手のひらで融けた雪 7
「…それでね、毎年麗のおかげで一ヶ月はお菓子に困らないの。きっと今年も凄いんだろうなぁ…。チョコレートって食べ過ぎると鼻血出すって言うけれど、あれってホントだと思います?速水さん」

マヤは楽しそうに微笑みながら忙しく、フォークを動かす。どうやらもう一切れ行くかどうかで迷っているようだ。
バレンタインデーの日、どうにも予定が塞がっていて会えないという真澄の元に、10分でいいからと、マヤは昼間の会議の合間を縫って、チョコレートケーキ持参で社長室に押しかけているのである。

「さぁな、俺はそれほど食べた事もないから知らんが、何なら君、これでも全部食べて、試してみたらどうだ」

からかうような笑みを浮かべて、残りのチョコレートケーキを指差すので、マヤは途端に脹れてみせる。

「言わずともその気ですが、何かっ?」

そう言ってマヤはもう戸惑う事なく、二切れ目に手を出す。

「…速水さん、やっぱり甘いものなんて好きじゃないのね。Topsのチョコレートケーキだったら絶対速水さんも好きだ、って水城さん言ってたのに…」
マヤの言葉から出た水城という言葉に真澄は驚く。
もともと、マヤが今日こうして社長室に押しかけてきたのも、真澄のあずかり知らぬ事で、まさに奇襲攻撃であった。



「来ちゃった…!」

ケーキ箱を嬉しそうに掲げて、突然目の前に現れたマヤに、真澄は言葉を失った。

「15分だったら、この時間、速水さん空いてるって聞いたから…」

もちろん、15分この時間を空けたのは水城なのであるが…。

「水城君から聞いたのか?」

「え?」

思わず、ケーキを喉に詰まらせそうになりながら、マヤが声を上げる。

「Topsのチョコレートケーキ」

「あぁ…、はい…。あ、でも内緒ね。水城さんも『私が言ったって内緒よ』って言ってたから」

真澄は苦笑せざるをえない。つい先日『中途半端な優しさはお辞めなさい』と釘をさしたのは水城であったはずだが…。

「…水城さん…、その、私たちの事、知ってるの…?」

声のトーンを幾分か落としてマヤは俯きがちに言う。

「君と俺が、バレンタインデーの日に仲良く社長室で、ケーキを食べる仲だって事は知ってるんじゃないか」

真澄のはぐらかす様な回りくどい言い方に、マヤは小さく脹れる。

「また、そうやって、誤魔化す…」

時々マヤは目の前に居る真澄という人間が心底分からなくなる。会っている間はこの上なく優しく、まるで本物の恋人のようだ。だが、それはあくまでも『期間限定のごっこ』なのであって、本心だと思ってはいけないその優しさに溺れそうになると、どうしても聞いてはいけない禁断の問いを浴びせたくなる。

(私のコト、好きですか?)

決して発せられる事のないその問いを、皿の端に残っていたケーキの最後のひとかけらとともに飲み込んだ。

「今日ね、ここに来る途中に見た梅の木、もう花が咲いてました…」

なんでもない日常の日記報告のように発した言葉のはずなのに、少し声が震える。

「今年は春が来るのが早いみたい…。梅のあとは桜ですねぇ…」

(桜の花の咲く頃には、速水さんはもうアタシの隣に居ない…)

一瞬潤みかけた瞳を誤魔化すように、マヤは紅茶を飲み干した。

「じゃぁ、そろそろ…。勝手にお邪魔してごめんなさい…。お仕事がんばってくださいね」

15分のタイムリミットが来る少し前に、マヤは立ち上がる。

「あぁ…」

煩雑な日常の中で突如訪れた、オアシスのような時間が真澄の目の前を通り過ぎて行く。ドアを開けて出て行こうとするマヤの腕をやっぱり掴んでしまう。
重なる唇。
お互いの口からは、さっき食べたチョコの味が広がったが、マヤにはそのキスはぜんぜん甘い味のしないものに思えた。

