written by アルフィン









□□ 第1夜 □□


墨色の闇のしじまを今夜も彷徨う
夜を重ねるごとに満ちていく冷たい月
氷よりも冷たい満月を抱いて
私はあなたの前で崩れてしまう










携帯電話がメールの着信を伝える。
一瞬のうちに、喜びと失笑が、希望と諦念が交互に出現して散らばる。

「マヤちゃん、ごめんなさい。
今日も会議会議で無理みたい。
必ず実現させるから、もう少し待っていて。
                 水 城」

同じような文面のメールをいくつ消去しただろう。
そっと溜息をつきながら消去ボタンを押す。



自分が紅天女になれたら
あの人が気に入る紅天女になれたら
何かが変わるかもしれない。

そう思っていたのは試演が終わり、自分が紅天女を手にすることができたと実感するまで。

紅天女になったあたしを
あの人のために演じる紅天女の演技を
あの人は欲してくれるだろう。

そう思っていたのは大都芸能と契約し、調印式にあの人が出席しないことがわかってしまった時まで。

せめて
良い演技だった。見事な紅天女だ。
と言ってほしい。

そうでないと壊れしまう。
そんな悲壮な思いに支配され、一度だけでいいから会って話がしたいと水城さんを通じてお願いしてから、もう何日経つのだろう。


自分一人しかいない真っ暗なアパートの部屋。
ゆっくりと月光が差し込んでくる。
麗が地方公演で不在であることを幸いに、今夜も墨色の闇に誘われて、あてもなく夜の街を彷徨う。

深閑とした暗い夜空に、凍えるような冷たさを持った月が浮かんでいた。
行き着くあてなどない道行きは、月の軌跡だけを追いかけて、毎夜月が沈むまで続いた。

月没とともに電池が切れたように、ほんのわずか、
夢を見ない程度に眠りに落ちる。
そして、日の出とともに起きて稽古に没頭する。

自分の行為が何の解決ももたらさないことは十分にわかっている。
けれど、たくさん眠ると夢を見てしまう。
幸せな夢も、そうでない夢も、結末だけはすべて絶望だった。
だから、夢を見たくなくて月を追いかける。

しんしんと冷気が自分を閉じこめるように満ちていく。
見上げた天空から、冴え冴えとした満月が冷たい白光を降り注いでいた。

ふふっ。お月様は太っていくんだね。
あんなに丸々としているのに、ちっとも暖かそうじゃないや。

三日月、上弦の月、十三夜月、小望月、満月・・・・。
自分が見上げてきた月を振り返る。
そっか、明日からは欠けていくんだ。
月がなくなった時、あたしも一緒に消えてしまえないかな。

満月と会話をするように夜空を見上げてでたらめに歩く。
でたらめに歩くのは毎夜のことなのに、今夜は吸い寄せられるように今までなぜか避けていた公園にたどり着く。


ここは全然変わっていない・・・・。


(マヤ、木になってごらんなさい。)


月影先生・・・・。


(紅天女は、自分が人間だということを忘れることができて初めて演じられるのですよ。)

(マヤ・・・今のあなたでは、まだまだ・・・・)


先生・・・あたし、紅天女に本当になれるんでしょうか?
あたしの阿古夜は人間の心を本当に忘れ切れているのでしょうか?


(大切なことは人間の心を忘れきることではなく、あなたが阿古夜になりきることです。さあ、マヤ阿古夜になってごらんなさい。)


両手を天と地に向け、我が身を月光の通り道にするように立つ。
自分が静かに紅梅に変わっていく。
自分の意識が遠く、深く沈んでいく。




「マ、マヤ!」

突然、自分に向かって吹き抜ける浚風(さらいのかぜ)が、ずっと耳にしたいと希っていた声を運んできた。
事情がよくわからないまま、阿古夜の心から戻れないでいると、不意に強い力で抱きしめられた。

「え? ・・・・! 
は、速水さん?ど、どうして?」

ここはどこ?
梅の谷?
時間と場所の感覚が混濁したまま見上げると、そこには心底心配そうにあたしをのぞき込む愛しい人がいた。

「俺のことはどうでもいい。こんな時間に、こんな寒いところで何をしているんだ。こんなに冷たくなって、風邪でもひいたらどうする。」

速水さんのコートの中にすっぽりと納められる。
強い力で抱き寄せられ、身体が密着してしまう。
自分の鼓動がドクドクと早鐘のように脈打つ。
これは現実?それとも夢?

