手のひらで融けた雪 6
「水城君、今後しばらくのスケジュールだが、少し無理をしてでも変更してもらいたい事があるんだが…」

仕事第一の真澄が、スケジュールの変更を申し出るのは珍しい。訝しげな表情の裏に、鋭く光る目を隠して水城が答える。

「と、言いますと…?」

「あぁ、会議や接待のある日をまとめて欲しいんだ」

そう言って一枚の紙切れを渡す。

「そこに書いてある日付の日は出来るだけ19時以降は予定を入れないで欲しい。その代わりそれ以外の日にいくらしわ寄せが来てもかまわん。場合によっては徹夜でもかまわないぐらいだ」

冗談とも本気ともつかないその言葉に、水城は一瞬あっけに取られる。渡された紙に書いてある日付は1月から3月のもので、大体週に2回程度である。すでに無理に無理を重ねて組んであるような真澄のスケジュールではあるが、出来ない事もない。

「全部が全部、というわけにはいかないと思いますが、出来るだけご希望に添えるよう努力します」

そつなく言って、水城はその紙をバインダーに挟む。
頼んだよ、と言って次の書類に取り掛かろうとする真澄を逃さないよう、水城はするどく突っ込む。

「真澄さま、失礼を承知でお伺いしますが、紫織さまとの4月の御結婚にはなんら変更はございませんか?」

訝しげな表情で真澄が見つめ返す。

「なぜ、そんな事を聞く?」

「秘書として、あまりにも色々な事に無知なのはどうかと思いましたので…」

持って回った言い方が、真澄の周りの空気を締め付ける。

「調べればすぐわかる事ですので、あえて答えはお聞きしませんが、これは北島マヤのオフ日ですね」

そう言って水城は、美しく整えた長い爪でバインダーの上をトントンと叩く。真澄は微動だにもせず書類を見続け、顔色も変えない。

「この際ですから、はっきり言わせて頂きますが、御結婚の方になんら変更がないのであれば、いい加減な事はおやめになって下さい」

「俺はいい加減なつもりはないが」

真澄の視線がぐらりと揺れて、水城を睨み返すほどの強さで見る。

「では、お聞きしますが、あなたのなさってる事は、彼女を傷つけないのですか?彼女だけではありません。紫織さまに対してもです。
これから先、そのような状態で、マヤちゃんを幸せに出来るのですか?
あなたと居るだけで、彼女は傷つくのではないですか?」

「俺は彼女を傷つけるつもりは毛頭ないが」

水城の強さに飲まれないよう、真澄が虚勢を張ったような幾分強い調子で答える。

「おわかりじゃありませんのね…。
あなたにそのつもりが無くても、お立場がそれを許さないと申し上げてるのです。
中途半端な優しさはおやめになって下さい…」

沈黙が横たわる。

「会議は15分後です。ご準備なさって下さい…」

諦めたように水城はそれだけ、早口に言い残すと、社長室を後にした。


真澄は大きくため息を付くと、イライラした気持ちを紛らわせるようにタバコに火をつける。しかし、何を思ったかすぐにそれを灰皿で揉み潰すと電話に手を掛けた。
その瞬間、タイミングを見計らったかのように電話が鳴る。真澄は今まさにしようとしていた行動を妨げられてようで、チッと舌打ちしながら受話器を取る。

「もしもし、速水だ…」

「鷹宮紫織さまからお電話です。お繋ぎいたします」

いつもなら、繋ぐかどうかこちらに訊ねるはずなのに、水城は有無を言わせぬ調子で切り替えた。

「もしもし…」

なんの抑揚もないような低い声で言う。

「真澄さま、紫織でございます。お仕事中に失礼いたします…」

「いえ、かまいませんが、これから会議なものでお時間がありません。何か?」

(牽制するような空気を含めたつもりだが、気付いただろうか?)

そんな事を頭の隅で考える。

「真澄さま、お式の事ですが、先日お伺いたしました招待状の件ですが、まだお返事を頂いておりませんよ。そろそろ印刷所の方の期日もせまっておりますし…。それから、紫織のドレスの仮縫いの件も真澄さま、ご同行くださるって仰っていたではありませんか。
それから…」

黙っていれば紫織の不満は次から次へと、止め処なく出てきそうだった。無理もない、自分は2週間前からなんの連絡もせず、ひたすら紫織から逃げるようにしていたのだから。そう、マヤの耳に穴を開けたあの日から…。一瞬、2週間前、この部屋のこのデスクの上で、マヤに激しく口付けたあの光景がまざまざと蘇り、真澄の動悸を上げる。
咳払いを一つしてから、真澄はなだめるように言う。

