手のひらで融けた雪 11
電話をかけるのは2度目だった。

初めて電話したのは、あの唐突なキスのあと、もう一度思いを伝えたくて、縋る思いでかけた。そして、2度目の今はあの時よりも、もっと切実でもっと重要な伝えたい願いを胸に秘め、受話器を取る。電話をするのもきっと、これが最後…。

「もしもし…」

優しい低い声。声だけでも、自分はこんなにこの人が好きなんだと思い知らされる。言うべき事は紙にまで書いてあった。何度も、繰り返して練習までしてみた。それなのに、声を聞いたら頭は真っ白になってしまい、やっとやっと口を開いて出てきた言葉は、あまりにも短くて、そして唐突だった。

「…会いたい……」

言ってはいけない事を言ってしまったというショックに、マヤは右手で口を塞ぐ。

「マヤ…?」

心配そうな真澄の声。

(ちゃんと、しなきゃ…。ちゃんと、自分で終わらせなきゃ…)

奮い立たせるように心の中で呟くと、出来るだけ明るい声を取り繕って言う。

「速水さん…、今すぐ会いたい…。今すぐ、どうしても会って欲しい。会いにいっちゃだめですか?」

マヤから初めてかかってきた電話は、その声の明るさとは裏腹にどこか緊迫した空気を真澄に伝える。

「今は、まだ社に居るが、11時ぐらいには出れると思う。そんな遅くでもかまわないんだったら…」

躊躇いがちに出された真澄の言葉もすぐにマヤのそれに掻き消される。

「いい、それで、いいです…。何時になっても構いません。会っていただければそれでいいんです…」

真澄はしばらく思考をめぐらせるように沈黙したあと、伺うように言う。

「俺の家に来るか?いや、俺の家と言っても、速水の屋敷の方じゃない。会社の近くのマンションなんだが…」

下心はないつもりだった。まだ、早すぎる時期にマヤを抱いた事から、マヤにいらぬ心配を与え後悔していたのも事実だった。だが、そんな遅くに会うとなれば、おのずと場所は限られてくる。ホテルで会うよりも、まだその方が気軽に思え、そう述べたまでだった。
マヤがそれでもいいとなおも頷くので、真澄はマンションの住所と行き方を教え、電話を切った。

(絶対速水さんの前では、泣かない。紫織さんの事も喋らない…)

それだけを何度も胸の中で固く誓って家を飛び出す。手のひらに握り締めた真珠の片方のピアスのポストが、食い込むような痛みを持って手のひらに刺さるのさえ、マヤは気付かなかった…。






真澄が11時半を過ぎて、ようやくマンションに辿りつくと、マヤはエントランスの横の垣根に小さく腰掛けていた。

「悪い、思ったよりも道が混んでいた…」

遅れた理由を短く言い訳しながら、エントランスホールの入り口のセキュリティーを真澄は素早く解除する。

「いえ…、それより、勝手な事言ってごめんなさい…。ご迷惑だってわかってます。ホントにごめんなさい…」

そう言って俯くマヤの頭を、真澄はなんとはなしにクシャリと撫でて、エレベーターに押し込んだ。

上がっていく数字を見ても、もう心はときめかなかった。ただ、心臓も手足も、恐いくらいに冷たいままだった。

一番上の階につくと、そこは1フロアー全て真澄の部屋なのか、ドアは一つしかない。実際には一つ下の階から繋がる他の住人の住む2階部分も占めていたのだが、実際ここの階で乗り降りするのは真澄だけであった。

「仕事が立て込んでる時は、ここで寝泊りする。まぁ、寝るだけのための場所だな」

と真澄が苦笑しながら説明した。真澄のプライベートな部分を見る事は、あと一日早ければきっとマヤの胸をときめかすものであったかもしれない。でも、今となっては、悪戯に付け加えられる「知りすぎてしまった事実」の一つでしかない。

「何か飲むか?と言っても、残念ながらチビちゃんの好きそうな、ジュース類はないがな。水でいいか?」

そう言って、エビアンのボトルの栓を切る。カウンターの背の高い椅子に座って所在なげに、自分の指の爪を触りながらマヤは答える。

「お酒…。お酒飲んじゃ、だめですか?」

真澄は一瞬驚いた表情で硬直するが、すぐに呆れたように笑い出す。

「どうした?君がやけ酒とはどういう事情かな?残念ながら、うちには君が好きそうな甘い酒はないぞ」

からかうような口調も今はただ虚しいだけで、何か言い返す元気もない。

「じゃぁ、速水さんが飲むヤツでいい。それ、下さい…」

そう言って俯くマヤに真澄はため息を一つつくと、少し乱暴に水の入ったグラスをマヤの前に置いた。
俯いたまま微動だにしないマヤの頬に真澄がそっと手を掛けようとした瞬間。思い切ったようにマヤは喋りだす。

