| 太陽と月に背いて 18
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「精神的にかなり追い詰められていたことは間違いありませんが、今、現在は安定した状態です。ただ、時々、いまだに錯乱状態に陥ることもありますので、長期的な治療が必要と思われます」
紫織のカルテをめくりながら、主治医は告げる。 「彼女と話がしたいのですが…」 真澄は静かに、けれども強い意志をそこに込めて言う。 「構いませんよ。今日は比較的、穏やかな様態なようですし…。ただ、興奮させるような言動は控えてください」 病室に入ると、紫織はベッドではなく、窓辺に佇んでいた。空気に同化してしまうのではないかと思わせるほどに、透き通った白い肌が、あまりにも儚い。 ドアが閉まる音にゆっくりと、こちらを向いた紫織の表情は、真澄をその瞳に映しても、焦点が定まらぬほどにぼんやりとしていた。 「もう…、二度とお会いできないと思っていましたわ…」 思ったよりも、しっかりとした口調で紫織の唇が動いた。 「離婚届でしたら、郵送でお送りしましたのに…」 そう言って静かにベッドサイドの引き出しを開けると、中から薄い一枚の紙切れを取り出した。赤い朱肉の丸い印が、紙の裏側からも透けて見えた。 1週間前のホテルでの傷害事件後、速水家と鷹宮家の双方で話し合いがもたれ、離婚が成立した。紫織の放った言葉とは裏腹に、祖父である鷹宮翁は今回の件に関しては何も関与せず、全ては紫織の狂気が引き起こした単独の犯行であることが明らかになった。大都芸能のトップ女優への傷害事件となると、警察沙汰は必須であったが、穏便にもみ消すことを条件に離婚は成立した。 精神に破綻をきたしていたことが明らかになった紫織は、都内の病院に収容された。 紫織が差し出したその紙を受け取ろうともせずに、真澄はゆっくりと部屋を横切り、窓辺に近寄る。外の景色を一望したあと、静かに振り返ると、紫織の目を見つめた。自分はいまだかつて、これほどまっすぐにこの人の目を見たことがあっただろうか、そんなことを思いながら…。 「あなたに、会いにきました。私が傷つけたあなたに…」 一瞬、紫織の瞳の水面が波紋を起こしたように揺れる。 「…わたくしに、許しを…許しを乞いにきたのですか?」 静かだけれども、細かな刺を含んだ声は喉もとで震える。 「いいえ…、許しなど…、あなたに許して頂こうなどとは思っていません。ただ…」 そこで真澄は、言葉を切ると、一層強く紫織の瞳の深淵を覗き込んだ。 「全ては自分に非があったということを認めるためと、そしてそれを生涯忘れないために、あなたに会いに来ました…。 あなたをここまで傷つけ、追い詰めたことをお詫びします」 そう言って、真澄は深々と体を折った。 「もう…、結構です…。これ以上、紫織をみじめにしないで下さいませ…」 ゆっくりと体を起こして再び見つめた紫織の瞳には、自分の謝罪に対する拒絶の色ではなく、ただ哀しみと悔恨に満ち溢れていた。 「死ぬことさえもいとわない愛の前では、私のあなたへの愛など、おもちゃのようなものでしたわね…」 紫織は声音を変えて静かにそう言う。 「殺してくれって、仰りましたのよ、あの方!それで私の気が済むのなら、殺してくれ、と!死んだところで自分の愛は消えてなくなるものではないから、関係ないまで仰いましたわ、あの方!!」 紫織の声が荒がり、真澄は緊張する。けれども、それは決して錯乱状態に陥ったものではないことがすぐに分かる。 「それが、あなた方の愛なのですか?愛されることよりも、愛することしか求めない、あなた方の…」 紫織の白い頬に透明な涙が伝わる。 「愛されることに例え限界があったとしても、愛することに限りはありません。私も、マヤもお互いを愛することしか考えていません。愛されることは、二人の間では偶然の一致にしか過ぎないのかもしれません…」 淡々と真澄は答える。紫織は真澄のその言葉を、瞼を閉じたまま、じっと心の耳を傾けるようにして聞いたあと、大きく息をする。 「最後に、一つだけお聞きしてよろしいですか? もしも、あなたがあの方と出会っていなければ、わたくしを愛してくださることはありましたか?」 真澄は押し寄せる同情や、誤魔化すばかりの感情の全てをおいやり、ただ正直に答える。 「私が彼女と出会っていなければ、私は生涯、誰も愛さなかった…。それだけのことです…」 紫織はフフフと、小さく笑う。 