手のひらで融けた雪 5
「さてと…」

真澄が受話器を置いた途端、突然それまでの彷徨うような甘美な時間が切り取られる。自然に真澄の手はマヤを手放し、熱で爛れたようになった皮膚だけが取り残される。

「どこに行きたいか決めてきたか?」

椅子の向きをくるりと回転させ、真澄はマヤの方に体を向ける。
声が出なくて、マヤはただ頭をブンブンと横に振る。

「じゃぁ、簡単に食事でもして、映画でも見に行くか?今日は金曜だから、レイトショーなら間に合うだろう…」

まるでデートの提案のようだ、とマヤは思う。それも、こんなに気軽な調子で…。マヤが何も言わずに俯いたままなので、とりあえず真澄は立ち上がって背広の上着を羽織る。

「ほら…、そうと決まったら急がないと、時間がもったいないぞ」

そう言ってマヤを急かす。マヤは決心したように顔を上げると、真澄の瞳を一心に見つめて言う。

「そ、そんなの速水さんに悪いからいいです。そんなにいっぱい、私のために時間使って下さらなくていいです。それに、そんなデートみたいなの、変ですよ…。私なんかが相手じゃ変です…」

絶句して真澄はマヤを見つめ返す。

「私はただ…、ただ、あなたにお礼が言いたかった…。ずっとずっと、いつか紫の薔薇の人に直接会って、今まで百万回ぐらいありがとうって思ってた気持ちを全部伝えたかった。あなたが居なかったら、私はここまでこれなかったって、それを伝えたかった…」

(あぁ、だめだ…。また泣いてしまう…)

そう思った時にはもう涙が零れ落ちてしまっていた。泣いてばかりの自分が情けないと心底思う。嗚咽だけは喉の奥に閉じ込めて、出来るだけ抑揚を付けずに静かな調子で言葉を紡いでいく。

「…本当に、本当に…ありがとうございました…。こんな言葉では伝わりきらないほど、感謝してます…!!」

(それから、大好きです…)

それは心の中だけで付け加えた。真澄の迷惑になる事だけはもうこれ以上言えない。その胸に飛び込んで抱きつく代わりに、深く深く頭を下げた。
ゆっくりと真澄が近づいてくる。

「もう…いいから…」

そう言って、優しくマヤの肩を掴んで上を向かせる。

「俺は君からそれ以上のものを、もう貰っている…。君が舞台に立つ度に、君からいつも貰っていた…」

マヤが訝しげな表情で真澄を見つめ返す。

「君が舞台に立つ事は…、俺の偽りだらけの人生の中での、唯一の真実だ…。これからもずっと、女優で居て欲しい…。女優の君を誰よりも愛している…」

もし自分が紫の薔薇の人に対して恋心を抱いていなかったら、それは最高の賛辞であった。でも、愛する人から聞く言葉としては、ただただ自分の存在が女優でしかありえない事を確認させられただけで、それらは鉛のようにマヤの心を押しつぶす。

「女優でいたら…、私がこの先ずっと、女優でいたら、これからもずっと私のこと、見ててくれますか?」

「…ああ、見てるよ…、ずっとこの先も…」

その言葉を何度も何度もマヤは胸の中で繰り返すと、涙を拭いて決心したように切り出す。

「速水さん…、お願いがあります。どうしても速水さんにして頂きたい事があります…」

そう言って、マヤはバッグの中からそれを取り出すと、デスクの上にそっと置く。透明なビニール袋に包まれている、小さなピストルのような形をしたそれは、一体なんなのか真澄には見当もつかない。

「なんだ、これは…?」

「速水さん…、私の耳にピアスの穴、開けてくれませんか?」

「??!!」

あまりに唐突なマヤの言葉に真澄は絶句する。

「あのね…、今日、また撮影で使ったイヤリング失くしちゃって、それで、スタイリストのふじこさんが、『ピアス開けたら?』って言うから、それで…開けてみよっかなぁって…」

言っててマヤはなんだかもの凄く頭の悪い事を言っている気がしてきた。これでは、まるで他人に『〜したら?』と言われたらすぐに実行してしまう子どものようではないか。慌てて否定の言葉を探す。

「あ、あの…、それにイヤリングってホントに失くしやすいし、実際私も今まで何個も失くしてきたし、それにずっとつけてると痛くなるんですよ!」

何を自分は必死に訴えているのだろう。マヤは全て放り出して逃げ出したいような気持ちになりながらも、真澄に断られるのが恐くて、尤もらしい理由を懸命に探す。

「それで、自分で開けるの恐いから、速水さんに開けて貰えたらなぁ…って」

マヤは上目使いに真澄を見やる。真澄は無言でそのピアッサーを手に取る。

「わざわざ、体に傷を付けたいのか?」

一瞬マヤの体がビクリと強張る。

「速水さん、そういうの嫌い?芸能社の社長さんだから、そんなの気にしないと思ってた…」

真澄の反応が明らかにネガティブなのにマヤは少し驚く。

(速水さんも、そんな『体に傷をつける』なんて古い事、考えるんだ…)

