手のひらで融けた雪 3
『速水さん…、紫の薔薇の人はあなたですか?』



真澄の呼吸が止まる。
心臓の奥深くまで突き刺さったその問いに、体中を縛られ、微動だに出来ない。
どれくらいの沈黙が横たわっていたか…。
真澄は覚悟を決めたかのように、大きく一度息を吐くと、テーブルの上で両手を組む。

「それが、君が俺を好きになった理由か?」

今度はマヤが息を呑む。
それは、予想していなかった答えだった。マヤが待ち望んでいた答えはイエスかノーかで、自らがその事によって問い詰められるとは思ってもいなかった。

「ず、ずるいです…、速水さん…。ちゃんと質問に答えてください。それじゃぁ、答えになってない…」

かろうじて出てきた言葉に精一杯の非難を込める。
真澄はテーブルに肘をつき、顎の下で手を組み直す。

「…俺が君に紫の薔薇を贈り続けた事は事実だ…」

まるで、会議中の発言のようになんの抑揚もないそれに、マヤは凍りつく。待ち望んでいたような甘い響きはそこには1mmもなかった。

「ど…、どうして、どうして、私に紫の薔薇なんか、贈ったんですが?」

「質問は一つだけのはずだ…」

真澄の澄んだ美しい瞳からはなんの、表情も読み取れない。冷たいわけでもないが、暖かいわけでもない。ただ、何も映さない…。

「じゃぁ、私が速水さんのさっきの質問に答えたら、速水さんも私の質問に答えてくれますか?」

なおもマヤは食い下がる。真澄はしばらく思案するような表情を浮かべた後、フッと小さく笑った。

「いいだろう…」

マヤはごくりと唾を飲み込む。テーブルの上にのせた両手の拳を今一度強くぎゅっと握る。

「私が…、私が速水さんを好きになった理由は…、
たしかに速水さんが紫の薔薇の人だったからかもしれない…。
でも、それは、紫の薔薇の人だから好きになったって言うんじゃなくて、
速水さんが紫の薔薇の人だって気付いたから、
あなたという人間が本当はどういう人なのか、
本当の速水さんがどういう人なのか、
気付かされて、そしたら…、そしたら、どうしようもないほど、好きになってました…」

泣きたくはないのに、もし溢れ出そうな涙をどこかにしまい込む術があるなら、今すぐに教えて欲しいぐらいなのに、瞬きを一度したら、あっという間にマヤの瞳から涙は零れ落ちてしまった。

「速水さんがいつもいつも、私に酷い事言って、わざと傷つくような事をやって、私にあなたを憎ませてきたのは、全部、全部、私のためだったんでしょう?」

潤んだ瞳でマヤが真澄を見上げる。思わず理性のたがが外れそうになって、真澄はぎこちなくマヤから目を逸らす。なおもマヤは訴える。

「全部、私が紅天女になるためだったんでしょう?」

真澄が一言『そうだ』と言ってくれれば、自分は今すぐにでも真澄の胸に飛び込んでいけるというのに、真澄は相変わらず表情を変えずに自分を見つめ返す。
くじけそうになりながらもマヤは続ける。

「それなのに私は、そんなあなたの優しさに気付かず、酷い事ばかり言って、あなたに嫌われるような事ばっかりしてきた…。だから…、だから、私が速水さんに嫌われちゃうのは当然だと思うけれど、でも、でも…、私は速水さんが好きなんです。速水さんの事しか、考えられないんです…!」

思わずしゃくりあげて泣き出しそうなのを、必死に歯を食いしばって堪えた。泣きたくない、そうだ、自分は泣きたくなんかないのだ…。


「俺は君の母親を殺した男だぞ…」

真澄の低い搾り出すような声が、マヤをビクリとさせる。

「…わかってます。それも、充分わかってます。好きになんかなっちゃいけない人だって、思った事もあります…。
でも、それでも、母さんがあなたのせいで死んだ事実さえも、あなたを諦める理由には届かないんです。それ以上に、あなたが好きなんです…!!」

必死の思いで真澄に訴える。この思いはこの氷のように美しい冷ややかな表情を浮かべた、この人に届いているのだろうか?そんな思いに囚われ、マヤは自分が今不安定なつり橋の上を歩いているような錯覚を覚える。

「だめですか?やっぱり、私なんかが速水さんみたいな人、好きになったら、だめですか?」

「俺は…、もうすぐ結婚する身だ…」

それはマヤをつり橋から突き落とすに充分な衝撃であった。

(あぁ、私は馬鹿だ…。なんて馬鹿なんだろう。自分の思いだけに精一杯になっちゃって、速水さんの都合も考えず…。速水さんは、もうアタシなんかの手の届かない場所に居るのに…)

不思議と涙が引いて行く。声ももう震えない。

「ごめんなさい…。速水さんには、迷惑な話でしたよね…」

まるで引き潮のように自分から離れていく、マヤの感情の昂ぶりを、真澄は氷のようなポーカーフェイスの下で、思わず繋ぎとめたくなる。

(なぜ、自分も愛していると言わないのだ!一体、どれだけこの瞬間を待っていたというのだ!!)

