手のひらで融けた雪 4
どうやって車から降りて、どうやって階段を登って、どうやって部屋に帰ってきたのかも思い出せなかった。背中に向かって真澄が何か言っていた気もする。自分も何か口走ってしまったかもしれない。
ただ、一切のものから逃げるように、振り切るようにマヤは部屋へ駆け込むと、後ろ手に扉を閉める。ドアで背中を支えながらその場にズルズルと座り込む。
今度こそ確実に触れてしまった唇に触れると、途端に涙が溢れ出た。

(どうして…、どうして、あんな事しちゃったんだろう…。
どうして、速水さんも、私にキスなんかしたんだろう…)

あれほど触れたいと思って触れた唇の感触は、その柔らかさとは裏腹にマヤの心を鋭利に引き裂く。

(ぶたれるよりも痛いキス…。本当に、痛いキス…)

こんな思いは初めてだった…。





大都芸能の社長として、女優の恋心を完璧に摘み取ったつもりだった。自らの激しい恋心も黙殺したつもりだった。すべては予定通りに絶望と悔恨の嵐にまみれながらも、葬られたはずだった。最後のあの口付けを除けば…。
触れてしまった事への後悔とは裏腹に、心のどこかではその事実に満足してる自分も居る事に真澄は戸惑いを隠せない。

(俺は何をやっているんだ…)

次の会議の書類を機械的に左から右へ斜め読みし、脳内に放り込んでいく。こんな作業はお手の物だ。だが、気付いてしまった自分の隠された本心は確実に真澄の体内を蝕んでいく。

(俺は彼女を忘れる気など、更々ないのでは…)

思いを封じ込めるための別れのキスは、真澄の体の奥深く、隠された狂気と情熱に火をつけた。





(きっと、あれはご挨拶のキスだったんだ。私の事、可哀相だと思って、最後にあんな事してくれたんだ。そうに決まってる…)

三日考えて出てきたマヤの答えがそれだった。真澄にもらった2枚の紙切れはもう何度も何度も繰り返し手のひらで弄ばれて、クシャクシャになってしまっている。

(電話なんかしたって迷惑なだけだ…。もう終わった事だって、速水さんは思ってる…。電話なんかしちゃいけない…)

名刺の裏に書かれた真澄の携帯の番号は、もう空で言えるまでに暗記してしまっている。

(今の時間なら、会議中かもしれない。きっと、お仕事中で電話なんか出られないよ…)

訳のわからない言い訳をしながら、震える指でダイアルを押してしまう。

turrrrrrrrrr

(ほらね、やっぱり出ない…)

7コール目でマヤが受話器を置こうとした瞬間、遮られる呼び出し音。

「もしもし?」

低い穏やかな声。途端に溢れ出す切なさと愛しさに胸をえぐられ、息の仕方も忘れてしまう。

(何を言うつもりだったのだろう…)

酸欠になった頭の隅で必死に言葉を探す。ただ、沈黙だけがいつまでも続く闇の中できっと真澄は電話を切ってしまうだろう。その時、思わぬ声がマヤの耳に刺さる。

「…マヤ…?」

たっぷり10秒は待たせて、マヤはようやく震える声で言葉を発する。

「…で、電話なんかして、ごめんなさい…。こんな事して、ご迷惑だって分かってます…。あ、あの、本当にごめんなさい…」

まるで罪人のように声を震わせるそれに、真澄はなんともマヤを憐れに思う。

「いいよ…。どうせ移動中だ。それより、用件はなんだ?」

優しいのか冷たいのか、図りかねる口調にマヤは戸惑う。

「よ、用件っていうか…。あ、あの、この間はあんな風に終わっちゃって…」

そこまで口走ると、あの罪悪の塊のようなキスの感触が再びマヤの体に蘇り、思わず言葉に詰まりそうになる。あの時の口付けも無かったことに出来れば、こんなに苦しまなくて済むのだろうか…。 そんな思いが脳裏をかすめる。