(あと、何回ぐらいキスできるんだろう…)

フッと一瞬さまよった思考の片隅でそんな事を考えてしまう。きつく抱きしめられても、不安は少しも消えなかった…。

「下まで送っていくよ」

真澄の思わぬ提案に、マヤは驚きを隠せない。

「い、いいです。そんなの…。人に見られたら変に思われるし…。それに、速水さん、もうお仕事の時間でしょ?…そんな、嘘の恋人のためにそこまでしてくれなくて、いい。…速水さん、時々、やりすぎだよ…」

思わず非難めいた事を言ってしまった気がして、マヤはハッとして口をつぐむ。数秒の沈黙の後、見上げた真澄の瞳はなぜか哀しげに揺れている気がした…。



無言で先に立って社長室を出て行く真澄の後を、マヤはついて歩く。エレベーターに二人で乗り込むと、そこはまた、二人の密室になってしまった。
「2月はどうして、28日までしかないんだろう…」

真澄に言う風でもなく、まるでポツリと呟くようにマヤは言う。

「三日も損しちゃう…」

どんどん下がって行く数字を見つめていると、あっという間に自分の気持ちまで冷めていくのがわかる。

(1になったら、また他人に戻るんだ…)

二人が恋人の振りを出来るのは、二人っきりで居る時だけだった。

その瞬間、真澄の指がマヤの指に絡まる。手を繋ぐというより、まるで弄ぶかのように、複雑に指を絡めてくる。握るわけでもなく、掴むわけでもなく、ただ、絡められる…。
冷えていく気持ちとは裏腹に体の芯が熱くなる。
真澄は何も言わない。ただ、指だけがもの言いたげに執拗に纏わり付くだけだった…。
数字が1になる瞬間、マヤは思わず口を開く。

「速水さん…、あのっ…」

が、ゆっくりと開く扉の向こうに現れたそれに、マヤは絶句すると、慌てて真澄の指から逃れるように、全てから逃れるように走り出す。

「失礼します…!」

それは箱の中に取り残された人物に残された言葉なのか、それとも箱の前で二人を待ち構えていた人物に発せられた言葉なのか…。

真澄は視界の端で、走り去るマヤを捉えながら、目の前に立ちはだかる人物にゆっくりと近づく。

「これは、これは、紫織さん…。何か、こちらに御用ですか?」

青白い顔を震わせながら、紫織は厳しい口調で答える。

「わたくしが、こちらに用があるとすれば、婚約者であるあなた以外にはありえません!」

「それは、大変失礼いたしました。ですが、生憎、会議が押していましてね、時間の方が…」

そこまで聞くと紫織は遮るように叫ぶ。

「婚約者であるわたくしに会うお時間はなくても、あの女優に会うお時間はおありになりますのね」

紫織の瞳に激しい嫉妬と憎悪の色が浮かぶ。真澄とて、もうこれ以上は悪戯に時間を引き延ばす事は出来ないとわかっていた。

(まだ準備は完全に出来てはいないが、もうこれ以上は待たせられないだろう)

そう、心の中で呟くと、

「では、お話を伺う事にしましょう。私の方も、あなたに大事なお話がありますから…」

言い方は丁寧であるが、少しも温かみを感じさせない、氷のような冷たさで真澄は言った。





社長室に通されると、ちょうど水城が二人分のケーキ皿を片付けているところだった。紫織の中で激しく嫉妬が燃え上がり、こめかみの辺りを押さえたくなるほどの激痛が走る。ふらふらとしながら、来客用のソファーに身を沈めた紫織を、まるで理解出来ないと言ったような訝しげな表情で真澄は見やると、事務的に言う。

「では、どうぞ…」

まるで会議の発言でも促すかのような口調で。

(一体真澄さまは、いつからこんな冷たい目でわたくしを見るようになったのかしら…)