「申し訳ありません。最近、仕事が立て込んでおりましてね。全くと言っていいほど、プライベートに割く時間がないのですよ」

嘘だった。マヤにはいくらでも時間を割いてきた。
紫織は一瞬黙ったあと、震える声で、しかしハッキリと言葉を紡いで言った。

「真澄さま…、紫織は真澄さまの婚約者ですわよね。
真澄さまは、紫織と結婚なさるんですわよね」

真澄はその問いには答えず、何気ない風に爆弾を落とした。

「紫織さん、近々あなたに、大事なお話があります」

一瞬、電話の向こうで紫織が息を止めたのがわかる。
沈黙に付き合う気はこれ以上なかったので、真澄が『じゃぁ』と電話を切ろうとすると、紫織が震える声で叫ぶように言う。

「わたくしもあります…!」

一瞬、その声に驚いた真澄であるが、すぐに穏やかな調子で

「それは、丁度いいですね、では…」

と、取り繕って今度こそ電話を切った。

もう一度受話器を取って、本来の掛けたかった相手に電話を掛けようとしたが、時計の針は会議開始の時刻を指していた。投げるように受話器を戻すと、ため息をつきながら会議室へ向かった。





いつも通りのデート。食事をして、他愛ないおしゃべりをして、そして並んで歩いている。手をつなぎたいけれど、

(そんな事をして誰かに見られたら大変)

そう思う自分が居るから、ただゆっくり隣を歩いている。それでも、マヤは充分幸せだった。幸せすぎて恐くて、それから、やっぱり胸のどこかが痛かった。色々考えなければいけない事がホントは沢山あるのは分かっていた。でも、どうせいつかは嫌でもその事しか考えなければいけなくなるのだから、春が来たら、嫌でも全部終わってしまうのだから、と言い訳して、今は難しい事はあまり考えないようにしていた。

アパートまでの帰り道。真澄と二人っきりの密室となる車中では、いつもなぜか息苦しくなる。あのキスを思い出すからだろうか…。

あの日、真澄に耳に穴を開けてもらった日以来、こうして真澄から誘われて何度か会っている。当然のように真澄はキスをしてきたり、人のいない所でそっと抱きしめてくる事もあった。
『どうして?』とか
『なんで?』
なんて、聞けない。それは、自分が望んだ事なのだから。
『春がくるまで恋人にしてくれ』
と自分で真澄に頼み込んだ事であるのだから。
だから、真澄の気持ちも、どうしてこうやって自分に時間を割いてくれるのかも、それからどうしてキスをしてきたりするのかも、聞けなかった。
聞いた瞬間に全てが壊れてしまうようで、何一つ聞けなかった。

無言になって俯くマヤを真澄はじっと見やる。手持ち無沙汰のように髪をいじっていたマヤは、そっと顔にかかった髪の毛を耳にかけると、耳たぶに小さなピアスが光った。
触りたい衝動にかられて、思わず手を伸ばす。
柔らかい感触。あの日社長室で触れたあの感覚と同じ柔らかさ。
そのまま指の先で首元まで触れたら、マヤの体がビクリと震えたので真澄は指を離した。

「あと、どのくらいで完成するんだ?」

「え?」

真澄が触れた首元が熱い。ほんの一瞬触れられただけなのに…。狭い車内で自らの心臓の音がうるさく響き渡ってるような気がする。

「穴…。ピアスの穴だ。いつ、変えてもいいんだ?」

「あぁ…」

目が覚めたようにマヤが答える。

「一応あと2週間は外せないかな。だいたい傷が塞がるのに一ヶ月ぐらいかかるんだって。人にもよるみたいだけど…」

「じゃぁ、誕生日プレゼントはピアスを買ってあげるよ」

あまりにもサラリと言われてしまって、マヤは言葉も出ない。

「た、誕生日?」

「もうすぐだろ?2月20日。自分で忘れたのか?」

からかうように言われ、真っ赤になる。

「…うん、…そう言えばすっかり忘れてたぁ」

(嘘。忘れてなんかなかった。でも、速水さんが覚えてるなんて思わなかった)

なぜかそれは声に出せなくて、心の中だけで呟いた。

「速水さん…。2月20日…、会えるの?」

自信なさそうな顔でマヤは真澄を見ずにぼそりと言う。

「君が嫌でなければ、俺はそのつもりなんだがな」

悪戯っぽい表情で試すように言うので、思わず真澄の腕をはたく。

「意地悪っ。なんで、私が嫌がるんですかぁ…」

信号が赤になって、車が止まる。目の前の横断歩道を歩いてる散歩中の犬をぼんやり眺めていたら、突然視界が塞がれて、唇に柔らかい感触。

(今日は、もう3度目のキスだ…)

