手のひらで融けた雪 10
速水邸。

「紅天女の興行成績は相当良かったと聞いているが…」

何かを引き出すような言い方で、英介が口を開く。すでに、観客動員数やら総売上に渡る、微細な記録は英介のもとに行っているはずである。

「ええ…、やはり幻の名作と謳われるだけありましたね。宣伝、プロモーションもこれほど楽だった事はありませんでしたよ」

お互いが在宅であっても、もはや顔を付き合わせる事も無くなっていた二人にとって、紅天女は唯一の共通項でもあった。

「出演者に特別手当が渡されたそうだが、あの娘は何を頼んだのかな」

英介が伺うような視線を投げかける。真澄は一瞬、言葉に詰まった後、何気ない風に取り繕うが、その一瞬の戸惑いを英介は見逃さなかった。

「あの娘とは…、北島マヤの事ですか?
彼女なら、何もいらないと言って、申し出そのものを辞退しましたよ」

英介は一瞬驚いた表情を浮かべるが、

「それはまたあの娘らしい!」

と、すぐに大声を上げて笑い出した。

「上演権も大都に委任したそうだな」

「ええ、私の個人名義となっていますが、私が大都に居る限りは大都のものも同然でしょうね」

持って回った引っかかりを覚えるようなその言い回しが、英介の神経のどこかを刺激する。

「時に、鷹宮との縁談の事だが、滞りなく進んでいるんだろうな。四月はもうすぐだぞ」

ずっと、居間の窓から外を見やっていた真澄は、ゆっくりと体の向きを変えると、テーブルの上に置いてあった資料を無造作に英介に渡す。

「それが、私の答えです…」

抑揚のない声で、静かに言う。
【鷹通との事業不提携による被害総額と対策】
と書かれたそれを見た英介は、カッと目を見開き、動揺のあまり怒鳴りつける。

「真澄!!これは、どういうつもりだっ!!」

英介に怒鳴りつけられる事など、全て計算の内だ。全く焦る様子も見せず、真澄は冷静に言葉を紡いでいく。

「見ての通りです。鷹通との提携事業が暗礁に乗り上げた場合の予想被害額及び、その回避方法の詳細なデータです」

ふてぶてしいまでに冷静な真澄のその態度に、英介はいよいよ、怒りに声を震わせる。

「そんな事は聞いとらん!!なぜ、不提携になるか、気いとるんじゃっ!!」

もし、足が不自由でさえなければ、今にも殴りかかりそうな、まるで野犬の様な勢いを持った英介のそれに対して、真澄はなだめる素振りさえも見せない。

「鷹宮との縁談を破談にするつもりだ、という事です。
紫織さんとは結婚しません」

「何を言ってるのかわかってるのか!頭を冷やせっ!!」

テーブルの上の灰皿が真澄をめがけて飛んでくる。真澄は瞬時にそれをよけるが、ガラスの灰皿は激しく壁にぶち当たり、激しい音を立てて粉々に砕け散った。

「理由はあの女優か…?!」

英介のギラギラと睨みつけるその視線に、少しも真澄は動じない。

「全てを失っても、彼女と居る道を選ぶ事にしました。ただ、私には大都の社長としての責任があります。不提携によって予想される莫大な被害を、野ざらしにして行くつもりはありません。鷹通との提携を白紙に戻したとして、業界第3位の昌通、それから4位のカネダ産業、この二つを合併吸収するつもりです」

「なっ!!」

驚愕のあまり英介は言葉を失う。

「絵空事ではありませんよ。すでに、交渉の段階に入っています。表向きは提携合併となっていますが、事実上の吸収合併です。鷹通との事業提携が滞ったとして、今現在予定されていたプロジェクトを遂行するには充分な後ろ盾だと思いますが。
昌通には東日放送と東海新聞が付いてます。中央テレビ、中央新聞に取ってかわるマスメディア戦略もここで確保できます」

ゆっくりと英介は真澄が用意したそれらの資料をめくっていく。そこには詳細に想定された被害総額、そして今後の建て直しに向けての事細かな事業内容が記されていた。

「鷹通との事業不提携から受ける打撃からの再建は、少なく見積もって2年で返せるでしょう。昌通とカネダ産業の吸収合併には、直接自分が関わるつもりでいます。こちらの方は早くて一年で結果が出せるのではないでしょうか。
大都の再建の見通しが付きましたら、後は私の処分に関しては煮るなり焼くなりお好きになさって下さって結構です」

平然と言い放つ真澄のその態度に、英介は一瞬絶句するが、すぐに持ち前の攻撃的な面を取り戻して押さえ込む。

「ずいぶん、お前さんにとって都合のいい風に聞こえる話だな。実際はそんなに甘くないぞ。そう簡単にお前の思い通りになると思ったら大間違いだ!!
大体、世界の鷹通を敵に回して、どうするつもりだ!お前は大都を危機に晒す気か!!」