心の絶叫は体中で狂ったように暴れる。今、手にしてるもの全てを投げ打って、それでマヤが手に入るのであれば間違いなくそうするであろう。しかし、差し迫った問題はもはや真澄一人の問題ではなかった。大都芸能社員、一万人の運命さえ左右するその決断は、今更自分個人の感情でどうにか出来るものではない。例え破談に持っていけたとしても、それまでのとてつもない愛憎劇にマヤを巻き込むつもりは真澄には更々無い。 ましてや不倫のような関係は言語道断にしか思えない。例えマヤがそれを望んだとしてもだ。


何かを思い切ったように、真澄は思考の一部を切り離すと、極めて落ち着いた声で話しだす。

「次は俺の番かな…。君に紫の薔薇を贈った理由は…」

すでに放心したような心持でいたマヤは、虚ろだった瞳に再び力を入れて真澄を見つめ返す。聞くのが恐い気もしたが、聞かなければ自分はここから永久に一歩も動き出せない気がした。いつのまにか、指先が冷たくなっている。

「舞台の上の君を見るのが何よりも、好きだった。
君の舞台での情熱と、その輝くすべてのものから目が離せなくなった。
君にもわかるだろうが、立場上、俺が誰か特定の女優のファンになるなど、許されない事だ。
だから匿名で贈った。結果的にそれが君を惑わせる事になったのは、済まなかったと思っている。
…君の紅天女を見れて世界で一番嬉しかったは、間違いなくこの俺だ。それだけは断言出来る…」

静かに言葉を紡いでいく真澄の声に、マヤは少しずつ探していたパズルが合わさっていくような感覚を覚える。でも、まだ何かが足りない…。ピースが揃っていない…。

「でも、それは…、女優として…、女優として私の事を好きだって事ですよね?」

最後のピースを求めてマヤは問う。

「…そうだ。女優としての君が好きだった」

真澄の中で最後の戸惑いと刹那と悔恨がゆっくりと胸の奥に押し込まれるまで、10秒の沈黙。

「だが、それ以上には見れない…」

最後のピースが合わさった瞬間、マヤは完成したパズルの上に絶望的な絵を目にする。

(あぁ…、やっぱり…)

不思議と涙は出なかった。明らかな拒絶は、中途半端な優しさよりずっと心地良かった。
でも、それはそう錯覚しただけの事だったと、マヤはこの後、色々な意味で思い知らされる事になる…。





楽しかった束の間の夢のような時間は静かに幕を閉じた。真澄はこれだけ事実がはっきりと晒されてしまった今、これ以上、マヤが『つき合いたい』と言った気持ちを押し通すとは思えなかった。きっと、これが最後の二人の時間になるのだろう。途端に強烈な切なさが心を切り刻む。全ては自業自得だというのに…。

アパートまで車で送る帰り道も、マヤは終始無言であった。真澄も今更何を話したらいいのか、何かを口にしようとする度に、それらはただ唇から音を立てずに闇の中へ吸い込まれていった。

窓の外ではチラチラと粉雪が舞い始める。

(どうりで今日は寒かったはずだ…)

車のライトに照らされた小さな雪の精が、マヤの目の前を舞っては消えていく。

(私も雪になりたい…。雪になってこのまま、融けて消えてしまいたい…)

そんな切ない思いにすっかり心を支配されながらも、マヤはゆっくりと最後の瞬間に向けて準備を始める。
アパートに着くまできっと20分はある。それまでに、真澄に対して最後に今までの全てに対するお礼が上手く言えるよう、マヤは必死で言葉を組み立てる。
本当は、紫の薔薇の人である事を認めてもらったら、その胸に飛び込んでお礼が言いたかった。今までの思いのたけの全てをそこにぶつけたかった。
そして、ずっとその瞬間を思い描いていた。けれども、その夢はついさっき全て無残に壊されてしまった。
なんの感動もなく、まるでただ単に事実を確認しただけのような二人の会話。
これが、自分と真澄の関係なのだ。何度も何度も、そう自分の心に言い聞かせる。

「着いたぞ」

言われなくても、わかっていたが、マヤはのろのろとシートベルトを外そうとする。しかし、外国車のその車のシートベルトの接合部はする時はなんの問題も無かったはずなのに、外し方がわからない。カチャカチャといつまでも音がするのを訝しく思った真澄が、クスリと小さく笑うと、

「それはこうやるんだ」

そう言って、マヤの上に覆いかぶさるようにして、金具に手を伸ばす。咄嗟にマヤは体を大きく引く。唐突に近くなった距離と、覆われた真澄の香水とタバコの交じり合ったような匂いに圧倒され、思わず大きく息を吸ってしまう。気配に気が付いた真澄が、その体勢でマヤを見やると、二人の距離が必要以上に近づいてしまっている事に気付く。
カチャリとベルトの外れる音がした。
しかし、真澄の体勢は戻らない。マヤは目の前にある真澄の唇だけをじっと見詰める。真澄も自分を見つめているのがわかる。

きっとここで目を閉じてしまったら、そうなると分かっていた。そんな事をしちゃいけないのも分かっていた。それなのに、押し込めたはずの真澄への恋心はみるみるうちに溢れかえり、心の奥底で望んだ事を求めてしまう。
マヤはゆっくりと目を閉じる。
真澄の唇がゆっくりとそこへ重ねられる。

ぶたれるよりも痛いキス…。





1.17.2003







Top / next