「ご、ごめんなさい。眠れなくて・・・。散歩に出たら、ああ、この公園で初めて月影先生に梅の木になってごらんって言われたんだと思い出して。
今のあたしならあの時よりは梅の木らしいって言ってもらえるかなって思ったら、そのまま梅の木になってしまって・・・・。」

「もういい。とにかく早く暖まった方がいい。帰るぞ。」

あたしを抱えたまま速水さんが歩き出そうとする。
このまま歩いてしまえば、今夜の奇跡は消えてしまう・・・・・。

速水さんごと足を止め、この時間を繋ぎとめるための言葉を口にする。

「今夜は部屋に誰もいないの。麗は地方公演に行ってしまって。一人でいるととても寒いの。」

スーツ越しに速水さんが緊張するのが伝わる。
あたしは口に出してしまった言葉を後悔する。

「そうか、部屋に戻っても寒いのか。困ったな。しかし、とりあえず暖まらないと・・・・。」

速水さんの唇からこぼれたのは、拒絶の言葉でも、あたしの不審な行動を訝る言葉でもなかった。




「少しは暖まったか?」

「あ、はい。すみませんでした。」

公園から5分ほど歩いた国道沿いにあるファミリーレストランで、あたしはココアを手にして速水さんを向かい合っていた。

「いや、俺の方こそすまなかった。君が会いたいと言ってくれていたのに、ずっと時間を作れないでいた。」

不意に与えられた穏やかで優しい言葉。
ずっと耳にしたいと願っていて、
でも、もう与えられることはないと諦めていた声の響き。

嬉しくて、哀しくて、速水さんの顔を見つめてしまう。
速水さんが怪訝そうな顔をした。
あたしは急いで頭を振り、普段通りの笑顔を作る。

「いいえ、速水さんが忙しいのはわかっています。
あたしの方こそ何度もすみませんでした。」

「何か、大事な話か?こんな所で聞くような話じゃないんだろうな。
2,3日のうちに必ず時間を作ろう。」

「あ、そんな大げさな話じゃないんです。ただ・・・・・。」

ただ・・・・・

あたしは、速水さんに喜んでもらえるような紅天女を演じられましたか?

この一言が、
この一言だけを告げたくて、尋ねたくて、
ただそれだけなのに
声が出ない。

声の代わりに涙が出そうだ・・・。
やだ、どうしよう。
速水さんが変に思っちゃう。

ほら、頑張れ。今きかないと一生後悔する。
あたしは自分に気合いを入れる。

「速水さん、あたしの紅天女はどうでした?少しは喜んでもらえましたか。」

「あっ・・・・。」


(あたし、速水さんに喜んでもらえるような紅天女を演じたい・・・・)


遠い日の雨に閉じこめられた夜の会話。
もう戻れないあの場所へ心だけが飛んでいく。

速水さんは、あの雨の日と同じ穏やかな瞳であたしをしばらく見つめると、
そっと目を閉じて、大切なものを並べるように言葉を紡ぎ出した。

「信じられないほど、言葉で言い表せないほど、素晴らしい演技だった。
あの日、俺の魂は君の魂と一緒に梅の香りをかぎ、時空を超え、永遠の光に包まれていた。
もう、このまま死んでもいいと思うほど、君の阿古夜と同化していた。」

一つ一つの言葉が心の中に染みこんでくる。
あたしの魂が、速水さんの言葉は真実だよと静かに告げている。

ずっと乞い求めていた魂の片割れが目の前にいる。
速水さんの魂が、あたしの魂を包んでくれている。
これが夢だとしても、あたしは神様を恨まない。

「マヤ?」

「・・・嬉しい。・・・・・あたし、速水さんに喜んでもらえて、こんな風に言ってもらえて、とてもとても嬉しいです。」

速水さんの指があたしの頬から涙をすくいとる。
あたしは自分が泣いていることに初めて気がついた。

「すみません。大丈夫です。あたし、速水さんに何も言ってもらえなくて、顔すら合わせてもらえなくて、ずっと心配だったんです。
あたしの阿古夜じゃダメだったのかなって、不安で不安で眠れなくて・・・・。
でも、安心しました。ありがとうございました。」