真澄とて、今時ピアスごときで騒ぐような器ではない。だが、マヤの事となると話は別だ。汚れをしらない無垢なマヤの体にピアスと言えども、傷が付くのはなんとなく気が進まなかった。自分のものでもないのに、そんな時に限って所有欲を発揮する自分に苦笑しながら真澄は答える。

「いや…、そんな事はないが…。そういうのはちゃんと皮膚科で開けてもらったほうがいいんじゃないか?」

曖昧に言葉を濁す。

「ううん。最近の機械は皮膚科の機械と一緒だし、結局やる事は同じだから、平気だって、ふじこさんも言ってた。ふじこさんなんて、安全ピンで開けちゃったんだよ!」

マヤは的外れかもしれない事を必死で訴える。

「それに…、それに私、どうしても…、どうしても速水さんに開けて欲しいんです。
速水さんに生まれて初めて私の体に付ける傷、付けて欲しいんです。
穴を開けて欲しいんです…」

最後の方は聞こえなくなりそうなほどのか細い声だった。それでも、それらはしっかりと真澄の耳に残り、容赦なく真澄を揺さぶった。

(この子は言葉の意味を分かって言っているのか?)

言葉の裏に隠された意味を取り違えてしまいそうな自分に焦りを感じる。

『初めての傷』
『穴を開ける』

それらは繰り返し真澄の鼓膜の中で響き、真澄を激しく動揺させた。
真澄はピアッサーの袋を破ると、説明書に目を通す。

「痛いかもしれないぞ…」

「痛くっても、いいんです…」

か細いが迷いのない声でマヤは答えた。



マヤは真澄に言われた通り、水性ペンで穴を開けたい位置を鏡で確かめながら、印をつける。

「ちょっと下すぎないか?」

マヤが付けた印を見て、真澄が戸惑ったような声を上げる。

「あのね、私、おっきいアクセサリーは好きじゃないの。目立たない小さいのが好きなんです。それで、もしピアスの穴が出来たら、絶対してみたいデザインがあって、それは、耳たぶの端っこからぶら下がってる、涙の雫みたいなの…」

恥ずかしそうに俯きながらかわいらしいことを言うマヤに、思わず真澄は胸を熱くさせられる。

(こんな小さな耳たぶから、そんな小さな石がぶら下がっていたら、確かにかわいいかもしれない)

そんな事を思い浮かべながら、真澄は消毒液に手を伸ばす。

「こっちにおいで…」

そう言ってマヤを近くに寄せると、身をかがめて耳に手を伸ばす。30cmはあるお互いの身長差が邪魔をする。

「このままじゃ、安定出来ないな…」

呟くように言うと、数秒、思案するような表情を浮かべた後、ヒョイとマヤを抱き上げる。驚いてマヤは一瞬叫び声を上げるが、真澄は戸惑う事なく、マヤをデスクの上に座らせる。
お互いの目線の高さが近づく。真澄は満足そうに微笑むと、マヤの髪に手をかける。

「髪、結んでくれないか?」

真澄の長い美しい指が、耳のすぐ上の当たりの髪に入れられ、マヤはいつかの社長室での出来事を思い出し、壊れてしまいそうなほどに動悸が上がる。

「あ…、はいっ…」

慌ててバッグの中からヘアクリップを取り出すと、長い黒い髪を無造作にまとめてアップにする。途端に晒された首元とうなじの白さに、今度は真澄の動悸が上がりだす。それらを押し隠すように、消毒液を塗したコットンでその小さな耳たぶに触れる。
マヤが小刻みに震えだす。

「…恐いのか?」

「こ、恐くなんかないですっ!!」

言ってしまったあとで、否定しなければ良かったと思う。否定してしまえば、自分が震えてるのは、体に穴を開けられる事に対する恐怖心ではなく、ただ真澄に触れられる事こそが理由であると言ってしまってるようなものではないか。
真澄はそんなマヤの強がりの真相に気付いたのか、気付かないのか、クスリと小さく笑うと、

「大丈夫だ、俺がちゃんと、開けてやる…。俺にまかせろ…」

そう言ってぐっと体を近づけた。あまりの至近距離と、真澄の存在感に圧倒され、マヤは息も出来なくなりそうになる。真澄の足が、デスクの上で固く閉じたマヤの膝小僧を割って入る。マヤは体中を駆け巡る血の温度が上がった気がした。
真澄の左手がマヤの頬を固定するように押さえ込むと、ピアッサーの間にマヤの小さな耳たぶが挟まれる。
お互いの顔の距離は容赦なく吐息が混ざり合う近さだった。真澄の手が触れた部分だけ熱を持ったように熱いのが分かる。
なかなか、真澄は最後の決断を下さない。ピアッサーの針がマヤのつけた印の上に来ているか、執拗に確認しているようだった。
今か今かと緊張のあまり、マヤの心臓は爆発しそうになる。そして真澄の吐息のかかる位置で静止している事に耐えられなくなった瞬間、