真澄は静かに微笑をたたえると、攻撃するつもりはない事を表す声音で言う。

「お義父さん…。私は、あなたがなぜそれほどまでにして、この縁談に拘るのか、それがわかりませんよ。確かに鷹通の後ろ盾はこの業界ではこれ以上なく強いものでしょう。ですが今時、政略結婚でそれらを無理矢理手に入れたところで、それがなんだと言うんですか?
肉親や戸籍上の縁が、どれほど危うく、疎ましいものであるかはあなた自身が一番よくご存知ではありませんか。だからこそ、血の繋がらない私を後継者として選んだのではないですか?
私が大都の社長として、次期後継者として大都を守っていくとすれば、そのような危うい紙切れの関係には頼りませんね。私自身のやり方でそのぐらいの力を付けてみせますよ」

今までにないほどの強い燃え立つほどの闘志を込めて、真澄は言い放った。
英介が一向に何も言わないのを見てとると、真澄は最後通告をする。

「いずれにしても、あなたの許しを乞うつもりも、答えを頂くつもりもありませんでした。これはただの事後報告だと思ってください。
ただ、あなたには大都の現会長としての権限があります。私をクビにするのも、あなたのご随意に。ただしその場合は北島と紅天女は、頂いていきます」

そこまで聞いて、英介は先ほどの真澄の言った言葉の真意に思い当たった。

『ええ、私の個人名義となっていますが、私が大都に居る限りは大都のものも同然でしょうね』

ゆっくりと部屋を後にしようとする真澄の背中に、英介は最後の罵声を浴びせる。

「飼い犬に手を噛まれるとはよく言うが、わしはお前をそんな男に育てた覚えはないぞ!!お前は結局、大都がどうなっても構わんというのだな!」

真澄はゆっくりと振り向くと、なんの攻撃性も示さない表情で答える。

「私はどうなっても構いませんよ。ただ、社員は困る。その責任だけは取ると申し上げているのです」

自らの正当性を強調するような真澄の言い方に英介の怒りは頂点に達する。

「もしも、鷹宮との縁談を破談にするというのなら、お前の大都での立場はないものと思え!!お前のお望みどおり、粗相の後始末をした後、容赦なく切り捨ててやる!お前は今日を持って、クビだ!!この先のお前の立場は、暫定的なもので、何一つお前には渡さない!!」

真澄はニヤリと笑い、

「北島マヤと紅天女以外はね」

それだけ言って居間を後にした。
いくら罵声を浴びせても、怒りをぶつけても、染みのように広がっていく虚しさが英介の胸に去来する。それは自分の想像以上に成長してしまった真澄への恐怖か、それとも忍びよる自らの老いへの恐怖か…。まるで自らの時代の終わりが近づくのを伝える隙間風が、一瞬吹き抜けていったかのようだった…。





なんとなくマヤにもそういう覚悟はあった。もしかしたら、いつか何かを言われるんじゃないかという…。この非現実的な毎日から目を覚まさせられるような言葉をいつか、かけられるような気はしてた。でも、それはやっぱり唐突すぎて、心の準備なんて1mmも出来ていなかった。

「マヤさん!」

その女性的な澄んだ声にちょっと棘を含ませたような響きは、マヤを硬直させた。

「し、紫織さん…」

ボロアパートの玄関口にはまるで似つかわしくない風貌で佇み、紫織はじっとマヤを見詰める。その優しさを取り繕いながらどこか高圧的な態度は、マヤを萎縮させるに充分だった。

「あなたが帰ってくるのを待ってました。ちょっとお話があるのだけど、いいかしら?」

「え…、あ、あの…」

断れる雰囲気ではなかった。

「汚いところですけれど、どうぞ…」

そう言ってマヤは、まだ麗も帰ってきていない部屋に紫織をあげた。

(せめて、麗でも居てくれたらよかったのに…)

思ってもしょうがない事を望んでため息をつく。今日は麗も夜まで仕事が入っている。自分ひとりで何とか相手をしなければいけない。

(何を言われるのだろう…)

漠然とした不安に胸が押しつぶされそうになる。
狭いアパートの畳みの上で、フレアースカートの裾を優雅に広げながら座る紫織は、あまりにも不似合いな存在だった。その違和感が、チクチクとマヤを追い詰める。それは、今ここに紫織が不自然に存在する事の意味を無言でマヤに訴えているかのように…。

「今更、前置きも何もいらないと思いますので、単刀直入に申し上げますわ。
火遊びの時間は終わりです。元の場所にお戻りなさい…!」

マヤはぽかんと口を開けて、紫織を見詰めてしまう。あまりにも唐突だった。1とか2を理解する前に、いきなり10を理解しろと言われたようだった。
顔色一つ変えずなんの反応もしめさず、呆けたように自分を見つめるその子どもじみた表情に紫織は苛立ちを隠せない。

(なんで、こんな子が…)

長い爪を畳に傷を付けるように、膝の横に強く引っ掛ける。紫織は口で説明するのも面倒くさいと言わんばかりに、A4サイズの茶封筒を投げつける。その自分を射竦めるように注がれた視線が、中身を見ることを有無を言わせぬ調子で要求するので、マヤは震える手で茶封筒に手を出す。

