| 手のひらで融けた雪 1
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━春が来たら、全てが終わる。
まるで手のひらで融けた雪のように、跡形も無く全てが消えて、全てが幻となって…。 そっと開いた手の平には小さな涙の水溜りだけが残される…。━ ![]() 大都芸能社長室。 「欲しいもの…ですか?」 「あぁ、まぁ、あんまり無茶なものは頼むなよ」 (欲しいもの…) これと言って物欲を持った事もないマヤは、唐突にそんな事を聞かれても何も思い浮かばない。途方にくれたように、社長室の窓から見える風景に目をやった。 マヤはこの暮れから新春にかけての初めての「紅天女」の公演を終えたばかりであった。幻の紅天女がいよいよ日の目を見るという事で内外の期待は異常なまでに膨れ上がり、ちょっとした『紅天女ブーム』が起きたほどだった。 興行的にも大都がかつて手がけた舞台関連では異例の観客動員数を記録し、間違いなく今後のロングランが約束される結果が出せた。 それらをねぎらって、関係者一同に、特別手当が出される事になったのだ。 (そういえば、黒沼監督、なんだかすっごいマッサージ椅子をもらったとか、言ってたなぁ) マヤはちらりとそんな事を頭の隅で思い出す。 大方の関係者がすでに、それぞれの希望を提出したというのに、マヤだけが何も言ってこないというので、今日は真澄がマヤを呼び出したのである。尤も、電話や、秘書にやらせても済むような用件であるのに、わざわざ呼び出したのは真澄個人の思惑も手伝っての事だが…。 「う〜ん、私、何も要らないです。ギャラも頂きすぎるほど頂いてるし、舞台立たせてもらえるだけで、そもそも充分だし…」 欲というものを知らないマヤの無邪気な発言に、真澄は苦笑しながら答える。 「チビちゃん、欲がないのはいい事だがな、人の好意は大事に受け取っておくべきだぞ。がんばったご褒美だと思えば、気が咎めるものでもないじゃないか」 「それは、そうなんですけど…」 マヤはそう言ったきり、ほんとに何も思い浮かばない自分が少し、恥ずかしくなる。 (きっと世間一般の女の子だったら、欲しいものなんてすぐ浮かぶんだろうなぁ…) そんな思いが頭をかすめて、何も知らない、そういった事に疎い自分が嫌になる。 「速水さんは?速水さんだったら、こういう時、何、頼みますか?」 咥えていたタバコを取り落としそうになりながら、真澄は笑い出す。 「俺に聞いてもしょうがないだろうが」 しかし、そう言ったあとでマヤがあまりにも真剣な眼差しで自分を見つめるので、思わず思案してしまう。 「…そうだな、俺だったら、ダメで元々、一番欲しいものを頼むかな…」 切なそうに一瞬目を細めたその表情に、マヤはどきりとしながら、言葉を繋ぐ。 「…一番欲しいものって?」 「金では買えないものだ…」 それだけ言うと、マヤから目を逸らし、窓際に歩みよると、タバコの煙を大きく吐き出した。 (それはなんですか?) 聞いてもきっと教えてくれないだろう問いの代わりに、マヤの喉からでた言葉は少し震えてる。 「じゃぁ…、アタシもそうしよっかなぁ…」 「?」 訝しげな表情で真澄がマヤを見つめる。 大きく深呼吸を一度すると、マヤは思い切ったように一気に言う。 「速水さん、春が来るまで、私とつき合ってくれませんか?」 真澄は今度こそ、タバコを取り落とすと、絶句したままマヤを凝視する。マヤの表情が少しも揺れないので、やっとの思いで言葉を繋ぐ。 「…それは、どういう意味だ?」 「どういうって…、言葉通りの意味です…」 言ってしまった後で、やはりいくらなんでも大胆な事を口走ったとマヤは気付く。 「あ、あの、深い意味はないです。社長とその所属事務所の女優って事でいいんですけど、たまに食事行ったり、お芝居見たりとか、そういうお付き合いでいいんですけど…。速水さん春には結婚するんでしょ?そしたら、そんな事も出来なくなるかなぁ、って…。 あれ…?今でも、無理ですよね。お仕事忙しいし、そんな時間ないか…。 それに…、それに、婚約してるんですもんね。そんな時間あったら、紫織さんのために時間使いますよね…」 勢いにまかせて、とんでもない事を口走ってしまった事に今更気付いて、マヤは動揺する。 (どうして、アタシはすぐ思いつきでなんでも、言っちゃうんだろう…) 「ごめんなさいっ!忘れてください。今の全部ナシです。 えっと、何か思いついたら水城さんに電話入れますんで…」 そう言って、全てを放棄して逃げ出すように、マヤは社長室を飛び出そうとする。その途端、マヤの背中に突き刺さる、声。 「待て!俺はまだ返事をしてないぞ」 恐る恐るマヤは振り返る。 (そんな、返事もなにも…) 振り返った瞬間、目に入った真澄の表情があまりに真剣なので、マヤは思わず出かかった言葉を喉元に詰まらせる。 「それが君の一番欲しいものなのか?」 (やぁだ、冗談ですよ!) 今なら、そう笑って引き返せる場所かもしれない。そう思っても、自らの口から発せられた言葉はあまりにも素直にそれを認めてしまう。 「…それが、一番、欲しい…です…」 真澄はマヤにゆっくりと歩み寄る。長い美しい指が、ほんの少しだけ頬に触れる。 「君は本当に変った子だ…」 それだけ言って、切なそうにマヤを見つめると、その長い指を髪の間に通す。マヤは心臓の音が体中に共鳴して、鼓膜を突き破るんではないかと思うほど、ドキドキする。 「一緒に食事をしたり、芝居を見たりするだけでいいのか?」 真澄の指がサラサラとマヤの髪の間をすり抜ける。マヤはなんと答えたらいいのか、完全にショートしてしまった思考回路の中で懸命に答えを探す。 「あ、あの…、速水さんは、どう、したいですか…?」 再び真澄の指が耳のすぐ上の辺りに少し強引に入れられ、髪を梳いていく。 「大人の男に向かって、『付き合って欲しい』とお願いしたら、男はこういう事をするのが普通だと思うが…」 そう言うと、髪を梳いていた手を頬の辺りに強めにあてがい、一気に自らの顔を近づけた。 咄嗟にマヤは力いっぱい目を瞑る。目の前にせまってきた真澄の美しい顔に圧倒され、目を開けている事が出来なかった。抑えようと思っても、奥歯が噛み合わないほどにガチガチと震えだす。 (キス…される?) そう思って思いっきり両手の拳を握り締めた瞬間、自分の息ではない生温かい空気が唇に伝わる。 しかし、交わりあったのはお互いの吐息だけで、誰の訪問を受ける事もなかったマヤの唇だけが取り残される。 ゆっくりと真澄の手が、頬から離れていく。 離れていってしまう温もりに縋る思いで、マヤは目を開ける。目に入ったのは冷静な表情で笑う、真澄の顔だった。 「無理はするな…。俺も、その気は無い」 瞬きを一度してその言葉を心の一番奥まで、送り込むと、ゆっくりと心が引き裂かれた。 (こんな子どものお相手なんて、速水さんがしてくれるわけないじゃない…) 羞恥心から、下唇を噛みきれるほどに強く噛む。 「し…失礼します!!」 (もう恥ずかしくて2度と会えないっ!) 心の中でそう叫びながら、今度こそその場から飛び出そうとする。 「今日の夜、8時だ…」 突然、背中に向かって発せられた不可解な言葉に、マヤは足が竦む。もう振り向かずにここから出ようと思っていたのに、やっぱり振り向いてしまう。 「……?」 真澄は足早にデスクまで戻ると、何か走り書きする。 「La Casaというレストランだ。俺の名前で予約を入れておく。少し遅れるかもしれないが、先に行っててくれ」 簡単な地図と店の住所が書いてあるそれを、真澄はマヤの手のひらに丸め込む。 「それから…」 と、思い出したように背広の内ポケットから名刺入れ出すと、そこから一枚抜き取り、やはり何か後ろに裏書きする。 「携帯の番号だ。会議中は出れないが、メッセージは残せる。何かあったら電話しろ」 二つ重ねてそれらを手の平に握らされると、マヤは口をパクパクさせながらも、なんとか言葉を繋ぐ。 「で、でも…、速水さん、こんなの、迷惑でしょ?子どものお守りなんて、嫌でしょ?」 真澄は曖昧な笑いを浮かべると、なんでもないかのように言う。 「それが、紅天女さまのお願いとあれば…」 その瞳に浮かべた表情はやっぱり複雑すぎて、マヤには読み取れない。 (そっか、女優としてなら、商品としてなら、相手をしてくれるって事か…) そこまで思い当たると、手のひらに残された2枚の紙をぎゅっと握り締める。 「じゃぁ、8時に…」 それだけ言うと、今度こそ走りながら社長室を後にした。 マヤが出て行った後の社長室の空気は、明らかに漂うものが違った。 どさりと来客用のソファーに腰掛けると、真澄は天井を仰いだ。 (まったく、あの子は何を考えているんだ…) こみ上げる苦笑を押し込めるように、タバコに火をつける。触れなかったはずの唇が熱を持ったように熱い。 自分でもあそこで止められるとは思わなかった。あの子の気まぐれに惑わされ、抑えきれないほどの情熱が迸り出たのは事実だ。だが、小刻みに震える汚れを知らないその唇に、悪戯に烙印を押す事は出来なかった。 ただし、それがどこまでこの先も彼女の言う、 『つき合う』 という行為の中で抑えられるか、真澄には全く確証が持てなかった…。 |
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