手のひらで融けた雪 9
まだ早すぎる…。

それは真澄も嫌というほどわかっていた。鷹宮との縁談を破談にする決心は揺ぎ無いものではあったが、まだ実際に鷹宮に対して破談の申し入れをしたわけでもなく、また紫織に対してもなんら具体的な説明を行っていない。
破談に伴い大都が被る損害を必要最小限に留める為、今は外堀を埋めている状態であった。英介を納得させる形で破談に持っていくには、相当の結果を突きつけねばならない。しかし、実際のところ、四月までにそれが確証となって真澄の手中に落ちるとは言えない厳しい現状であるのが事実であり、多かれ少なかれ博打を打たなければならない事には変わりなかった。

この状況ではまだなんの約束もしてやれない。期待を持たせるような事を言うつもりもなかった。すでに今二人が置かれてるこの状況だけで、充分にマヤを翻弄しているのは真澄にも明らかであった。

しかし、どれほどそれらの事実を頭で理解したところで、抜き差しならない所まで踏み入れてしまった己の体は、マヤの一言で火が付いたように暴走を始める。思えば、あの日触れてしまった唇から発火された、自らの狂気と情熱が抑えきれなくなるのは、時間の問題であったのかもしれない。

二人の乗せたエレベーターの箱は、ゆっくりと昇天していく。





それは性急な愛の嵐が吹き荒れたような一夜であった。

終始震え、涙をいく筋も頬に伝わらせるマヤのそのいたいけな姿を目にすると、自らの凶暴性もなりを顰める。

「無理はしなくていい…」

そう言って、ゆっくりと抜け出ていこうとする真澄にマヤは慌ててしがみ付くと、

「お願い…。やめないで…。最後まで速水さんと居たい…」

そう言って肉体的な痛みからではない苦しみに、顔を歪める。

与えられるでもなく、奪われるでもなく、ただ交わる肉体。
マヤには、そこに愛があるのかは分からなかったが、そうしなければならなかった何かが自分をそこへ誘(いざな)った事への後悔はなかった。言葉では説明出来ない何か、気持ちや心だけではない、熱い塊が真澄を欲した。
優しさはいらなかった。残酷なあの優しさが入り込む隙間などないくらいに、真澄にめちゃくちゃにして欲しかった。臆病な自分が真澄以外の何も、恐がらなくて済むように、真澄意外の全ての事を考えなくても済むように…。ただそれだけを求めて、マヤは濁流に飲まれていった…。





気を失ってしまったようだった。

目覚めるとマヤは、穏やかに一定のリズムで寝息を立てる、真澄の広い胸の中にいた。まるで自分を閉じ込めるように、回された真澄の逞しい腕に愛しさが募る。

(ここも、ここも、こんなに私と違う…)

改めて感じる真澄の体の造りは、全ての部位においてマヤより一回りも二回りも大きく、その存在感がマヤを圧倒する。昨夜は触れるだけで熱を持ったように熱かったお互いの肌も、今は心地よい温もりで触れ合っている。

(キレイな顔だなぁ…)

目の前にある長い睫に思わず手を伸ばしたくなる。慌てて伸ばしかけてた手を引っ込めると、ゆっくりと体の向きを変え、サイドテーブルに置いた時計を見た。

(五時…。もう、帰らなくちゃ…)

一緒に目覚めるのが恐かった。目覚めた真澄に
『間違いだった』
と思われるのが恐かった。いちいち
『昨日のあれは忘れてくれ。一晩限りの過ちだった』
そんな風に説明されたくなかった。

真澄を起こさないように細心の注意を払って、その暖かな腕から身を引き離す。シャワーを浴びたかったが、水音で起こしてしまうのが憚られ、そのまま手早く、辺りに散らばっていた服をかき集めて着る。

最後にキスをしようかと思ったが、起こしてしまうのが心配で、シーツの外に無造作に置かれた真澄の手のひらに、そっと人差し指で触れた。

その温かい温もりに、涙が出そうになった。



一晩中降り積もった雪が、外の景色を変えてしまっていた。辺りは一面、白い世界に塗り替えられ、まだ夜が明けきってないにも関わらず、白い明るさを視界に与える。
傘も持ってないマヤは一瞬ためらたが、まだ粉雪が舞うその中へ歩き出す。
雨でなくて雪でよかったと、マヤは思う。こんな気分で濡れ鼠なんて、あまりにはまりすぎる。やっても無駄な事なのに、コートに張り付いた粉雪を手のひらで払うと、途端に手のひらに冷たい感触を覚え指がかじかむ。

(昨日のアタシと今のアタシでは、何が違うんだろう…)

立ち止まって、空を見上げる。次から次へと舞い降りる、白い花びらが口の中に入り、融けていく。目を瞑ると、早朝の静けさと雪の囁きが心地よい。
そのまま、しばらく雪にあたっていた。
放っておけば、止め処なく溢れでてきそうな、愛しさや切なさが熱を持って暴れださないよう、雪の冷たさに気持ちを冷やしてもらうように…。



真珠の涙のピアスの片方が無いのに気付いたのは、始発の電車の中での事だった。





次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、マヤは真澄からの電話に出なかった。出たところで何を話せばいいのか分からなかったし、第一、真澄にそんな事を口で説明されなくても、全部分かってるつもりでいた。いちいち、いつもの残酷な優しさで、言葉を選んで説明する真澄を見るのは辛かった。

それでも、自分の予定を知り尽くしている所属事務所の社長が相手というのは、こういう状況では圧倒的に不都合な訳で…。


「見つけたぞ…」

ドラマの撮影終了後、スタジオの前に止められていた見覚えのある車。三日会わなかった事なんて、今までだってざらにあったはずなのに、もう何ヶ月も会っていなかったような錯覚に囚われる。