「もうその場しのぎのお世辞や偽りの優しいお言葉を聞くことも、ないのですね…」 紫織は握り締めていた一枚の紙を差し出す。その指先は細かく震え出すが、こぼれた言葉は震えることもなく、はっきりと真澄の耳に届く。 「正直に生きてくださいませ、真澄さま。 ご自分の心にいつも、正直に生きてくださいませ。 余計な優しさや、気づかいは無用です。 あなたのその優しさに恋をし、その優しさによって地獄まで貶められた哀れな女からの一生のお願いです。 正直に、幸せになって下さいませ…」 真澄は震えるその紙を黙って受け取る。一瞬触れた紫織の指先は、その白さとは裏腹に、たしかにそこに人の血が通っている温かさがあった…。 ![]() 「遅くなった…」 それだけ言うと、真澄はマンションのドアを急いで後ろ手に閉めた。 玄関まで迎えにきたマヤは 「…遅くないですよ…。ほら、いつもとおんなじぐらい…」 そう言って左手で真澄の手首を取ると、シルバーの重い時計に目をやった。利き腕ではない左手の、多少のぎこちなさを伴ったマヤのその動作に、真澄の心臓がぐしゃりと歪む。 ホテルでのあの事件後、同居人の麗が地方公演に行っており、利き腕を怪我したままでの一人暮らしへの心配も手伝って、真澄は自分のマンションにマヤを住まわせていた。実際はそれは口実のようなもので、もはや離れて暮らすことなど考えられないという思いが本当のところではあったが…。 『元気か?』 療養中のけが人に対してその言葉もないだろうと、真澄はそれを飲み込むと、結局うまい言葉が見つからない変わりに、そっと頬に手をあてがい、口付けた。 「おかえり…なさい…」 今まで何度か口に出そうとは思っては、つい照れてしまい言うことが出来なかったそれを、マヤは今日初めて口にした。 「…ただいま…」 真澄はつられて自然と口をついて出たその一言が、不思議なぐらい胸のあたりを温かくするのに驚く。 『ただいま…』 その短いたった一言に…。 ![]() 夕食後、いつものように真澄は薬箱を持ってくると、包帯が何重にも巻かれたマヤの右手を差し出すように促す。テーブルの上で、言われた通りマヤは真澄に右手を差し出す。 無言のまま真澄は白い包帯をスルスルと解いていくが、血が滲んだガーゼを外す瞬間、顔を苦痛に歪ませる。 「…大丈夫ですよ…。もう、そんなに痛くないもの…。胸の方の傷なんて、かさぶたになってたもの…」 マヤは申し訳なさそうな声で言う。毎日、毎日、このガーゼを取り替える瞬間の真澄の苦痛に満ちた表情を見るのは、マヤも辛かった。 「あ…、傷くっついてきてる…」 丁寧に真澄が消毒液で、傷口を拭い、見えてきた傷跡に対してマヤは声を上げる。アルコールが傷口に染みる痛みを誤魔化すように…。 手のひらの皺の間に入り込んだ、血を丁寧にぬぐいとりながら、次第に晒されてくる傷跡を目にし、真澄の動きが止まる。掴んだ真澄の手がわずかに震え出すのをマヤは感じた。 「…どう…して、こんなっ…」 今までこの作業中には努めて無口に振舞うことによって、心の均衡を保っていた真澄がついに崩れる。 「守るといったのに…、必ず俺が君を守ると言ったのに…!!」 深い悔恨に襲われ、声が震え、そして崩れた心のかけらは目じりから熱いものとなって、頬を伝わる。 「女の君の体に、女優の君の体に…、いや、誰よりも愛する君の体に傷をつけてしまった…。消えない傷を…!!」 真澄は生々しい深い傷跡がいくつも刻まれた、マヤのその手のひらを両手で包みながら、嗚咽する。 「…速水さん…」 マヤは困ったように静かな声で、名前を呼ぶ。 「ねぇ、見て…。これ…。あたしの運命線も生命線も切れちゃってる…」 真澄は訳がわからないというように、一瞬訝しげな表情でマヤを見つめるが、言われた通りにマヤの手のひらに目をやる。 「ナイフを強く掴んだときについた傷跡…、ほら、この一番大きいやつ、あたしの運命線と生命線、ぶっつり切ってるでしょ…」 マヤの言う通り、その大きな深い傷跡は、マヤの手相でいう運命線と生命線を寸断していた。 「…それでも、あたし、生きてる…。こうやって、速水さんの目の前で生きてる…。あなたを愛するって運命も、女優として生きていくっていう運命も、何一つ狂わされずに生きてる。 こんなに傷だらけになっても、ちゃんとまっすぐに生きてるなんて、凄いと思いません?」 深い笑みを浮かべた、マヤの瞳がだんだんと潤んでくる。 「速水さんが守ってくれたんです…。 