いつまでたっても、真澄とのキスの回数を数えてしまう自分がマヤは少し、恥ずかしい。



「チビちゃん…」

優しく真澄が自分を呼ぶ。

「なんですか?」

キスをされた後、照れてしまって思わず、普通に答えたつもりが少し声が裏返ってしまった。しかし、真澄はそんな事は意にも返さないように続ける。

「…君、電話、苦手なのか?」

「え…?なんでですか?」

ハンドルをその長いキレイな指で叩きながら、真澄は何気ない風に続ける。

「…一度もかけてこないから…」

マヤは笑ってごまかそうと思ったが、上手く顔の皮膚が伸びてくれなくて、変な顔をしてしまう。いつかは聞かれるかもしれないと思っていた。

「いつも俺が電話して、したらしたで、長電話だって平気でするじゃないか…。でも、君の方からは絶対かけてこない」

相変わらず前をまっすぐ見詰めたまま、こちらには視線をやらずに真澄は続ける。それがマヤには少し、恐い。

「え、だって…。速水さん、お忙しそうだし…、いつ電話していいのかわからないし…。お邪魔したくないし…」

「忙しい時は、ちゃんと言ってるはずだ。それは、理由にならない…」

気まずい沈黙が二人の間に横たわる。

それはマヤが自分の中で、勝手に立てた基準だった。

━速水さんから電話がかかってくるうちは、まだ大丈夫。━

目の前に居る真澄があまりにも自分に対して優しい態度を取るから、何を信じて、何を基準に判断したらいいのか、わからなくなりそうだったから。無理にでも何かで線引きをしておかないと、見境なく自分が溺れていってしまう気がしたから…。
真澄の負担にはなりたくなかった。ましてや、困らせることもしたくなかった。

『もう明日からは君とは会えない』

そう言われたって、すぐに納得してしまいそうな自分が居た。優しいこの人は、きっとそんな事を言わない。だから、電話がかかってこなくなったら、誘われなくなったら、『その時』が来たんだ、と思う事にしていた。

「電話…、掛けたくなったら掛けて来い…」

それだけ言うと、真澄は少し乱暴にハンドルを切った。マヤは声を出さずにただ、コクンと頷いただけだった。
それが、真澄の自分への残酷な優しさであると思い込んでいるマヤには、真澄の中の嫉妬心など勿論気が付くはずはない…。


「じゃぁ、さようなら…。今日も楽しかったです。ご馳走様でした」

そう言って、車を降りようとするマヤを真澄はやっぱりいつものように引き止めてしまう。重なる唇。
あの日、この場所で唇を重ねてしまった事から生まれた義務であるかのように、真澄は必ずマヤが降りようとすると、キスをしてくる。抵抗する術もなく、なされるがままマヤはそれを受け入れるが、動悸が壊れそうに上がるのは今も同じだ。

「おやすみ…」

そう言って、真澄は額に最後に短く口づけると、マヤを解放した。

車が遠ざかっていく。見えなくなると、途端に不安が胸に染みのように広がっていく。
楽しかった時間は終わった…。
今度はいつ電話してくれるんだろう…。
今度はいつ会えるんだろう…。

さっきまで手のひらに確かにあった、あの暖かい時間とぬくもりが、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。

真澄は一度も、『好きだ』とか『愛している』と言わない…。





「ねぇ、麗…」

アパートで洗い物をしている麗の背中に、マヤは畳みの上で体育座りの姿勢を前後に揺らしながら言う。

「優しさが怖いって思った事ない?」

「…へ?」

マヤには似つかわしくないその唐突な問いに、素っ頓狂な声をあげるしかない。

「ど、どしたの、急に…」

「うん…。なんとなくそう思ったから…。
優しさにも色々種類あるじゃない。麗だってアタシに優しいし、つきかげのみんなもアタシに優しい…」

麗は一体マヤが何を言い出そうとしてるのか、伺うようにその表情を覗き込む。

「でも、あんまり優しくされすぎると、裏があるみたいでちょっと、恐いよね…」

そう言って、マヤは立てた両膝の中に一瞬頭を埋める。

「そうだね…、優しくされすぎた後に裏切られると、立ち直れないから、そういう残酷な優しさは確かに恐いと思うよ…」

いつの間にか洗い物を終えた、麗が隣に座る。

「でも…、優しさは人には必要だから、やっぱり欲しいものだから、優しくされると、嬉しくなっちゃうのはしょうがないよね…」

両膝の間に埋めていた顔を上げて、マヤが縋るように言う。麗が黙って肩を抱いた。

「あんま、深刻になりなさんなって…」

そう言って、優しく、優しく、慰めてくれた。

本当はマヤは知っていた。優しさが一番恐いものになりうる瞬間を。

それはその優しさに依存しすぎた時、優しさを愛情と取り違えた時、そして優しさの代わりに愛を求めた時…。

優しさが恐い…。あの人のあの残酷な優しさが、恐い…。





1.20.2003







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