| 手のひらで融けた雪 2
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帰り道、マヤは戸惑いを隠せずに何度も唇に指をやる。触れずにいた幻の感触を思い返すかのように…。目を閉じると生々しく思い出してしまう湿り気を帯びた真澄の吐息が、胸を苦しくさせる。
(嘘でもいいから、キス…してくれれば良かったのに…) それが許されない望みだと、知りすぎるほどに分かっているから、望んでさえいけない事だと分かっているから、そんな事を期待した自分を疎ましく思う。 手のひらで丸まっていた2枚の紙をそっと伸ばす。 走り書きのような自体だけれど、数字の『2』のはね方が紫の薔薇の人の『2』と同じだった。途端に胸の奥が熱くなる。 一体自分は何を期待しているのだろう。これ以上悪戯に、思い出を増やしてどうするつもりなのだろう。確実にやってくる運命の日、真澄が永久に他人のものになってしまう日が、迫ってきているというのに…。 2枚の紙をもう一度強く握りしめる。 (ただ、食事をするだけ…。食事をして、少し、お喋りするだけ…) うわ言のように、マヤは自分自身に何度も言い聞かせると、ショーウィンドウに移った自分に小さく笑ってみる。 (あと、ほんの少しだけ、楽しい思い出が作れればいいじゃない…) 真澄の前では絶対笑みを絶やさないようにしよう、それだけ心に誓うと、地下鉄の階段を駆け下りた。 ![]() 青山の裏道にあるそのレストランは洋館を改造して作ったような造りで、知らずに通り過ぎてしまうような店構えだった。時計の針は8時10分前を指している。 (きっと、速水さんはまだ来てないだろうな…) 遅れるかもしれないと言っていた真澄が、遅れる事は想像できても、早く着いてるとはとても思えなかった。 一人で入るのは気が引けたが、待ち合わせなのだから仕方ない。マヤは重い扉を押して、中に入っていく。 すぐに近づいてきたボーイにどもりそうになりながら、急いで伝える。 「あ、あの…、速水の名前で予約してあるんですけれど…」 『速水』、そう呼び捨てにしたのは初めてだ。なんだか猛烈な照れくささが襲ってきて、思わず顔が赤くなったりする。 「承っております」 丁寧な物腰で、ボーイに奥の方へ案内される。ちらりと通り過ぎたテーブルに座る人々を見ただけでも、ここがマヤなどが気軽に入れない高級なレストランである事がわかる。階段を登って、二つ目の扉の個室に案内される。 (こ、個室…。こんな所で、食事するの初めてかも…) 急に自分が場違いな場所に居るような気がして、足元から不安な気持ちが押し寄せる。 着てきた服はこれで、良かっただろうか? こんな子どもっぽい自分じゃ、真澄の負担になるのではないだろうか? 今更考えてももう遅い事に頭を支配されたら、手のひらにじっとりと汗までかいてしまった。 「どうぞ、こちらでございます」 抑揚のないボーイの静かな声に押されるように、開けられた扉の中に吸い込まれる。 「う、うそっ!速水さん!!」 驚きのあまり、高い声で叫んでしまう。 「嘘って、君…。随分なご挨拶だな。ここで君と待ち合わせしたのは、俺だったと思うんだが」 言葉は嫌味ったらしいが、柔らかい笑顔を浮かべて真澄が言う。 「い、いえ、あの…、まさか、速水さんの方が先に来てるなんて思わなかったから、ちょっとびっくりしちゃっただけです…。ご、ごめんなさい…」 しゅんと俯くマヤを眩しいものでも見つめるように真澄はじっと視線を注ぐと、すぐに立ちあがってマヤのコートを脱がせる。 コートを脱がされただけなのに、それだけの事なのに、すでにマヤの心臓はドキドキしてきてしまう。 (速水さんが先に来てたから、ビックリしただけよ。 それから、こんな雰囲気のいいところで会ったから、ちょっとドキドキしてるだけ) 懸命に動悸が上がる言い訳を自分にして、テーブルにつく。 「お、お仕事、早く終わったんですね」 「あぁ…。会議が一つキャンセルになったんでね」 そう言って、ゆっくりとマヤのグラスにワインを注ぐ。キャンセルになったのではない、キャンセルにしたのだ。でも、勿論そんな事はマヤには言えない訳で…。 「ステキなレストランですね…。良く、来るんですか?」 何気ない場繋ぎの質問のつもりだったのに、もしかしたら真澄の同行を探る響きになってしまったのでは、とマヤは言ってしまったあとで後悔する。 「あぁ…。他人に邪魔されたくない話をする時にはちょうどいい…」 『他人に邪魔されたくない…』 それはきっと、恋人とか婚約者とか、そういう人と居る時間を指すのだろう。胸の奥がキリリと痛む。 「まぁ、仕事の相手ばかりだがな」 マヤの気持ちを見透かしたように真澄が付け加える。 (ウソばっかり…) そう思って、思わず俯いて自分の左手で右手を強く握り締める。 と、突然、顎にかけられた真澄の指。 