| ベルリン 天使のいる街 1
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「真澄さま、こちらがご入用のチケットになります。ベルリン行きの航空チケット2枚。ホテルの方は、アドロンホテルのスウィートを3泊押さえておきました」
「ああ、すまない。ありがとう」 真澄はそう言って、無造作に水城からチケットを受け取る。 「せっかくのご旅行なのに、たった3泊とは短すぎるのではないですか?」 サングラスの奥に微妙な表情を隠して、責めるような口調で水城が咎める。 「3泊でも長すぎるぐらいだ。機内泊を入れれば4日だ。社長が年末だからと浮かれて休みなど取ってる場合ではない」 気のない風に真澄は言うと、受け取ったチケットを上着の内ポケットに押し込める。 「そのお仕事ぶりでしたら、年末に残ってるようなお仕事は何もないんですがね。それに、差し出がましいようですが、新婚旅行をキャンセルした分、少しは奥様の事も省みてさしあげたら、いかがですの」 「だからだ。だから行くんだ。本当だったら二人っきりで旅行なんてとんだ茶番だ。3泊ならなんとかなると思ったまでだ。これ以上は口出ししないでくれ」 吐き捨てるように言うと、これ以上の話し合いは無意味と言わんばかりに、書類に手をつける。 「そうですか、ならば秘書としてはもうこれ以上、何も申しませんわ。明日には、ベルリンの国立歌劇場の方から、正式に大晦日のジルベスターパーティーへの招待状が届くはずです。本日、現地の者に確認の電話を取りました。紫織さんが、なかなか招待状が届かないと言って、心配してこちらにまでお電話して参りましたので、そのようにお伝えくださいませ」 そう言って、抱えていた次の会議の書類を投げるように、真澄のデスクに置くと付け加える。 「…それから、社長にはご関心のない事とは思いますが、北島マヤは今週から、映画の海外ロケのため、ベルリン入りしています。撮影は今月いっぱいかかるとの事で、帰国は社長と同じく、1月2日となってます。一応、秘書としてお耳にだけは入れておきますが…」 チクリとするような、棘のある言い方でそれだけ言い放つと、水城はいつもより強い調子でドアを閉め、社長室を後にした。 残された真澄は、見るともなしに書類を手にし、視線は宙をさまよっている。 「マヤ…」 声に出して呟いてしまった事に、我ながら動揺が走る。 (なんて、ざまだ。この俺が!あの日、自分の心を葬った時からわかっていた事ではないか。お互いこの世界で生きていく限り、必然的な偶然で二人がすれ違う事もありうると…。それでも、あの子を突き放して別の人生を選んだのは、他でもないこの俺だ。こんな事で動揺するとは…) 苦々しい思いを噛み殺すように、タバコに火をつける。ここ数ヶ月で以前にも増して、タバコの量は数倍の勢いで増えている。 (肺ガンにでもなって、早い事死ねるのなら、それもかまわない) そんな自暴自棄になっている自分を持て余しながら…。 ![]() 紅天女の試演後、大方の予想を裏切り、紅天女はマヤに決まった。大方の予想とはもちろん、亜弓と比べてのネームバリューや、亜弓を日本の演劇界での最高峰の女優として奉る世論の事であり、実際に舞台を見た者で、マヤの紅天女に異論を唱える者は一人もいなかった。 そして、マヤの紅天女に誰よりも心を深く、魂にも到達する深さでもって揺さぶられたのは、真澄であった。 溢れ出す思いが体中で暴れだし、真澄はマヤに会う事が出来なかった。会ってしまえば、今度こそ身の破滅に思われた。もしも、自分一人の人生の破滅で済むのであれば、真澄は間違いなく、マヤの手を取ったであろう。だが、自らの両肩に圧し掛かった、大都芸能社員数千人の運命をも変えてしまう決断を真澄に下す事は出来なかった。乗りかけた船は、マヤと自分の思いを波止場に残したまま、出航してしまったようなものだった。 マヤから、そして自らの秘めた思いから逃げ回る真澄を捕まえたのは、マヤの方だった。 「大事な話がある」 そう言って、マヤは紅天女の決定後しばらく経って、真澄を呼び出した。 「誰も居ないところで、誰にも邪魔されないところで、速水さんと話がしたい」 それだけ言って、俯くマヤを真澄は行きつけのバーの個室へ案内した。出されたカクテルに一口も口をつけず、マヤは思いつめた表情でソファーの隅で固まっていた。 「酒がだめなら、普通のジュースでも持ってこさせるが…」 決してからかうつもりではない口調であった真澄のそれも、逆にマヤを怒らせてしまう。 「いいんです、これでいいんです。お酒飲んだぐらいの方がちょうどいいかもしれないし!!」 そう言って、マヤは一気にストローでピナコラーダを吸い上げる。アルコールが下に沈んでいたのか、強烈に苦い味が口内に広がる。