手のひらで融けた雪 8
それ以上は越えてはいけない線だとそれは、マヤにもわかっていた。それでも、真澄と会う度に心だけではなく体のどこかが疼くような痛みを持って暴れだす事に、マヤはもう我慢が出来なくなっていた。キスをされる度、手を握られる度、そしてその美しい指でただ触れられるだけで、体中にさざ波が立つ。

おかしくなりそうだった…。

もっと求めてしまう事は間違っているのだろうか?それも含めて思い出にしてしまうのはいけない事なのだろうか?いくつもの愚問がマヤを襲い、苦しめた。







「悪い、待たせた」
息を切らせて真澄がやってくる。今日はマヤの誕生日である。マヤが
「おいしいベトナム料理が食べたい」
と言ったので都内でも有名なホテルのレストランで二人は待ち合わせた。
「え?速水さん、遅刻じゃありませんよ。ほら、時間通り」

そう言ってマヤは自分の小さな腕時計を真澄の前に突き出す。時計の針は確かに約束の7時丁度を指している。

「…君の時計、10分遅れてるぞ…」

そう言って真澄は笑いを噛み締めるような表情で、レストランの時計を指差す。

「あ〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

マヤは恥ずかしさで真っ赤になりながらも、

「速水さんも、馬鹿ねぇ、これは私の優しい乙女心だっていうのに。わざとですよ、わざと!!速水さんが気ぃ使わなくて済むようにっ!!」

ど、ブチブチと言い訳してみたりする。
真澄のセッティングで二人のテーブルの横には衝立が置かれ、曲がりなりにも二人だけの世界が演出されていた。

最後に会ったのは、一週間前のあのバレンタインデーの事である。目の前に突然現れた紫織の存在が、頭から離れない。忘れていた訳ではない。いつもその事は考えていた。自分がしている事は泥棒のような事なのかもしれない。でも、想像しているのと実際に目の前にするのとでは、やはりその受けるショックはまるで違う。急に現実に戻されたようなあの日から、今日が来るまで、マヤはもう一度真澄に会える事を信じられないような思いで待っていた。

「辛−−−−−−−いっ!」

悲鳴を上げながら、マヤは生春巻きやらベトナムカレーを楽しむ。そんなマヤを見つめているだけでおかしくなるほど、自分が幸せになれる事を、真澄は今更ながらマヤのその存在に対して不思議に思う。
年齢も境遇も、何もかもが違いすぎる不釣合いな存在なのに、これほどまでに惹かれてしまう、その理由のない、逆らえない引力のような力に、空恐ろしい気さえしてくる。

(俺はもし、彼女を失う事にでもなったら、気が狂うのではないか…)

冗談ではよく言う言葉だが、実際にマヤを失った自分を想像してみると、正常な精神で生きている姿はそこにはなかった。そこまで惚れ込んでしまっている自分自身を持て余すように苦笑すると、マヤが訝しげな表情で声を上げる。

「やだ〜、速水さん、思い出し笑い?なんか、オジサンぽーい」

そう言ってマヤはがぶりと生春巻きに喰らい付くと、ソースの辛さに舌を出した。

食後に出た摩訶不思議な”チェー”というタピオカのデザートを、マヤはまるで毒見でもするように恐る恐る味わう。

「おもしろい味〜。おいしいかも〜」

無邪気にはしゃぐマヤを見つめながら、真澄は頃合を見計らったかのように、デザートグラスに添えられたマヤの左手を握る。

(食事をしている間は手がつなげなくて寂しい)

そんな事は勿論、口に出して言える筈はないが、それでもマヤの指に触れた途端、安心するのはあまりに自分の体が正直に出来てる気がする。

「マヤ…」

そう呼ばれるだけで、すぐに心臓は倍の早さで動き出し、マヤを慌てさせる。

「誕生日おめでとう…」

マヤはスプーンをカタリと置くと、真澄の瞳をまっすぐに見つめ返す。

「…ありがとうございます…。あの、今日、一緒に居てくれて、すごく、すごーーーーーく嬉しかったです。あの…、もしかしたら、今までの誕生日で一番嬉しいかも…」

言ってしまった後で、やっぱり照れくさくて少し、かゆくもないのに鼻の頭に手をやってしまう。照れているのがわかると、ついいじめたくなるのが真澄の悪い癖だ。例によって、執拗に指を弄び始める。自分の手のひらにすっぽりと納まってしまうほどに小さなそれを、指の一本一本の間をまるで犯すように絡め取る。
マヤは心底真澄はズルイと思う。
指だけでこれほど自分を夢中にさせてしまう、真澄をズルイと思う一方、そんな真澄を恐いとも思う。
ふと、指への執拗な愛撫が止んだかと思うと、手のひらに異物感。

「プレゼントだ…」

そう言ってのせられたそれは、小さな小さなジュエリーボックス。

『じゃぁ、誕生日プレゼントはピアスを買ってあげるよ』

数週間前に真澄に言われた言葉が脳裏に蘇る。ドキドキと心臓が口から飛び出しそうになるのを、堪えながらそっと、ケースを開けると。
小さな小さな、涙のような真珠のピアス。ポストの部分には小さな光る石が付いている。

(ダ、ダイアモンドかしら…?)