速水さんがとても困った顔をしている。
あたしはいつも速水さんを困らせてばかりだ。
せめて、何もしがらみがなかった頃に戻れたら・・・・。

視線を窓の外へ向ける・・・・・雪がまた降り出していた。

「あ、雪。また降ってきましたね。」

思いのほか明るい声が出て、自分でホッとする。

「そうだな。また、ちらついてきたな。
雪を見るといつも思い出す。君が差しだしてくれた傘を・・・・。
いちごの柄が可愛かったな。」

「えっ?速水さんどうしてそんなことまで覚えているんですか?
あんな、通りすがりの一瞬の出来事を・・・・。」

「いや、いつも敵対している君がいきなり優しくなった瞬間だからな。
俺にとっては貴重なひとときだった。」

「ぐっ!どうして人の親切心を額面通り受け取らないんですか!」

「はははっ。すまん、すまん。あれはあれで感動したぞ。君との相合い傘だ。」

まるで、あのころに時間が撒き戻っていくようだった。
速水さんに勧められるままに、食事もご馳走になってしまう。
久しぶりに味のする食事をしたような気がした。

いつまでもこの時間が続いたらいい・・・・。
でも、そんな無い物ねだりをしたら、神様も速水さんもきっと困ってしまう。

「速水さん、時間大丈夫ですか?あの、ごめんなさい。所属女優の馬鹿げた真似にお時間取らせてしまって。」

速水さんがホッとしたような表情で時計を見る。

「俺の方は大丈夫だ。しかし、もうずいぶん遅いな。君は明日も稽古だろ。送っていこう。大切な天女様に風邪でもひかれたら一大事だ。」

店を出ると雪はやんでいて、満月が夜道を照らしていた。
この道を歩いて、アパートに着いてしまったら、今夜の奇跡は終わってしまう。
きっと速水さんは何もなかったように日常に戻る。

一歩先を行く速水さんのコートの肘を思わずつまむ。
ポケットに入れられた肘の先が緩やかに動いて、
速水さんの手のひらがあたしの手のひらを捕らえた。

梅の谷の社務所で嵐の夜を越え、迎えた朝に繋いだ手のひら。
あたしの中の時間軸は狂ってしまったようだ。
自分がどこにいるのか、今がいつなのか、どんどん曖昧になっていく。

「あっ!」

何かに躓いて転びそうになる。
体勢を立て直そうとよろけた先に速水さんの腕があった。

速水さんの腕の中。
あの嵐の晩と同じ匂い、同じ温度、同じ感触・・・・同じ愛しさ・・・・。

「梅の匂い・・・・。」

耳元で湿り気を帯びた速水さんの低い声が響く。
あたしはどうにかなってしまいそうだ。

「ご、ごめんなさい。躓いちゃった。
あ、これ、亜弓さんからもらった梅の香りの匂い袋なの。」

人気のない公園の中。
解けずに残る雪で湿気を帯びた空気は、あの夜にとても似ている。
愛しい人の腕の中で、今があの時だったら、あの嵐の夜だったら、
あたしは迷わず、あなたが好きと伝えるだろう・・・・。

抱えられた腕の中で、満月を背負った速水さんを見上げる。
降り注ぐ白い月光の中で視線が繋がる。
ゆっくりと、速水さんの顔が近づいてくる。
この時間を閉じこめたくて、あたしは静かに目を閉じる。

唇に残る儚く甘い感触。
押してはいけないボタンを押してしまった・・・。

2人とも無言のままアパートの前に着いてしまった。
神様・・・もう少しだけ、もう一つだけ、あたしの願いを叶えてください。

「速水さん、一つお願いがあります。もう1度だけ、速水さんとたくさんの星が見たい。あのプラネタリウムに連れて行ってくれませんか?」

速水さんはあたしの目を見つめ、優しくうなずきながら返事をくれた。

「わかった。時間を作るよ。連絡する。」

速水さんの視線を感じながら部屋のドアを開ける。
ドアを一度閉め、10まで数えてそっと開ける。

冴え冴えと降り注ぐ月の光を浴びて、愛しい背中が去っていく。
凍えるような冷たい空に浮かぶ満月を抱きしめるように手を伸ばす。

あたしは何をしようとしているんだろう。
手に入れられないものを望もうとしている。
冷たい満月があたしを行ってはいけない場所へ誘っている。









03.21.2006






…to be continued









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