「顔は、上げておいた方がいい…」 真澄が触れた顎の先の部分だけ熱を持つ。思わず真澄を見つめる瞳が潤んでしまうのを自分でも抑えられなかった。 真澄があらかじめ予約しておいた、コースメニューが運ばれる。それらは高級料理を食べ慣れてないマヤでも充分に楽しめるもので、次々と運ばれる芸術品の見本のようなプレートの数々にマヤは目をクルクルさせる。 ワインのアルコールがマヤの唇を溶かし、饒舌にさせる。マヤがずっと心配していた『沈黙の晩餐』は姿を潜め、そこにはただ無邪気に流れる、幸せな一時があった。 「それでね、それでね…」 そう言って、他愛もない事を嬉々として話し続けるマヤを、時には笑い飛ばし、時に得意の毒舌で丸め込め、真澄は (これほど食事が美味かったのはいつ以来だろう…) そんな事を考える。紫織との結婚がもはや秒読みとなって、それはまるで自らの死刑執行に向かって確実に毎日が切り落とされていくような生活で、何をするにもその動作に何か特別な意味があるわけではなかった。 ただ、眠り、起き、働き、食し、そして眠る。それだけの事だった。 しかし、この少女を前にすると、全てのもが意味を持って存在し始める。物事は色を持ち、音を立て、そして真澄の心に忘れ去られていたいくつもの感情を呼び起こさせる。 こんな気持ちは生まれて初めてで、溢れかえるその思いは最初のうちはその切なさを楽しむ余裕はあれど、すぐにそれは絶望的な思いに塗り替えられていく。 それは、これほど望んでも決して手に入れる事の出来ない存在を、残酷に目の前で見つめ続ける作業でもあるからだ。 デザートに運ばれたケーキの山にマヤが忙しくフォークを動かしていると、真澄がそれまでとは違った声音で切り出す。 「どういう意味なんだ?」 「え?」 フォークを口に入れたまま、マヤは動きを止める。 「春が来るまで俺とつき合いたい、と言った君の心理を聞いているんだ…」 ゆっくりとフォークを口から抜き取りながら、マヤは答える。 「だって、速水さん、春になったら結婚しちゃうし…」 「結婚したって、社長と所属の女優が食事に行くぐらい出来るだろう。君の言った『春までつき合いたい』の、君としての意味を聞いているんだ」 マヤはカタリとフォークを置く。 「それは、答えなければいけない質問ですか?答えないほうがいい質問だと、私は思います…。 でも、どうしても答えろって言うんだったら、交換にしましょう」 真澄が訝しげに首を少しかしげて、マヤを見つめ返す。 「交換?」 「私がその質問に答える代わりに、速水さんも私の質問に一つ、答えてください」 数秒真澄は無言になったかと思うと、くすりと小さく笑いながら答える。 「チビちゃん、君も随分賢くなったな。この俺にそうやって立派に物事を要求してくるとはわな。 よかろう、一つでいいんだな、質問は」 「はい…、一つでいいです…。その代わり、絶対正直に答えてください。私も正直に答えますから…」 そう言って、マヤが膝の上の白いナフキンをテーブルの上に無造作に置くと、大きく息を吐く。俯いていた視線をゆっくり上げ、真澄の瞳に合わせる。 「笑わないで聞いて下さいよ…」 震える声で訴えるマヤのそののっぴきならぬ様子に真澄の鼓動が上がる。 「私が、速水さんと春が来るまでつき合いたいって、言ったのは…、それは…」 声が震えてしまうのはどうしようもなかった。膝の上で組んだ両手も震えている。カラカラに渇いてしまった喉に声が詰まる。ごくりと一度唾を飲み込んでから、マヤは静かに続けた。 「忘れられない思い出が欲しかったからです…。春になったらちゃんと全部、思い出にするから、全部どこか記憶のずっと奥の方にしまって、速水さんに迷惑かけないようにするから、速水さんが他人のものになっちゃっても、それでも生きていける、思い出が欲しかった…」 真澄の体の底辺から得体の知れないものが這い上がる。 (それ以上は言うな。言うべきではない…) そう思っても、それらは音を立てずに真澄の唇の上を滑り落ち、指先だけがみっともなく震えだす。 「…速水さん、私、あなたが好きです…。こんな気持ちは迷惑だって、わかってます。それでも、好きなんです。 好きで…、ごめんなさい…」 真澄は視界がぐらりと揺れるような眩暈を感じる。 (こんな幻があってたまるか…) 震えを押し隠すように、拳を強く握り締める。 「…それで、君の質問は?」 押し殺すような声で真澄は言葉をかろうじて繋ぐ。 自分の告白に対してなんの反応も示さない真澄に、マヤは絶望的な思いに囚われながら、なんとか声を絞り出す。 「私の質問は…」 もう一度顔を上げて、マヤは真澄の瞳に焦点を合わせる。瞬きをしたら、涙がこぼれてしまう気がした。 だから、しなかった。 「速水さん…、紫の薔薇の人はあなたですか?」 1.16.2003 ![]() |
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