それは真澄と自分のここ数週間の、切り取られた非現実的な時間だった。写真は全部で20枚程度。マヤのアパートの前に止めた真澄の車の中でのキスシーンまであった。

「あの…、私…」

必死に言葉を紡ごうとするが全ては喉元に絡まって、飲み込まれるだけ。一体自分はどんな言い訳をするつもりなのだろう。膝の上にのせた拳をマヤはぐっと握る。何を言っても、許されない気がした…。
そんなマヤに紫織は止めを刺すようにゆっくりと話しだす。

「あなたも真澄様を愛してらっしゃるなら、真澄様ご自身の将来をお考えになったらいかがかしら?真澄様は、あなたの相手になるような方ではないのですよ?大都グループひいては、日本の経済界を将来的に背負って立つお方です。そのためにはわたくしの家の後ろ盾も必要であったわけで、私には真澄様に選ばれる理由があります。私には真澄様に差し上げられるものがいくらでもあります。
でも、あなたは?あなたは一体、真澄様に何をして差し上げられるというの?一体、どんな力になってあげられるというの?恋だの愛だの、そんなものがなんの役に立つというのかしら?確かに今の真澄様は、紅天女であるあなたに興味がおありかもしれませんわ。でも、そんなもの一時の気の迷いでしょ?わたくしは、そんな一時の馬鹿馬鹿しい気の迷いで、真澄様に一生を棒に振って頂きたくないのです。
女優ごときのあなたにはお分かりにならないかもしれないけれど、真澄様はそれほどのお方なのですよ…」

まるで真綿で首を絞めるように、じわじわと締め付ける紫織のその静かな言葉は、どんな罵声よりもマヤに堪えた。

(もう、終わりだ…。終わるんだ…)

ゆっくりと真澄と自分の間に隔てられた扉が閉まっていく様が、閉じた瞼の裏に浮かぶ。

「あの…、私、速水さんが…好きです…」

紫織は絶句する。婚約者である自分を目の前にして、しかもこのような状況でよくもそんな事が言えたものだ。

「あなた…!」

紫織は思わず、乱暴な声を上げる。そんな声も聞こえないという風に、マヤは言葉を繋げる。

「でも…、それだけの事なんです。速水さんをどうにかしたいとか、その、お二人の結婚の事とか、私にはあまりに遠い出来事で、わからないんです。
私はただ…、ただ、速水さんが好きなだけなんです。この気持ちだけは誰に何と言われようと変えられないんです。
でも…、速水さんは私の事なんか、好きでもなんでもないし、紫織さんの言うように、速水さんが私を選ぶ理由もどこにもありません」

紫織は一瞬、そこで眉を顰める。

(この子は、真澄様の気持ちを知らない?)

それならなお都合がよい。紫織はこのままマヤが真澄の気持ちなど知る前に、全てを終わらせようとする。

「…だから、紫織さんは、そんな事心配しなくっていいんです…」

絶対に泣きたくなかったので、マヤは固く目を閉じる。

「だってお二人は、春に結婚するんですから…。
こんな事してごめんなさい…。もう、速水さんとは終わりにしますから…」

紫織は自分を苦しめ続けた、この何の変哲もない雑草のような花が、自らの手のひらでしおれていくのを満足気に見詰める。

「わかって頂けて嬉しいわ。真澄様のご迷惑になるのはわたくしの本意でもありませんので、お分かりでしょうけれど、この件は内密に…」

それだけ言うと、立ち上がり、何度もスカートをはたく。まるで、目に見えないゴミでも払い落とすかのように…。

紫織が茶封筒を掴んで部屋を後にし、ドアが閉まる音が聞こえた瞬間、抑えていた涙がマヤの閉じた瞼から溢れ出た。紫織のきつい香水の残り香が、体中を目に見えない鎖で縛り付ける。下唇をどんなに強く、強く噛んでも、涙は止まる事なくマヤの頬を伝った。



真澄と過ごしたこの2ヶ月と少し。例えそれが偽りの恋人の関係であったとしても、誰かを好きになってそして、その好きな人の側に居るという事、唇から言葉だけでないものを伝え合う事、そして体の温もりを交換する事、それがどんなに幸せな事か、今の自分は知っている。それは同時にとても不確定で不安定なもので、例えようも無いほどに胸を切なく痛くさせるものだったけれど、同時に止め処ないほどに愛しさが溢れ出て、その一瞬一瞬は死んでもいいと本気で思うほど、幸せだった。
だから、例え春になって決められた通りに別れが訪れても、その幸せな思い出さえあれば、この先もずっと生きていけると思っていた。

覚悟は出来ているつもりだった。



でも、結局それは『つもり』でしかなかった…。



手のひらに残された、片方だけの真珠のピアス。
いつまでもそれを握り締めながら、マヤは偽りの恋人の最後の瞬間を思い描いた。





1.24.2003







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