光る石にぶら下がった小さな真珠は今にも零れ落ちそうな雫のようだ。

『もしピアスの穴が出来たら、絶対してみたいデザインがあって、それは、耳たぶの端っこからぶら下がってる、涙の雫みたいなの…』

真澄はあんなどちらでもいいような自分の言葉を覚えていてくれたのだろうか…。ふいに目頭が熱くなる。

「速水さん…、これ、してみてもいいですか?」

真澄は声は出さずにただ、小さく頷く。
最近では消毒するために、何度かファーストピアスも外してみたりもしてた。だが、違うピアスをするのはこれが初めてだ。
真澄に開けてもらった穴に、真澄から貰ったピアスを初めて刺す…。
こじつけの様な理由だとはわかっていたが、マヤにはその些細な偶然が嬉しかった。
順番に首を少し傾げながらピアスを外す。涙のピアスを手にとると、指が震えそうになるのは毎度の事だ。ドキドキと言う事を聞かずに勝手に鼓動を早める心臓を持て余しそうになる。

「あ、あれ…?」

マヤの拍子抜けするような声に真澄が訝しげな表情で見つめ返す。

「どうした?」

「ご、ごめんなさい…。あの…、私、まだ、慣れてなくって、どこが穴なのかわからない〜」

オロオロとするマヤに『そんな事か…』と言った表情で真澄は小さく吹き出すと、

「かしてごらん…」

優しくマヤの手のひらから涙のピアスを受け取った。マヤの顎をそっと掴んでテーブルごしに引き寄せると、丁寧に左右の髪を耳にかける。親指と人差し指でそっと耳たぶのピアスの穴の箇所を挟むと、その部分を不思議そうに眺めながら言う。

「もう痛くはないのか?ここ…」

前のめりになりそうに真澄の前に突き出された自分の顔が、一体どんな表情をしてるのか、マヤは想像するだけで恥ずかしさがこみ上げる。

(どうせきっと、また馬鹿みたいに真っ赤になってるんだ…)

「え…と、ぜんぜんっ…。今はもう何も感じません…」

「…そうか…」

そう言って、ゆっくりと細いピアスの針を穴に沈めていく。
不思議な感覚だった。

肉体を貫くように押し進めても決して押し戻されるような抵抗はなく、ゆっくりとその場所へ収められていく真珠の雫。

(一度塞がった傷はもう痛みを感じる事はないのだろうか…)

そんな事を真澄は頭の隅で考えながら、耳たぶの後ろからキャッチャーをはめると、カチリと小さな手ごたえでもって、真珠の雫はマヤの耳たぶに落ち着いた。
人差し指でその雫に軽く触れる。耳たぶとともに小さく揺れた雫は儚げで、今にも零れ落ちそうだった。
左右の耳に真澄にピアスをはめてもらうと、マヤは思わず窓ガラスに映った自分をまじまじと見る。

「…カワイイ…」

うっとりとしたマヤのその口調に真澄も満足そうに頷く。発した言葉の幼さとは裏腹に、マヤは真澄が触れた耳たぶから広がっていく、体の火照りに戸惑いを隠せなった。

(あぁ、また、熱くなってる…)

下腹部の奥深く、子宮と言われる部分が発する熱の波はまだ、マヤには未知の世界である。それが何なのか、何を意味するのか、それさえもわからない。
ただ、体がジワジワと熱くなっていくのを、なす術もなくやり過ごす。

その指でもっと触れて欲しいと思うのは、間違いなのだろうか?
もっと強く息もつけないほどに抱きしめてもらいたい思うのは、いけない事なのだろうか?
全てを「思い出にする」という代償で引き受けるとしても、それは許されない事なのだろうか?

言葉もなく艶かしい瞳をグラグラと揺らすマヤに真澄は、微妙な気配を感じ取る。

「…?どうした、チビちゃん…?」

「速水さん…、恋人だったら…、恋人だったら、もっと他にも、その…、色々しますよね?」

脈略もなく発せられたマヤの言葉をどう解釈していいのか、真澄は絶句しかける。

「どういう意味だ…」

マヤは羞恥心でいたたまれなくなる。こんな事を自分が言うなんて、身の程知らずもいいところだ。これ以上真澄の負担になってどうするつもりなのだ。それから、自分も一体どうするつもりなのだ。
混乱する自らの思考の中から、拾い集めるように言葉を繋いでいく。

「あ…、あの…、アタシ…、もっと速水さんの側に居たいんです。ずっとじゃなくって、今だけでもいいから、嘘でもいいから、もっと近くに行きたいんです…」

これで、真澄は自分の言ってる意味を分かってくれるだろうか?
漠然とした不安が押し寄せる。これではぐらかされたら、それは明らかな拒絶として受け止めるつもりでいた。
しばしの重い沈黙。
消えてしまいたいほどに、自分が恥ずかしくなり、マヤの唇が震えだす。

「もっと側に居たら、キスだけでは済まない事を俺はするぞ」

いつもよりもずっと低い声で、真澄が搾り出すように言う。マヤはこのままでは自分の神経の全てが絡まりあって、おかしくなりそうな気がした。

「…キスだけで済まなくなっても、いいんです…。それで、いいんです…。
側に居させて下さい…」



窓の外では今年2度目の粉雪が舞う。暗闇の中でハラハラと舞い降りる白い愛撫は、触れてしまえば跡形もなく消えてしまう儚さとあやうさでもって、すぐに吸い込まれるように夜陰に消えていく。

(このまま一晩中、降ればいい…)

一つ一つの行方を追ってもすぐに見失ってしまう、ひらひらと舞う雪の欠片を見つめながらマヤは思う。
このまま、ずっと一晩中降り続けて、明日になって全てが白いものに覆われてしまえばいい…。
そして、それが春まで融けなければいい…。



雪は朝まで降りつづけた…。





1.22.2003







Top / next