「…そ、それで、ちゃんと『紫の薔薇の人』にお礼が言えなかったから…。それで…」

『そんな事だったら気にするな』

今にも真澄がそんな事を言って、電話を切ってしまいそうな気がして、マヤは夢中で言葉を繋げる。

「もう一度だけ会って、あなたにちゃんとお礼が言いたい…」

しばしの沈黙が何よりも、心を不安にさせる。ここで拒絶されたら、本当にもう二度と会えない気さえする。

「今日は忙しくて時間が取れないが、明日の夜ならなんとかなるかもしれない。どこに行きたい?」

なんとなく甘い響きを含んだ真澄の誘いの言葉に、マヤは驚きと喜びが混ざり合ったような浮遊感に早くも溺れそうになる。

「ど、どこ…って…、あの、その、私はどこでも…」

クスリと真澄は電話越しに笑うと、提案する。

「じゃぁ、7時に社長室に来てくれ。だが、君、確か明日はドラマの撮影が…」

「あ、明日は、衣装合わせと本読みだけだから、大丈夫です。7時には来れます…」

嬉しさのあまり、声が少し上ずってしまったのにきっと真澄は気付いてしまっただろう。恥ずかしさが胸に広がる。

「じゃぁ…」

「あぁ…、また明日…」

マヤは真澄が切るのを待った。だが、いつまでたっても、ブチリと電話が切れる音はしない。

「あの…、速水さん…?」

訝しく思ってマヤが間の抜けた声を上げる。

「なんだ?」

「え?あの、なんで切らないんですか?」

真澄はクスクスと笑いながら答える。

「君こそ、どうして切らないんだ?」

「え?私は…、速水さんが切ったら切ろうと思ってたから…」

真澄は真っ赤になって慌てふためくマヤの様子が、電話越しに手に取るように思い浮かぶ。

「君は本当に何もわかっていないんだな…。電話は女が先に切るものだ」
「ええ?!そうなんですかっ?!」

マヤは驚いて声を上げる。真澄はますます、笑い声をあげながら促す。

「そうだ、だから、チビちゃんが切ってくれないと、俺も切れない」

マヤは顔から火が出るほどに恥ずかしくなる。子どもの自分はほんとに何にも知らないんだと、思い知らされたような気分になり、慌てて取り繕う。

「ヤ、ヤダ!だって、速水さんが私の事、女だと思ってるなんて思わなかったんだもんっ!!じゃー、切りますよっ!さようならっ!!」

そう言って通話はブチリと途切れた。途切れてしまった電話から聞こえる、無機質な発信音にしばらく耳を傾けたあと、真澄はゆっくりと電話を切る。

「好きな女からかかってきた電話を、先に切る男はいないだろうが…」

誰に言うともなく、真澄は呟いた…。





「お疲れ様でしたー」

「お疲れ様でしたー」

口々に皆が声を掛け合い、散っていく。来週から始まるドラマの衣装合わせと、簡単な通し稽古が終わりマヤは急ぎ足で控え室へ向かう。時刻はまだ5時をまわったところだったが、真澄との待ち合わせの前に済ませたい事もあった。素早く衣装を脱ぎ身支度を調える。ふと、耳たぶのイヤリングを外そうとして、手が止まる。

「あっ…!」

短く声を上げると、慌てて体を屈めて辺りを見回す。

(うそぉぉぉ…、どうしよぉ、またやっちゃったぁ…)

その時、衣装係のスタッフが扉を開けて入ってくる。

「マヤちゃん、お疲れ様〜。衣装、回収していい?」

スタイリストのふじこが声をかける。彼女は雑誌を中心に活躍していたが、最近ではCMやドラマでの仕掛け人としても活躍し始め、もはやスタイリストという肩書き以上の存在をも持った売れっ子だった。

「ふじこさぁん…、どうしようぉ…」

この世の終わりのような表情のマヤに、ふじこは慌てる。

「な、何?どうしたの?衣装壊した?」

「ううん、もっとサイアクかも…。イヤリング、片一方失くしちゃったみたい…。どうしよう、ホントにごめんなさい。あとで、もう一回スタジオの方探してくる…」

心底すまなそうな顔を浮かべるマヤに、ふじこはプッと吹き出しながら言う。

「な〜んだ、そんな事か、いいのよ、よくある事だし。気にしないで!」

「え〜、でもぉ…」

マヤは納得いかない表情で続ける。

「だって、あれ、すっごいステキなデザインだったし。それにこれ、きっと高いんでしょ?」

「大丈夫だって!イヤリングの1個ぐらい、ちゃんと経費で落とせるんだし、マヤちゃんがそんなの気にする事ないの!」

そう言い聞かせてやりながら、ふじこはふと、マヤの小さな耳たぶに視線をやる。

「それよりさぁ、マヤちゃん、ピアス開ける気ないの?」

「えっ?」

マヤはふじこの唐突な問いに驚いて声を上げる。

(ピアス…。そんな事、考えてみた事もなかった…)