殺されるかもしれないって思っても、自分の血がだらだら垂れてるの見ても、あたし、少しも迷わなかった。 あなたを死んでも愛することを少しも迷わなかった…。 あなたへの愛があれば、あたし、なんにも怖くなかったよ…」 ついに感極まって、マヤの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。それはとても透明で、清らかで…。真澄はそれを美しいと思う。 「今…、はめてみてもいいか?」 真澄のその唐突な問いにマヤは、訝しげに瞬きする。 「君の首にかけてあるものを…、指にはめてもいいか?」 マヤは驚いて言葉を失う。婚約指輪を真澄が自分の指にはめたい、ということの意味は…。 「え…、あの、それって…」 喉もとで声はおかしいほどに掠れてしまう。 「今日…、紫織さんと離婚が成立した。彼女にも会ってきた…」 真澄のその言葉は、喜びよりもただひたすらに衝撃をマヤに与えた。分かっていたことではあったけれど、確実に自分が一人の人間の運命を狂わせたことに対する戸惑いがマヤを襲う。 「紫織さんに言われた。正直に幸せになってくれ、と…。それが、自分からの一生の願いだから、と…。 一生をかけて、全力で君を幸せにする。一生をかけて、君を愛していく。 君にも一生をかけて、それに応えて欲しい…」 瞬きを忘れたマヤの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。何かを言葉にしなければ、と思えば思うほど、形にならないものが喉元を押し上げる。 「…応える…、なんて…出来ないよ…」 途切れ途切れに聞こえたマヤのその言葉に、真澄は唾を呑む。軽い眩暈に近いものさえ感じる。けれども、言葉を一つ一つ手探りで探すようなマヤのその口調は、次の言葉を探していた。 「だって…、だって…、あたしの愛は速水さんにあげるだけの愛で、いっぱいだもの。何ももらえなくたって、もう、それしかあたしには出来ないもの…。いらないって言われたって、邪魔だって言われたって、あたしだって、一生速水さんにあげる愛しか持っていないもの…」 同じ重さで愛し合うことへの奇跡、求め合うことへの奇跡に、真澄の胸は押しつぶされそうになる。真澄の指がゆっくりと伸び、マヤの首の後ろに回される。震える人差し指の爪で、ネックレスのつまみの部分をはずす。小さな手応えでそれが外されると、真澄はゆっくりとそれをマヤの首から引き離した。銀の鎖が引き抜かれたその指輪は、真澄の手のひらで眩い光を放つ。 「長い間、苦しい思いをさせて、すまなかった。これからの二人の舞台には、俺たち二人しかいない。君と、俺だけだ…」 そう言って、ゆっくりとマヤの震える左手の薬指に、輝く石を滑り込ませる。関節にあたって、一度止まったそれを、真澄はゆっくりと奥まで押し込む。 似合わないと思っていた背伸びの象徴であったはずのピンクのマニキュアに、それはとてもよく似合った。やっと居場所をみつけたその指輪を愛おしそうに見つめながらマヤは言う。 「夜中にね、一人ぼっちで寂しかったとき、これをこっそり自分ではめてみようかな、って何度も思った。でも、ずっと我慢してた。速水さんにいつか、はめて欲しかったから…。 願いがかなって、あたし…、凄く嬉しい…」 指輪からそっと目線を外すと、マヤは真澄の瞳を見つめる。真澄の瞳の中に映る自分自身に誓うように…。 「これからも、あたし、一生懸命にあなたを愛します。 ずっと、ずっと、愛します…」 その言葉に、真澄も同じようにマヤの瞳に映った自分自身に誓う言葉を探す。けれども、何を言葉にしたところで、今この瞬間の気持ちを表すことは出来ないように思う。変わりに、伸ばした指でマヤの髪の間をくぐらせるように、何度も梳く。髪の間に隠れた言葉を探すように。 そうやって、溢れる思いや、心のさざなみがようやく落ち着いたころ、静かに見つけた答えを告げる。 「君の髪が、背中まで届いたころに、結婚しよう…」 それは、とても静かに、とても自然にマヤの心の奥の、誰にも触れられたことのない部屋まで届く。ゆっくりと一度瞼を閉じ、その言葉の行く先をじっと見守ったあと、マヤは静かに目を開ける。 「…はい…」 胸に押し寄せる、万もの思いをその一言に託して…。 2003.4.23 エピローグに続く… ![]() |
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