手のひらで融けた雪 12
あと一歩のところまで来ていた。
結果的には予想通りとは言え大都、引いては速水の家からも追放されかねない状況に追い込まれたが、英介にも話を付けた。
紫織との個人的な話し合いがまだ済んでいないのでマヤにはまだ言わなかったが、破談の申し込みも今日まさに済ませた所だった。動き出している提携事業の事などで、相当無理難題を押し付けられ、不利な条件で提携を押し進められる事になったが、それさえも真澄にとっては全て予想範囲内の事であった。
予想外の出来事と言えば、それはマヤの取った行動であった。
慎重に外堀を埋めてから、余計な詮索も心配もかけず、結果だけ報告すればいいと思っていたのが、裏目に出たのか。
痛恨の思いに揺さぶられ、真澄は今にも正気でいられなくなりそうになる。
一体自分はマヤの何を見ていたというのだ。最後に会ったのは昨日だというのに、その胸の内に秘めた思いは何一つ汲み取ってやれなかった。

(そもそも、あの子があんな深夜に自分を訪ねてきた事をもっと疑ってかかるべきだったんだ…)

真澄は自らの拳に噛み付くように歯を立てる。
話せば誤解はすぐ解けるだろう、そう強く信じ込む一方で、持ち前のマヤに対する自信に無さが頭をもたげる。

(もう、俺とは居たくないという事か…?)

真澄にはどうしても分からなかった、手のひらを返したように、気持ちを変える事が出来るマヤの心理が…。

(俺は何か、取り返しの付かないミスを犯したのか?)

奪う様に電話の受話器を取ると、ダイアルを押す。その瞬間、エントランスに来客が訪れた事を知らせるインターフォンの音がけたたましく、鳴り響く。

「マヤ?!」

一気に駆け上がる動悸を抑える事が出来ないまま、ドアフォンに設置されたモニターを覗くと、真澄は絶望する。

「…紫織さん…?!」

「真澄さま!おじいさまに聞きましたわよ!破談になさるって…。どういう事ですの?どうして紫織だけ何も知らないのですか?教えてくださいませ!!」

真澄はなぜ今、ここで紫織の相手をしなければならないのか、歯軋りする思いに囚われるが、

(ちょうどいい、一気に話をつけてやる…!!)

そう思い立つと、エントランスのドアを開け放った。



先ほどの取り乱した様子は若干鳴りを潜め、紫織は大人しくソファーの上に座っている。しかし、膝の上に置いた両手は強く拳を握り締め、尚且つ震えていた。

「ご自分のなさった事がおわかりですの?真澄さま…!」

震える声で紫織が喋りだす。

「充分、分かってるつもりですよ」

極めて落ち着いた声で真澄がそれに答える。

「あなたの御爺様のお怒りを買って、僕は苦しい立場に立たされ、大都も苦しい条件のもと事業に協力する事になる。あなたの怒りを買ったのも重々承知の上ですから、あなたの一声で僕はもっと御爺様から苦しめられる事も考えられますね」

まるで他人事のように真澄は平静に言ってのける。取り付く島もないような真澄の態度に呆然としながらも、ここで怯む気は紫織とてなかった。

「…一生を棒に振る気ですか?真澄さま!今までのご苦労を全て水の泡になさる気ですか?誰よりも強い野望を胸に秘め、仕事の鬼、冷血漢とまで言われたあなたが取る行動とはとても思えません。
冷静になってお考え下さいませ。
紫織を愛して下さいとは、申し上げません…。結婚してくだされば、それでいいのです。鷹宮の力が大都には必要なのでしょう?だったら、それを利用なさればいいではありませんか。紫織は、真澄さまがわたくしと結婚した事を絶対に後悔させないだけのものを持ってます!!」

真澄の瞳の表情は変らない。まるでただそこにあるだけの物でも見るかのような目で、紫織を見つめる。ゆっくりと窓辺に近寄ると、窓ガラスに肘を付き、外の夜景を眺めながら、紫織には目も向けずにゆっくりと喋りだす。

「…もう、興味がないんですよ…。鷹宮という権力にも、それを運ぶあなたにも、そして引いては大都という存在も…。
あなたはご存知ないかもしれませんが、私はあなたとの破談と引き換えに、現在の地位を追われ、速水の家からも追放されるでしょう。しかし、結果としてそれで、自分の一番欲しかったものが手に入れられるのであれば、私はそれで構わないんですよ…」