ガチャン

もの凄い音が耳元でする。

「…っつ!!」

思わず声を上げてしまう。

「痛かったか?」

痛さに顔をしかめ俯くマヤの顔を覗き込みながら、真澄が声をかける。

「痛いっていうか、熱いっていうか、なんか、ジンジンしてますぅ〜」

なんとも情けない声をだしてしまう。真澄は深刻ではないマヤのその声にホッとしながら、小さく笑うと、

「ほら、時間を空けると、恐怖心が増してよくないらしい。左の耳も開けるぞ」

そう言って、優しくマヤの俯く顎に手をかける。
同じ手順で繰り返せばいいのだから、と少なからず緊張していた真澄の心も解きほぐされ、マヤに話しかける余裕も出てくる。

「どうして、こんな痛い思いまでして、こんな事をするんだろうな…」

「そんなの…、そんなのキレイになりたいからに決まってるじゃないですか…」

ガチャン

二つ目の穴がマヤの体に開けられる。

儀式は終わった…。



マヤは不思議そうに鏡を見つめる。ただ小さな石がそこに二つぶら下がっただけの事なのに、なんだか自分の耳ではない気がした。
そしてこの二つに小さな石は、真澄が開けてくれた穴の上に存在するのかと思うと、マヤは思わず胸が熱くなる。

一生消えない傷をつけてもらった…。


「速水さん…、ありがとう…。無理言ってごめんなさい…」

真澄はそれには答えず、マヤの髪に手を伸ばすとクリップを外してやる。崩れ落ちた髪の毛をその指で整えてやると、一言悪戯っぽく言う。

「お礼は何をしてくれるのかな?」

驚いてマヤは真澄の顔を見上げる。

「な…何って…。そんな…。は、速水さんは?速水さんは、何をお礼に私から欲しいですか?」

(買えないぐらい高いものを頼まれたらどうしよぉ〜)

そんな心配をしながら、マヤは座ったデスクの上に置いた両手に汗をかく。

真澄の目がじっとマヤを見つめる。何度試みても読み取れないその冷ややかな瞳の表情が少し揺れた。
マヤの気持ちがぐらりと揺れる。
真澄の大きな手が頬に触れたかと思うと、ゆっくりと親指がマヤの震える唇の上をなぞっていく。

(もう偶然では済ませられない…)

真澄の脳裏で警告の鐘がなる。

(引き返すなら今だ…)

2度目の警告は一度目のそれよりずっと、小さく響く。

(…もう…、誤魔化せない…)

一度火の付いた自らの情熱と狂気は、警告を無視して真澄を禁足地へと誘う。



「お礼にキスが欲しいと言ったら?」

額がくっつくほどにその端整な美しい顔を近づけ真澄は囁く。お互い、相手の唇しかもう見ていない。

触れるのか、触れないのか…。

ジリジリとした空気が、二人の体を縛りつけるほどの緊張感を与える。
マヤは震える声でその問いに答える。

「…そのキスのお礼に、やっぱり…、やっぱり春がくるまで私と恋人として付き合って欲しいって言ったら?」

「望むところだ…」

吐息とともに真澄はそう搾り出すと、耐えかねたように唇を奪った。
はじめは柔らかく、何度も唇を甘噛みするように優しく触れていたそれは、次第に速度を上げ、唇の輪郭を崩すかのような激しさを増していく。マヤは嵐に襲われ、自分の足場だけが音を立てて崩れていくような錯覚を覚える。
真澄の手が乱暴にマヤのうなじの辺りにいれられ、なんども髪を根元から掴む。

マヤは前回車の中でしたあのキスはただ触れ合うだけの、ただそれだけのものであったと思い知らされる。
耳を塞いでも自分の声が聞こえるように、自らの口内に響く唾液の音が体中を支配するかのように響き渡る。

(もう…、もう充分…!)

そう思って、両手を真澄の胸に突いて、押し返そうとしても、真澄の大人のキスは圧倒的な力でもってそれらをねじ伏せ、容赦なくマヤを攻め立てる。息継ぎをしようと思って口を開けた瞬間、待っていたかのように真澄の舌が滑り込む。
一気に体温が上昇した気がした。
隅々まで真澄の舌がマヤの口内を執拗に味わったあと、ようやく開放されたマヤは気絶しそうに体中の力が抜けていくのを感じる。

真澄の胸の中に体を預け、乱れきった二つの呼吸が静まるまでの間、マヤは絶望するような思いで確信してしまう。



私は溺れていく…。



そして、堕ちていく…。



体に開いたばかりの傷跡が熱をもったような痛みを持って疼きだした。





1.19.2003







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