「速水さん…、キスして…」

真澄は黙ったまま、マヤの顎に手を掛けると、上を向かせ、そっと触れるだけのキスをした。ただそれだけの優しいキス。
ゆっくりと顎からその指が離れていく。

「…抱いてください…」

「…それは出来ない」

少しも棘を含まない、優しい声で真澄は答える。思わず真澄のスーツの袖を掴む。

「…お願い…、抱いて…」

「…だめだ」

掴んだ指先が震えだす。

「どうして?こうやってお願いしても?」

マヤが縋るように思わず俯いた顔を上げ、真澄を見上げると、優しい表情で自分を見つめる真澄と目が合う。

「お願いされてもだめだ…。他に大事な事があるだろう?
君が今晩、ここに来た理由を言わなければ、俺は君を抱けない」

あと一秒でも長く、真澄を見詰めていたら、涙がこぼれる所だった。マヤは慌てて、俯くときつく目を瞑って10秒数える。押し寄せる感情の波にさらわれないように、その優しい大きな胸に勝手に飛び込んだりしないよう、紫織のあの言葉ときつい香水の残り香を思い出そうとする。

(好き、大好き…!!愛してる!!死ぬほど愛してる!!)

心の苦しい叫び。真澄と付き合う前の自分は、口に出せない思いを抱えている事が辛かった。今は一度は口にした思いを、もう一度自分の中へ引っ込めるのが何より辛い。もう、口に出してはいけない…。もう、終わりにしなければいけない…。

「速水さんの胸、おっきくて、あったかいから、そこに居れるだけで、アタシすごく幸せだった。ものすごく、安心できた…。
なんか、今晩もどうしてもその胸に抱きしめて欲しくなった…。
それが…、理由…。ここへ来た、理由…。
こんな変な理由で押しかけて、ごめんなさい…」

マヤの苦しい言い訳を見抜いたのか、それとも言葉のままに受け止めたのか、真澄はそっとマヤを抱きしめる。

「抱きしめるだけでいいのか?
優しいだけでいいのか?」

真澄の胸に顔を埋め、声を曇らせながらマヤは答える。

「優しくしてくれなくてもいい…。速水さんの事以外、何も考えなくて済むぐらいに、めちゃくちゃにして欲しい。アタシの中、速水さんだけでいっぱいにして欲しい…」

(これが最後…。本当に最後…。紫織さん、ごめんなさい。最後に犯す私の過ちを許してください…)

ぐらりと視界が反転したかと思うと、マヤは真澄に横抱きにされ、寝室へ連れて行かれる。

2度目の過ちは、一度目のそれより、もっと深く、もっと熱く、そしてもっと貪欲であった。真澄が所々につけた赤い印は、きっと間もなく消えてしまうだろう。何事もなかったかのように、もとの白さを取り戻してしまうのだろう。でも、自分には真澄が付けた一生消えない傷がある。耳を貫く、2つの小さな穴。そして、自らの肉体を鮮烈に貫いた処女の傷跡。
これがあれば自分は生きていける…。大丈夫、絶対生きていける…。

嵐が過ぎ去り、果てた真澄の肉体の重さを自らの上に感じながら、その背中に腕を回す。押し付けられたお互いの心臓の鼓動は、どちらがどちらのものか分からないくらいに、激しく震動を伝え合う。

(この瞬間に世界が終わってしまえばいいのに…。そうしたら、誰ももう傷つかない…。速水さんだけ感じて、生きていけるのに…)

そう思うと、堪えていたものが溢れ出し、閉じた瞼の下から涙が一筋、頬を伝わった。






「今日は逃げ帰ったりするなよ」

釘を刺すように、でも優しさのこもった声で真澄は言うと、ゆっくりと上体を起こす。

「フフフ、ちゃんと朝まで居ますよーだ。速水さん朝ごはん作れるの?」

作ったようなわざとらしい明るさが、自分でも虚しい。真澄がそれには気付かない事を、ただそれだけを心から願った。

「速水さん…、シャワー…」

「あぁ…。先に浴びるか?」

乱れたマヤの髪の毛を優しく梳かしながら、真澄が訊ねる。

「速水さん、先に入って…。アタシ、髪の毛洗ったりすると、時間かかるから…」

「わかった…」

そう言って真澄は、無造作にマヤの唇を短く一瞬奪い、ベッドを後にした。ドアのところで思いついたように振り向くと、

「一緒に入るか?」

と悪戯っぽく笑う。

「絶対、いやっ!!」

そう言ってマヤは枕を投げつける。真澄の陰りのない大きな笑い声が、ドアの向こうのリビングに響くのを聞くと、マヤは肩の力がぐっと抜けた。

(大丈夫…、速水さん気付いてない…)


辺りに散らばっていた服を掻き集め、とりあえずブラウスだけ着た。スカートに手を伸ばし、ポケットを探る。指先に当たった小さな異物のかけらをそっと取り出す。

(結局、このピアスつけたのも、一回だけ、それもほんの数時間だった…)
気を緩めるとすぐに涙腺が緩んでしまうのを、慌てて振り払うように、頭(かぶり)を振ってマヤはリビングへ向かった。