紫織はこれ以上静かで、そして残酷に自らを切り刻む言葉を知らない。震える声で、続きを促す。

「一番欲しかったものって…、真澄さまの一番欲しかったものとは…」

あまりの恐怖に最後まで言葉にならない。

「北島マヤです…」

長い長い沈黙のあと、紫織がようやく口を開く。

「真澄さま…、あなたは狂ってます…。狂っていらっしゃいます!!」

ブルブルと唇を震わせ真っ青になっている紫織に真澄はようやく、目をやると、フッと小さく笑う。

「ええ…、狂っているでしょうね。でも、狂うほどに愛しているのです、彼女を…」

『愛してる』

その一言が紫織の抑えていたものを爆発させる。

「じゃぁ…、じゃぁ、わたくしのこの気持ちはどうなるのですか?あまりにも勝手ではないですか?『僕だけをみていなさい』とあなたが仰るから、私はあなただけをひとえにずっと見ておりました。あなただけを、誰よりも深くお慕い申し上げておりました。愛しておりました…!
そんなにも狂うほどに愛する方がいらっしゃるのであれば、どうしてわたくしとお見合いなどしたのですか?どうして、わたくしに期待を持たせるようなお優しい言葉をおかけになったのですか?!
あんまりです…!あんまりです、真澄さまっ!!」

真澄は言葉を失う。紫織の言い分は尤もだった。自らの心に背き、見合いをし悪戯に優しさを持って接し、それを紫織が愛情と取り違え夢中になっていくのさえ、自分は分かっていた。分かっていてそのような残酷な優しさを与え続けたのだ。

「…確かに私は、あなたやマヤさんに対して、沢山の卑劣な事をしました。嘘もつきました。鷹宮の娘にあるまじき、卑怯な行為であったと今では充分に恥じております。謝罪の覚悟もあります。それで、あなたに嫌われてしまったというのであれば、それを償うだけの事をするつもりでもおります。
でも、それでは、あなたが私に対して行った事は、卑劣ではないと仰るのですか?一体誰が、私に対して償ってくださるのですか?紫織にも心があるという事、紫織も深く傷ついているという事、真澄さまには例えそれがわかっていても、どうでもよろしい事だと仰るのですね!!」

膝の上できつく握り合わせた紫織の手の上に、涙が零れ落ちる。左の手の甲で頬を伝わる涙を紫織が拭おうとした瞬間、その内側に刻まれた白い傷跡が真澄の目に入る。汚れを知らない純真無垢な存在であったはずの紫織を、ここまでの狂気に追い込み、心にも体にも消えない傷をつけてしまった事への、痛烈な悔恨が今更ながら、真澄を襲う。

「あなたを傷つけてしまった消しようの無い事実に対しては心より申し訳なく思っています。同情などあなたはいらないと、仰るでしょうが、同情ではなく、自分のした事への責任としてあなたにお詫び申し上げます。
ただ、見合いをしたあの頃は、いえ、見合いをした後も、決して自分の彼女への思いは許されない、叶えられないものだと信じていたので、それと同時にあなたとの結婚もそれはそれで、自分の人生として受け止めるつもりでいました。燃え上がるほどの情熱や愛情がそこになくとも、あなたとなら信頼関係の上に、供に歩いていく事も出来るだろうと、努力と誠意で持ってあなたに答えていくつもりでした。
でも…、紫織さん、人の心に絶対はありえません。
彼女の気持ちを知ってしまったら、彼女と居る幸せを知ってしまったら、私はもうそれまでの自分では居られなくなってしまったのです。彼女なしで生きていく事は、私にはもう到底出来ないのです…」

穏やかな声で静かに、しかし揺ぎ無い信念を持って紡がれる真澄の言葉は紫織を無言にさせる。

━もう、全ては終わった…。

紫織の中で、絶望のさざ波が全身を覆う。紫織の心に残っていた最後の一筋の線が、それは希望だったのか真澄への愛だったのか、プツリと音を立てて切れる。

フラフラと立ち上がり、よろける様にキッチンに向かうと、サイドボードに立てかけられていたナイフセットの中から一本の鋭利なナイフを抜き取る。驚いて後を追ってきた真澄に振り向くと、全身を震わせながら刃物を自らに突きつけ、低い声を発する。

「わたくしも、あなた無しではもう生きていけません。真澄さまが、私をおいて行ってしまうのであれば、私もこの世にはなんの未練もありません…。
本気ですよ、紫織は本気ですのよ、真澄さま!!
これが最後です、真澄さま、あなたは本当に私を捨ておいて行かれるのですね?!」

紫織の絶望的な狂気をその瞳の中に見、真澄の体は硬直する。
紫織が自らの喉元に立てた、鋭利な刃物の先が震え、その白い首筋に細かい傷を付ける。

(狂言ではない…)

真澄の全身に戦慄が走る。





1.26.2003








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