではありませんか!」

真澄は感情的にならないよう、努めて冷静でいようとするが、あまりのことに声が震える。

「冗談だなんて、真澄さまったらひどいお方…。子どもが出来たことだって、あんなに喜んでくださったではありませんか!
わたくしに似た女の子だといいって、仰ったではありませんか!
名前を考えてくださるって仰ったではありませんか!!真澄さまっ!!」

紫織の声はだんだんと、大きさも速度も上げ、最後はヒステリーな叫びになる。
そこで真澄は、紫織の瞳が尋常ではない色を放っている事に気づく。紫織の口角からは白い泡がこぼれ、今にも倒れそうなほどに興奮してるのか、大きく肩で息をしていた。



━狂っている…。



真澄は硬直する。

「紫織さん…」

真澄は低い声でそう呟くと、ゆっくりと紫織に歩み寄る。ビクリと紫織の肩が震える。

「紫織さん…、目を覚ましてください。それは現実ではない…、あなたが考え出した妄想だ…」

紫織の下唇が小刻みに震え出す。

「嘘じゃありません!!わたくしのお腹には、真澄さまの子どもが…、子どもが…」

耐えかねた真澄は紫織の肩を掴むと、大きく揺さぶる。

「紫織さんっ!!」

その瞬間、紫織の瞳の中で小さな泡が弾ける。

「あ…、わたくし…」

まるで真澄を恐れるように、紫織は後ずさりを始める。

「ごめんなさい…、わたくし気分がすぐれませんので、今夜はこれで…」

目もあわせずにそういうと、怯えるように自らの両肩を掴み、じっと俯いた。
真澄はしばらく迷ったあと、離婚届をカウンターの上に残し、屋敷を後にする。

「また来ます…」

そう一言だけ言い残して…。






金曜夜9時。
紫織はいつものように、ソファーに浅く腰掛け、チャンネルを合わせる。一瞬画面が白くなったあと、切り取られたような情景がそこへ再生される。

(そういえば、先週あの女は雨の中、飛び出して行った…)

一週間前の記憶と重なる冒頭の映像が、紫織を再び箱の中の世界へと誘う。
箱の中の女は、すぐそこで息をしているようなリアルさで、泣き、叫び、そして涙を流す。他の役者が映っても、画面がCMに切り替わっても、紫織の目は一つのものしか映さない。その、髪の短い小さな女だけを…。



「私、あなたに会ってひとつだけわかったことがあります」

晴れ晴れとした笑顔で女は言う。

「恋はするものじゃなくて、おちるものだって…」

笑顔のままの女の頬に滴が伝わる。

「だから私にはどうしようもなかった…。ダメとかイケナイ、とかそういうの、ぜんぜん効かなかった。だって堕ちちゃったから…」

ボロボロと涙を零しながらも、笑顔を貼り付けたままの女の顔がアップで映し出される。

「もっと、あたしが大人だったら『楽しかったわ』ってカッコよく去っていくかもしれない。
もっと、あたしが子どもだったら『絶対、別れたくない』そう言って駄々をこねるかもしれない。
もっと、あたしがあなたに釣り合うような女だったら『これからも、こうしていたい』って、堂々と言えるかもしれない。
でも、あたしは中途半端に大人でも子どもでも、あなたに釣り合うような女でもないから、笑ってこういうしかないんです」

そこで女は数秒を目を瞑る。

「…ありがとう…」

そして、小さな声で急いで付け加える。

「…サヨナラ」

女が数歩後ずさりしたあと、ゆっくりと向きを変え、画面から遠ざかって行くのを紫織は満足気に見つめる。けれども、それは男の声にすぐ遮られる。

「…待てっ!!」

女の肩がビクリと震える。

「勝手に出て行くな。人の家にノックもせずに勝手に入ってきておいて、勝手に出て行くな」

振り返った女は呆けたような顔で、男を見る。

「出て行くなら、俺の心を置いて行ってくれ。君が持ってったままでは、俺は生きていけない…」

女の顔がぐしゃりと潰れる。

「君がいないと、俺は、もう…、生きていけない…」

よろよろと走り出す女が、男の胸にスローモーションで飛び込んでいく。大げさな音楽が流れ、バックでは突然噴水が水しぶきを上げる。  

━あぁ、終るのだ…。この話も、終るのだ…。

水と光の中で、いつまでも激しく抱き合う男女を呆然と見詰めながら、紫織は絶望的に瞼を閉じる。もう一度、目を開けると、画面の右端に

〜end〜

の文字。

結局、あの女は全てを手に入れた。

泥棒だったのに…。
自分勝手だったのに…。

結局、あの女は全てを持ち去った…。



紫織はフラフラと立ち上がると、震える指で、ダイアルを押す。

「もしもし?紫織です…」

電話の向こうで相手が一瞬、息を飲むのが聞こえた。

「明日、お時間ございますか?あなたのご希望に応じようと思いまして…」

相手が何かを言ったが、言葉はさほど意味も持たずに、聴覚の網を通り抜けていく。

「ええ…、離婚に応じるつもりです…」

静かな穏やかな声は、受話器を通して相手にも伝わるが、けれども紫織の表情だけは決して見えない。
不気味に口角を上げ、瞬きもせずに、音もたてずに笑う、その表情は…。



クククククッ

マダ、オワラナイヨ

クククククッ



いつもは真澄の脳内まで届く、その不気味なジョーカーの笑いも、今日は届かなかった…。


2003.4.20


…to be continued










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