もともとお洒落をするとか、流行を追うなんて事に、人一倍疎いマヤには思いつきもしない事である。

「ピアス、楽だよ。イヤリングってさ、よく失くすし、それに長時間つけてると、頭痛くなったりするじゃない」

マヤは思わず、心当たりがあるので大きく頷いてしまう。

「舞台なんかで激しく動く時だって邪魔だと思うし、ピアスだったらつけてるのも忘れちゃうぐらい、違和感ないし。それに…」

そう言ってふじこは、マヤの髪をちょっとだけかき上げて、耳を露にさせると、悪戯っぽく付け加える。

「マヤちゃんの耳、とってもちっちゃくてカワイイじゃない?だから、すっごい小さなピアスとかチョコンと付いてたら、カワイイと思うんだけどな〜」

ふじこの思わぬ提案は、マヤのいつもは動かなかった心の部分をときめかす。

「う…うん…。なんか、イイかも…。
あっ!でも、ピアスって開ける時、痛いんだよねぇ?ふじこさんどうだった?」

左右あわせて5個も開いてるふじこの耳を見ながら、マヤは訊ねる。

「あぁ、最初だけブスッて痛いけど、あとはぜんぜんだもん。アタシなんて、高校の卒業式の日に友達に安全ピンで開けてもらったよ」

ふじこはケタケタと屈託なく笑う。マヤはその大胆さに驚きながらも、なおもふじこを質問攻めにする。

「えぇぇ!ふじこさん、それはちょっと凄いかも…。
えっと、皮膚科とかで開けて貰えるのかな?」

すでにマヤの心が傾きかけてるのを察知して、ふじこは畳み掛けるように言う。

「まぁ、そうなんだけど、マヤちゃん忙しいしね、昼間に皮膚科なんか行ってる暇ないんでしょ。アクセサリーショップで売ってる機械で自分で開けちゃっても、ぜんぜん平気だよ。私も3個目以降はそうやって、自分で開けたし…」

そう言って見やったマヤの顔が、恐怖で怯えてる気がしたので、ふじこは笑いながら付け足す。

「自分でやるのが恐かったら、誰かお友達にでも開けて貰えばいいのよっ」

軽く背中を押すようにふじこは言った。



帰り道の買い物の途中で、マヤは思わずアクセサリーショップに寄ってしまう。見ると、やっぱりイヤリングよりも小さなピアスの方が、自分の趣味にもあってる気がした。してるかしてないか分からないような、小さな石を耳たぶに止まらせるのは、なんだかとってもオシャレな気もした。
『体に傷をつける』
と言ってしまえばそうである気もする。現にマヤは今まで、耳に穴を開けるなんて恐いと思っていたわけである。でも、今はその
『体に傷をつける、穴を開ける』
という行為に自分を駆り立てる、ある思い込みに近いような理由があった。馬鹿げた理由かもしれない。くだらない、と笑われるかもしれない。それでも、その思いは止められなくて、マヤは小さな薄紫の石が付いた金色のファーストピアスと機械のセットをレジに持っ行った。





業務時間を過ぎた人気もまばらのオフィスを通り抜け、マヤは社長室へと向かう。受付で一応名前を告げたら、わけなく通された。
いつもアポなしで殴りこんできた昔の事を思い出して、懐かしさと恥ずかしさで少し、胸が熱くなる。エレベーターの中で上がっていく数字を見ていると、自分の鼓動まで勝手に高まってしまっていくのがわかる。あまりにも馬鹿正直な自分の心臓にマヤは苦笑する。

(こんなに好きで、馬鹿みたい…)



コンコンコン。
軽く3回ノックする。

「あぁ、入りたまえ…」

ドア越しに聞く声だけですでにドキドキしてしまう。真澄はまだ電話をしてるようだった。デスクの前の椅子に座って忙しく書類をめくりながら、何か指示を出している。ドアの前に立ったマヤに気が付くと、ふと書類から目をあげ、受話器を顎と肩で挟むと、空いた右手を突き出し軽く指先で、おいでと、合図をする。
まるで蜜に吸い寄せられるミツバチのように、マヤはフラフラと真澄の元へ足を進める。マヤがすぐ隣まで来ると、真澄は右手で軽く受話器の口を押さえ、

「すぐ終わるから…」

そう囁くと、極自然な調子でマヤの手に触れる。驚いてマヤは一瞬体を強張らせ、真澄を見つめ返すが、相変わらず真澄は忙しそうに電話の相手に指図を与え、顔色一つ変らない。

(ああ、そうか…)

マヤは思い当たる。きっと、真澄は気付いていないのだ、と。自分も電話をし終わったあと、電話の横のメモ帳にはなぞの暗号が残されてる事がよくある。ボールペンを片手に無意識に書いてしまったもので、意味なぞはない。きっと、今の真澄にとっての自分の手もそれなんだと。マヤはそう思い込む事で自らの手を包む、甘美な感触を受け入れた。
ただ触れているだけだったはずなのに、真澄の親指がゆっくりとマヤの指の上を上下し始める。何度も、何度も、執拗に繰り返されるそれに、マヤは体が震えを起こしてしまうほどに反応してしまう。

マヤは知らなかった。
指がこれほどまでに、自分の体を支配する存在になりうる事を…。

そんな事は今まで誰も、教えてくれなかった…。





1.18.2003







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