思わず顔をしかめてしまいそうになるのを必死で隠しながら、苦い液体を体内に押し込み、やがてそれが体中に行き渡っていくのを感じながら、マヤは言う。 「速水さんずっと私から逃げてばっかりですね。私に会うのホントに嫌なんですね…」 真澄は驚いて絶句してしまう。 「今日だって、嫌々来てくれたんですよね。ごめんなさい…。 私、何か失敗しましたか? 紅天女、あれじゃダメでしたか? 速水さんを怒らせるような事、速水さんに嫌われるような事、私、しちゃいましたか?」 その目はすでに涙で潤んでいて、真澄の理性を掻き回すに充分だった。否定の言葉を探そうと空をさまよう真澄の視線に、マヤは諦めたように付け加える。 「図星かな…。紫の薔薇も、もう貰えないのかな…」 真澄の体内に強烈な閃光が走る。 「知…っていた…のか…!」 切れ切れに呻く様に、真澄は叫ぶ。 「知ってました。もう随分長い間、知っていました。知ってて、知らないふりしてました。いつか、速水さんに言って欲しかったから。『紫の薔薇の人は自分だ』って…。でも、もういくら待っても、名乗り出てくれないどころか、薔薇さえ贈ってくれないみたいですね…」 マヤの瞳の中で何かが激しく揺れ、瞼を閉じた瞬間に大粒の涙が零れ落ちた。 「マヤ…!」 真澄は堪えきれず、マヤの手首を掴む。マヤはびくりと体を動かし、真澄に抵抗する。 「もう、気休めに、こんな風に、私の事、掴まえないでくださいっ…! おかしかったですか?こんな年下の子どもみたいな女優のはしっくれが、あなたに夢中になるの。紫の薔薇に夢中になって、一喜一憂してるあたしを見るの、さぞ滑稽だったでしょうね。もう充分でしょ?遊びなんだったら、本気じゃないんだったら、この手を離して下さい!!」 震える声でそう強く言い放つと、マヤは思いっきり自分の手を引っ張った。マヤの細い手首は、真澄の手からするりと抜けた。放されてしまった事に、一瞬の絶望感に襲われ、マヤは真澄の体温がまだ残る、自らの手首を片方の手でぎゅっと押さえる。 「私はいつも子どもだった…。初めて会った時なんて13だったし、いつまでたってもあなたには子どもにしか思われてなくて…。紅天女にでも選ばれたら、少しは変わるかと思ったのに、逆にあなたは遠くへ行ってしまった…」 相変わらず大粒の涙は両方の目から次から次へと溢れているのに、マヤの声は落ち着いていて、抑揚がないほど冷静だった。 「女として見て頂けないのは、嫌というほど、わかりました。でも、女優として、私をこの先も見てくれませんか?大人の女優として…」 俯いたままだったマヤはそこまで言うと、きっと顔を上げ、強い意志を目に宿らせ、真澄をまっすぐに見詰める。 「私を大都のものしてくれませんか?速水さんの大都に…。私と紅天女、両方、あなたのものにして下さい」 「なっ!!」 真澄は絶句する。本当は、紅天女獲得に向け、決定後も誰よりも早く動かなければいけなかったのは他でもない真澄自身のはずであった。自分の今までの人生の全てはそのためにあったのだ。だが、マヤの紅天女を観た後、真澄の中の全てが音をたてて崩れていった。 ――自らの手で汚す事の出来ない、聖域。―― それがマヤであり、マヤの紅天女であった。 「チビちゃん、君は自分の言ってる事がわかってるのか?あれほど大都での上演を拒んでいたのは君自身じゃないか。そして、君には拒むに足りる理由がある。紫の薔薇への感謝のつもりだったら、そんなものは必要ない。あれは、俺が勝手に贈り付けたものだ…」 マヤはその真意を読み取るように、注意深く真澄の表情に目を向ける。 「…じゃぁ、じゃぁ、なんで紫の薔薇を私に贈り続けてくれたんですか?」 (それは君を愛しているからだ!!) 心の叫びとは裏腹に、他人のような自分の声で絞り出すように言う。 「それは…、女優としての君を見るのが好きだからだ…」 「…女優…として、ですか…」 マヤは膝の上に置いた両手の拳をぐっと握る。 「それでは、女優としての私のたった一つの我儘を聞いてくれてもいいんじゃないですか?私は一生紅天女を演じ続けます。他の何を取り上げられても、私には紅天女がある。一生、紅天女の舞台に立ちます。だから、速水さんの手で私を紅天女にしてください。せめて紅天女の書類の上だけでも、私とあなたの名前が並んでるところが見たい…」 最後は振り絞るような声で言い切ると、マヤは力なく首を垂れた。 真澄は感動のあまり、体が震えてるのがわかった。興奮状態のマヤには気付かれる事はなくとも、自らの体が、心が、嫌というほど震えてるのがはっきりとわかった。 「…チビちゃん。紅天女を手に入れる事が俺の人生の全てだった。そのためにはどんな手段も選ばないような俺の人生は、世間が言うように、また君が思っていたように、冷徹で血も涙もないようなものだった。そんな俺が、ここまで来ておいて、君に指一本触れられなくなったのはなんでだと思うかい?