絶望的な思いに囚われながらも、紫織は奮い立つようにして言葉を繋いでいく。

「率直に申し上げます。紅天女から手をお引き下さい」

真澄は少しも表情を変えずにそれを聞く。まるで
『言いたい事はそれだけか?』
と言わんばかりの真澄の態度に、紫織は背筋が凍るような思いがする。

「紅天女がある限り、あなたとあの子は繋がったままです。紅天女から手をお引き下さいませ」

真澄はクククッと紫織がぞっとするような妖しい笑いを浮かべると、端的に答える。

「残念ながら、それは無理な注文ですね。何を言い出すのかと思えば…」
そう言ってまた冷笑を浮かべるその姿は、紫織が今まで見た事もない真澄の顔であった。

「紅天女は私の人生です。それを手に入れるためだけに、私の人生は存在していました。
勿論、昔は奪うため、そして、今は守るためという大きな違いがありますが…。
昔は父親から全てを奪うために欲しかった、そして、今は、紅天女が北島マヤであるから、一生守っていきたいという大きな違いがね…」

そこまで言うと、真澄は激しい強い意思をその瞳に宿らせ、紫織に言い放つ。

「手をお引きになるのは紫織さん、あなたの方ですよ…」

紫織は気が動転するほどの衝撃を受ける。

「な…、なんて事を仰いますの!真澄さま!!」

紫織の顔は真っ青でその唇はブルブルと合わさらないほどに震えている。

「わかりませんか?紫織さん…。私はあなたとは結婚の意志がないと申し上げているのです。もう、あなたにいくら邪魔されようと、何を言われようと、この気持ちには変りありません。私のどこを探しても、あなたと結婚する意志は1mmも残っておりません」

紫織はこれほどの強い拒絶を人生の中で聞いた事がなかった。ましてや、それは自分の最愛の人である婚約者の発した言葉である。

「ゆ…、許しませんわ!そんな勝手な事、紫織は許しませんわよ!!
お、おじいさまだって、絶対にそんな事はさせません!!困るのは真澄さま、あなたですわよ!!」

激しく罵るほどの口調で、紫織は叫ぶ。
真澄はそんな事も一向に気に留めない風に、相変わらずの冷笑を浮かべると、全く取り乱した様子も見せずに言う。

「そうですか…。それは困りましたね。では、私も別の手段に出るしかありませんね」

その恐ろしいほどに冷徹な瞳に冷ややかな笑みを浮かべ、更に真澄は促す。

「そういうわけで、私はその別の手段のために忙しいのです。お引取り願えますか?」

その丁寧な物腰の裏に、有無を言わせぬ強さを込めたそれに、紫織はなす術もないように、ふらふらと立ち上がる。

「こ…、これで終わりだとはお思いにならないで下さいませ!」

最後に虚勢を張った一言を残すが、それも真澄に一笑される。

「それは、私も思っていませんよ。今はまだね…」

真澄の氷のように冷徹な瞳の中で、確かな自信が揺れ動く。その意味深な物言いに、紫織の背筋を予期せぬ恐怖と不安が駆け上がる。





「君がマヤに助言を与える協力者だとは思わなかったよ…」

書類を片付ける片手間に真澄は水城に話しかける。一瞬の何のことか分からないという表情を浮かべた後、水城は柔らかく微笑する。

「フフフ。私はマヤちゃんには甘いですから…」

真澄は苦笑を浮かべて、それに答える。

「その分、俺には厳しいってわけか…」

ゆっくりとタバコに火をつけると、立ち上る煙の行方を見つめる。

「それも、時と場合によりますけれどね…。
真澄さま…、本気ですのね」

推し量るようなその水城の問いには答えず、真澄は煙を見続ける。

「私の目も節穴ではありませんから、社長が毎晩、業務以外の用事で残業なさってるのは承知しております。
いよいよ、動かれるのですね…」

真澄は思い切ったように吸いかけのタバコを灰皿に押し付けると、一言呟く。

「あぁ、あと少しのところまで来ている。あと、少しだ…」





1.21.2003







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