「見つかっちゃった…」

出来るだけ明るい声を取り繕ってマヤは言う。

「どうして先に帰った?起きたらいないとはあんまりのご挨拶だな」

非難めいたその口調に、マヤは少し腹立たしい思いがする。

「どうして…って…」

(速水さんのためを思ってに決まってるじゃない、そんなの…)

それは口にしないで、マヤは答える。

「だって…、変じゃないですか。そんな、一緒に目覚めて、確認しあうの…。あぁ、間違った事しちゃった、って。『恋人ごっこ』なんだから、そういう現実的なドロドロした部分はいらないでしょ…」

会えて嬉しかった先程の温かい気持ちがどんどん、冷えていく。

「どうして、間違いだと思うんだ…」

真澄の目は段々と厳しさを増してくる。

「だって、速水さん、もうすぐ結婚するんですよ!私以外の人のところに行っちゃうんですよ!私、それ、分かってて『付き合ってほしい、恋人になってほしい』なんて馬鹿な事、頼んで…。だから、文句なんて言えないし、言わない。
でも、やっちゃいけない事だったって、それは分かってる…。それぐらいは、私でも分かってる…」

哀しさと悔しさがごちゃ混ぜなったような、奇妙な涙が出てきそうになる。
真澄はここまで来て、何も具体的にマヤに言葉で説明していなかった事が引き起こした、すれ違いに気付く。しかし、敢えて何も口にしなかったのは、マヤに余計な心配をかけたくなかったからだ。悪戯に破談の話しや大都の危機を口走ったところで、マヤの性格からしたら間違いなく、
『そんな事はしないでくれ』
と哀願して、逃げ去る姿が容易に想像できた。また、まだ完全に断ち切れていない、紫織との予想されるべく愛憎劇にマヤを巻き込むつもりも、更々なかった。真澄の男のプライドにかけて、全てを自分の手で後始末を付けたら、有無を言わせずマヤを貰うつもりでいた。それまでは、マヤが提案したこの『恋人ごっこ』の付き合いに甘んじて、ただ彼女を幸せにしてやればいいと思っていた。破談が決まれば、いくらでも真実の言葉をかけてやればいいと思い込んでいた。そして今だにどちらも保険をかけたように両手に持っている自分の言葉など、なんの真実味もなく、言うだけ無駄だと思っていた節もあった。

諦めたように真澄は大きくため息を一つつくと、そっと包むようにマヤを抱きしめる。

「勝手になんでも、自分で決め付けるな。
少なくとも、俺は間違いだったとは思ってない…」

マヤの耳元に顔を埋め、搾り出すような切なげな声で言う。マヤの気持ちがぐらりと揺れる。

(あぁ…、ダメだ…、こんなにも私は溺れてる…)

もうこれ以上はその優しさに依存しないように、その優しさを取り違えないように、決心したはずなのに、すぐに心も体も真澄を求めてさざ波を立てる。

「忘れ物…」

そう言って真澄が目の前に差し出したのは、あの真珠の涙の片方のピアス。

「朝起きたら、ベッドに残ってたのは、これだけだった…」

寂しげな微笑を浮かべて真澄は、それをマヤの手のひらに乗せようとする。一瞬マヤはそれを受け取ろうとしたが、何を思い立ったのかすぐにそれを付き返す。

「それ…、速水さん持っててくれませんか?あの夜の思い出に持っててくれませんか?あの夜が嘘じゃなかった証拠に、二人で半分づつ持ってたい…」

真澄は驚きのあまり、言葉を失う。付き返された真珠の涙を手のひらで転がしながら、言葉を探していると、マヤの方がゆっくりと喋りだす。

「それを二人のサインにしませんか?もし、どちらか一方がこの関係を辞めたくなったら、片方を相手に渡すの…。私…、言葉で色々傷つけあうの、きっと耐えられないと思うから、それを私に渡してください…。そしたら、私、それで全部、納得するから…。そういう事なんだって、思うようにするから…」

マヤの肩は震えていた。どんなにきつく抱きしめても、まだ震えていた。

真澄はもう一刻の猶予も許されない事を悟る。





深夜2時、大都芸能社長室。
明日までに業務に必要な書類はすでに、全て片付けてある。しかし、誰もいなくなったオフィスで真澄はまだ忙しく、コンピューターの前でいくつものデータを入力していく。連日の深夜に及ぶ残業で、かなり体力的に無理をしているのは分かっていた。もともと、無理をしているところへ加えて、マヤとの逢瀬のために、更なる無理をしているのだ。それでも、この作業を一刻も早く終わらせねば、と真澄の精神力はギリギリのところで保たれていた。
保存をクリックする。
大きく息を一つつくと、プリントアウトさせる。
原稿がすべて印刷されるまでの間、窓辺に近寄り、眼下に広がる眩い都会の夜景を見つめる。
この都会の紛い物が溢れかえる砂漠の中でも、ただ一つ自分にとって真実があるとすれば、それはマヤだけであった。
思いもよらぬ風に事が始まり、恋人のような時間を過ごし、つい日常の全ての煩わしさを忘れ、没頭してしまいそうになる。
だが、それはまだ自分には許されない現実であった。何もかも、まだ保険をかけたように手中に握っているうちは、手に入れられない幻である事もわかっていた。
失うものがなければ、得られないものがある…。

プリンターの音が止む。
枚数を確認すると、それらをアタッシュケースの中へしまい込む。トップページのタイトルには
【鷹通との事業不提携による被害総額と対策】
と、黒字で大きく印刷されていた。





1.23.2003







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