「何をしてるんだ?」

ビクリとマヤは体を一瞬震わせる。まるで、悪さをしてる瞬間を現行犯逮捕されたみたいに。真澄は水の滴る濡れ髪を無造作にタオルで拭きながら、冷凍庫の扉に手をかけたマヤをキッチンの角から見つめる。

「え…、何って…、あの、おっきい冷蔵庫だなぁ…って。何、入ってるのかなぁ…って」

そう言って恥ずかしそうにマヤが俯くので、思わず真澄は吹き出す。

「なんだ、チビちゃん、腹が減ったのか?でも、どうせ見るなら、冷凍庫でなく、冷蔵庫を見る方が賢明なんじゃないか?」

真澄のいつもの笑い声にほっとしたのか、マヤもムキになって言い返す。
「お腹なんて、すいてません。ただ、何が入ってるのか見たかっただけです。だって、速水さん生活感ないんだもの…」

一瞬脹れた横顔を見せながら、マヤは真澄の横をすり抜けバスルームに向かう。

「出てくるまでに何か、軽く食べれるものを作っておくよ…」

優しい声がすれ違いざまに、耳に入った。






「じゃぁ」

「あぁ、また、電話する…」

「…うん…」

あまりにも在り来たりな挨拶。翌朝、真澄の部屋を後にするマヤは、これで全てが終わる事が信じられない。

(本当に、本当に、これで終わってしまうんだろうか…)

もっと他に言うべき事とか、やるべき事がある気もしたが、やるせない気持ちはあとで一人でどうにでも処理すればいいと思う自分が居る。

(今はこうやって、自然に帰ればいいのだ…。後で、全部どうせ分かる事なんだから…)

そう言い聞かせて、ドアノブに手を掛ける。その瞬間、強く引き寄せられる。慌てた様子を見せてしまったけれど、心のどこかでそれを待ち望んでいた自分が居たことも、マヤは否定出来ない。
その大きな広い胸に抱きしめられ、もう二度と取り出す事はないと、心の引き出しの奥底にしまった想いが溢れ出そうになる。

(好きです…。今までも、そして、これからも…!!)

声に出そうと思ったが、何かが喉元に本当に詰まっていて、声が出なかった。詰まっていたのは、最後に残っていた自分の理性とか紫織との約束を守ろうとする馬鹿みたいな忠誠心だったのかもしれない。良く分からなかったが、とにかくその声が出なくてマヤはよかったと思う。
胸に埋めていた顔をゆっくりと引き上げるように、真澄の手が顎にかかる。
重なる唇。
もう何度目のキスかなんて思い出せない。
でも、一つだけ分かっている事は、これが最後のキス…。
最後のキスは激しいものではなかった。ただ、何度もついばむように優しく、優しく、唇に触れられた。少しだけ目を開けて見た真澄の睫は、やっぱり長くて美しかった…。

━終わった…。

パタリとドアが閉まった瞬間、その場にうずくまりそうになる。それでも、必死に足を動かして、エレベーターのボタンを押した。エレベーターがやってくるまでの時間が、永遠のように感じる。

(早く!一刻も早く、ここから逃げたい…!!)

そう思うだけで、マヤの足は膝が笑ったように震えだした。ようやく到着したエレベーターに乗り込んだ瞬間、ずるずるとマヤはへたり込む。
1階に着くまでの間、マヤの膝の震えは止まらなかった。






翌日、真澄からの

「今日もうちに来ないか?」

という誘いを、

「今日は雪が降ってるから…。それに風邪ひきそうだから…」

という理由でマヤは断った。
これで良かったんだとマヤは思う。
きっと真澄は、今晩あれを見つけるだろう。自分があそこに置いて来た、真澄に返すべくあれを見つけるだろう…。



(雪が降っていなかったら、あの子は今日も来ただろうか?)

そんな事をふと思いついては、毎日でも一緒に居たいと思ってしまう自分の溺れ具合に、真澄は苦笑する。
気を紛らわせるために、いつものようにウィスキーに手を伸ばす。慣れた手順でグラスをカウンターに用意し、冷凍庫のプラスチックの製氷ケースを取り出す。勢いよくそれを左右にねじるようにして、氷を飛び上がらせる。ケースから外れた氷を3つ、グラスに落とした瞬間、真澄の動きが止まった。
途端にフローリングの床に激しく叩きつけられる製氷ケース。辺り一面に激しく氷が飛び散る。
真澄は震える指で、グラスに落ちた氷の一つを掴み上げると、きつくきつく、それを手のひらに握りしめた。氷の冷たさが、指の神経を奪い、次第に凍てつく痛みを与えようとも、真澄は強く握った手のひらを緩めなかった。

手のひらの感覚が完全に奪われ、氷が融け切ったあとにゆっくりと、手のひらを開くと、そこには真珠の片方のピアスが残されているだけだった…。



『もし、どちらか一方がこの関係を辞めたくなったら、片方を相手に渡すの…。私…、言葉で色々傷つけあうの、きっと耐えられないと思うから、それを私に渡してください…。そしたら、私、それで全部、納得するから…。そういう事なんだって、思うようにするから…』





1.25.2003








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