君のような小娘から上演権の一つや二つ、取り上げる事ぐらい、簡単な事なのに…」 マヤは訝しげな表情で、真澄を見つめる。 「わ、わかりません。わかってたら、だいたい私、自分からこんな事しないし…。上演権も私の事も、欲しがってくれる人、他に沢山居るんですよ。欲しがってくれないのなんて、速水さんぐらい…」 少し悔しそうにマヤは言う。 真澄はしばらくの沈黙ののち、重苦しげに口を開く。 「汚したくなかったからだ…。君も、君の紅天女も…。それから、紫の薔薇も…」 不思議そうな顔をして、マヤは真澄を見つめる。 「私は…、女優として、あなたに守ってもらいたいだけです。そして、二人で紅天女を守っていきたいだけです。一生…。それ以上の事は望んでません」 マヤの強い意志を真澄はその自分を見つめる眼差しに読み取ると、膝の上でぐっと両手を強く握り合わせ、意を決したように言う。 「君を…、女優として君を守っていく事を、紅天女の名前のもとに二人名を並べ、一生並んで歩いていく事を、これからの俺に人生にしよう。約束する」 安心したような、幸福そうな、それでいてどこか何かを諦めたような切なさの混じった眼差しでマヤは真澄を見つめると、 「ありがとうございます」 そう一言呟き、感極まって泣き出した。 (今、涙となって吐き出せるものは全部吐き出してしまおう、膿のようなどろどろしたこの感情も、引きちぎられるほどの切なさも、全部、全部、涙と一緒に出てってしまえばいい。そうしたら、私は明日から女優として、誰よりも強い女優として生きていける) そう、心の中で何度も叫びながら、マヤは泣き崩れる。そんな、マヤの肩を真澄はそっと抱き寄せる。肩に置かれた、真澄の手の暖かさにマヤの心の奥の鍵が外れる。 「速水さん、こんな風にあなたの胸で泣けるのも、きっと今日が最後だから…、これが最後だから、言ってもいいですか?」 真澄の返事も待たずに、マヤは畳み掛けるように続ける。 「私…、私、速水さんの事…」 「言うな、言わない方がいい」 苦しそうな声で真澄がせき止める。それでも、溢れ出した思いは誰にも止められなくて…。 「私、速水さんの事が好きです」 落ち着いた透き通ったトーンのそれに、マヤはそれが自分の声ではない気がした。真澄に告白する事を今まで何度、頭に思い描いていた事だろう。甘酸っぱかったり、切なかったり、色々な想いで想像したけれど、こんな風な声で、こんな風に言うなんて、一度も思ってなかった気がする…。 「……忘れろ」 絶望的な表情で顔を歪ませた真澄の非情な声に、マヤはびくりと肩を震わせる。 「それは、錯覚にすぎない。紫の薔薇に対する感謝の気持ちが君に与えた、錯覚だ」 マヤはゆっくり真澄の腕から体を離す。その体はまだ小刻みに震えたままなのに、思い切るように立ち上がると、言い放つ。 「錯覚じゃない恋なんて、あるんですか?」 呆然と立ち尽くしたまま、マヤは真澄を見下ろす。 「錯覚でもいい。私が紅天女で居る間は、私はあなたに恋をします。それが例え、幻であってもです」 それだけ言うと、マヤは逃げるようにその場から走り去った。 ![]() マヤが走り去った後も、真澄は石のように固まって、動けずにいた。 (彼女は、紫の薔薇の正体を知った上で、その人物を愛してると言っていたのか!あの紅天女の台本は俺自身に向けられた、あの子の愛の告白だったというのか!) マヤが紫の薔薇の正体をずっと知っていたと告げた時、一瞬つながりかかった一本の線を真澄は自ら否定しようとした。 しかし、忘れようと思ったその線は、マヤによって再びはっきりと今、目の前で繋がれてしまった。 (マヤは俺を愛している) 身震いするような思いで、その事実を頭の中で繰り返す。 (なんという事だ。あれほどあの子に拒絶される事を恐れて、頑なに自分の心を閉じ込めていたばっかりに、これではとんだ茶番だ) 声を上げて笑いたい衝動に駆られる。自分の馬鹿馬鹿しさと不甲斐なさと優柔不断が招いた結果に、自らを殴りつけてやりたくなる。 そして、体当たりでぶつかってきたマヤの告白は身を切るような痛みを与え、今だかつてないほどに、真澄の心臓を抉る。 (こんな事なら憎まれ役の方が、よっぽど楽だった) 最愛の人物に愛される事が、これほどまでに痛みを持って自分を襲ってくるとは、真澄は夢にも思っていなかった。そして、この痛みから解放される術も持たない自分は、ただその十字架を背負って生きていくしかない。 自らの心を欺いた罪と、最愛の人の心を欺いた罪と、二つの十字架を背負って。 (自分で自分を殺して生きていく。それが俺に相応しい生き方だ) 血走った目を閉じると、グラスに残っていた、ウィスキーを喉の奥へ流し込んだ。 12.28.2002 ![]() |
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