| ベルリン 天使のいる街 4
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日中誰も居なかったホテルの部屋の空気は、どこか濁っていて、かけっぱなしのセントラルヒーティングの生温かさが少し、重たい。締め切られたカーテンが、室内に今日一日、日が差す事も無かった事を物語る。それでも、その部屋はマヤが一ヶ月近く滞在していただけあって、ホテルの一室にも関わらず、どこか生々しい生活臭があった。
後手にドアを閉めたまま、無言のまま相変わらず、きつく自分の腕を掴んだままの真澄に、マヤは諦めたような声で訴える。 「速水さん、腕、放してください。もう、どこにもいかないから、いいでしょ?」 一瞬、腕の自由を感じたマヤに襲い掛かった新たなる束縛。真澄は瞬時に両腕で激しく、マヤを胸に掻き抱く。 「は、速水さん…!!」 驚きと同時に出た叫びは、真澄の腕の中で掻き消される。 真澄は戸惑っていた。 (俺はいったい何をやっているんだ…) 思いがけず寒空の下で白い息を吐くマヤを見たら、目が離せなくなった。その次は声が聞きたくなった。そして、その瞳に自分を写して欲しくなった。 『いつまでも、私があなたを愛してるなんて思わないで頂きたいわ!!』 マヤの叫びを聞いた瞬間、心臓が抉られるほどの痛みを感じ、何かが自分の中で崩れる音が遠くから聞こえた。自分を見つけてしまったマヤから逃げるように広場を離れた。 途方も無いうぬぼれとかすかな希望、そして絶対なる願望が、一つの事実を真澄に信じさせていた。 『錯覚でもいい。私が紅天女で居る間は、私はあなたに恋をします。それが例え、幻であってもです』 マヤは自分の事を無条件に愛し続けてくれるのではないか。自分が無条件に見えない束縛と、聞こえないありったけの心の叫びでもって、永遠に彼女を愛するのと同じように…。約束も保障も何も無い、闇の中で手触りだけをたよりに歩いていく心地ではあったが、真澄はどこかマヤの気持ちを信じている所があった。自分の永遠の気持ちと同じ重さで。 背中を向けて走っていくマヤに、どうしようもないほどの焦燥感と爆発するほどの思いを募らせ、足は自然とマヤの滞在先のホテルへ向かってしまった。 (今度彼女を目の前にしたら、今度彼女をこの腕に取ってしまったら、もう戻れないかもしれない) そう思いながら…。 振り返れば、自分が歩いてきた道は足元から崩れ落ちていった。帰り道はもうないのだ、と。 真澄は一段と強くマヤを抱きしめる腕に力を入れ、マヤの耳元で情熱が這い上がるようなかすれた声で囁く。 「君を抱きたい…」 マヤの体の一番奥で何かが疼く。 『キミヲダキタイ…』 生まれて初めて聞く言葉のはずなのに、もっと取り乱すほど自分を驚かせる言葉のはずなのに、ぼんやりとその言葉は遠くで響く。そして、体の一番奥までその言葉が突き当たった瞬間、波が押し寄せるように、全身の皮膚の神経が逆立っていく。部屋は充分な暖かさであるはずなのに、全身に立ってしまった鳥肌が、マヤの動悸を一層速める。 (私は今、どこに立ってるの?何をしようとしてるの?) 答えのない問いは、まず自分自身を襲ってきて。 (あの人は?あの美しい人はどうしたの?) 次は自分を掻き抱く愛しいその人に向けられる。でもそれらは、石の彫像のように固まってしまったマヤの唇の上を音も無く滑り落ちるだけで、一層の静寂が夜の闇に横たわる。 『錯覚じゃない恋なんて、あるんですか?』 あの夜、真澄に問うたあの問いの答えは誰より自分が知っている。 (錯覚でもいい…。愛されたい…。) その瞬間、マヤの手からバックが滑り落ちる。 「私を…、抱いてください…」 熱を持った吐息に混じってマヤの口から零れ落ちたそれは、世界中で真澄にしか聞こえない。 ![]() 灯りの消えた室内で、カーテンのわずかにあいた隙間から差し込む月明かりだけが、次々と形を変える白いシーツを闇に浮かび上がらせる。 引き裂かれるような生まれて初めての痛みも、自分に覆いかぶさる真澄の圧倒的な男の匂いも、ぴたりと吸い付いて離れないお互いの肌の感触も、それが長い間求めていた心と体の隙間を埋めるものであると同時に、この上なく罪深いものにマヤには思われた。 痛みの向こうに見え隠れするそれが、なんなのか、マヤは目を瞑ったまま手を伸ばす。 (何かが、見えそう。それは、なに?そこは、どこ?) 暗闇の中で空をさまよう手を、真澄は奪うように取ると、指の間を犯すようにきつく指をからめる。 「速水さん、速水さん…!!」 「マヤ、マヤ…!!」 お互いの名前を呼び合うだけで、これほどまでにお互いの存在感が大きくなるのはどうしてだろう。 (無理矢理犯した) そう言ってしまってもおかしくない状況にある、と真澄はわかっていた。それでも、目の前に差し出された美しい白い素肌に、自らの刻印を押していく事を止める事が出来ない。苦しそうに顔を歪め、細い涙がいく筋もマヤの頬を伝う。 欲望だけとは絶対に違う種類の感情が真澄の中に沸き起こる。 それは、長い間求めていた、自分に対する対等な半分への征服感、いや一体感かもしれない。そして欲望よりも勝る、今、自らを受け入れてるものに対する、溢れ出る思い。 「マヤ、愛している…」 肌の上を滑らせるように、何度となく真澄は囁く。喉が焼けるほどの、体内の水分が一気に蒸発したかと思うほどの熱は、自らをも焼き尽くすほどの熱さを持っている。 足元から押し寄せた官能の波は一気に真澄に襲い掛かり、マヤの白い肩に歯を立てたまま、真澄は冬の蜃気楼を瞼の裏に焼き付けた。 ![]() 不気味なほどに静寂だけが横たわる闇の中で、時計の秒針が正確に時を刻んでいく。生まれたままの姿で膝を折り、自分に背中を向けて小さくなって横たわるマヤを、真澄は優しく後ろから抱きしめる。足元に丸まっていたシーツを引き上げると、そっとその小さな肩に口づけた。 マヤは泣くのは卑怯だと思った。この夜に乗り込んだのは二人の意思だったはずだ。それなのに、涙は次から次へと閉じた目から溢れ出て、せめて真澄に泣いてる事がばれないようにと、肩を震わせないようにするのが精一杯だった。 なんの涙なのかは、自分でもよくわからなかった。聞きたい事は山ほどある。 (どうして私を今晩待ってたの?) (どうしてこんな事したの?) (紫織さんはどうしたの?) そして、 (これからどうするの?) しかし、どれを口にしようと思っても、先ほど夢の彼方で聞こえた真澄の 『愛している』 という声に邪魔され、その唇は貝のように閉じてしまう。 (あと少し、もう少しだけ、愛されていたい。まだ、錯覚していたい…) 「マヤ…」 優しい声がする。涙を拭いて、マヤは寝返りをうって振り返る。 「明日も撮影があるんだろう?眠ったほうがいい」 「速水さんは?」 「君が眠るのを見届ける」 そう言って、真澄はマヤの額と瞼に軽く口づける。途端に離れ難い思いが切なさとなってマヤの胸にこみ上げる。そして、つい聞いてはいけない事を聞いてしまう。 「見届けたあとは?」 潤んだマヤの瞳に、真澄はズキリと胸が痛むのを感じながら、わざとおどけたように答える。 「頭を冷やしに外に出る」 その言い方が可笑しくて、マヤはクスリと小さく笑う。 笑った拍子に少し、緩くなった唇をついて、つい聞きたかった事が出てきてしまう。 「速水さんは、今日、私とこうなった事、間違いだったと思ってる?」 「間違いなんかじゃない。間違いになんかさせない」 そう言った真澄の声が思ったよりも強かったので、その瞳に強い意思が光った気がしたので、マヤはもうそれ以上聞くのはやめにした。 (もう、今日はこれ以上、考えられない…) そう心の中で呟くと、真澄の腕の中で躊躇う事なく眠りに落ちた。 天使のような無垢な表情で自らの腕の中で眠るマヤを、真澄はいつまでも見つめていたいと切に思う。しかし、時計の針は午前2時を回っている。離れ難い思いをゆっくりと10秒数え、心の奥に押し込む。シーツからはみ出したマヤの右肩には、先ほど自分がつけてしまった、赤い印が生々しく浮かび上がる。途端に瞼に焼き付けた、冬の蜃気楼が真澄の脳裏に蘇る。一瞬体内の血が逆流するような興奮に身を包まれ、目の前で安らかに寝息をたてるマヤに襲いかかりそうな自分に苦笑する。 (体も冷やしにいかねばならないな) マヤを起こさないように細心の注意を払って、ベットから身を起こすと、素早く身なりを整えた。 マヤは意識の遠くで、その気配を感じていた。夢と現実を彷徨うような感覚のそれは、体は眠っているが、意識は確かに真澄を感じていた。 静かにドアが閉まる数秒前、 「愛している」 と囁いて自分の頬に触れた真澄の柔らかい唇は、夢の片隅で、マヤにかすかな現実の感触を与えた。 ![]() 午前2時。中途半端に睡眠を取っていた紫織は、眠りも浅くなり、時差ぼけのため、だんだんと目が冴えてきてしまってるのを感じていた。と、かすかだが、ドアの開く音、そして人の気配が聞こえてくる。 (こんな時間まで、一体どこへいらしていたの、真澄さま?) シャワーの音が聞こえてくるのを確認すると、紫織はそっと寝室を出る。リビングのテーブルの上には真澄が持ってきたのであろう、大都の企画書が何枚か散乱している。 (こんなところまで来ても、お仕事が頭から離れないのね) 仕事人間の真澄に対し、諦めのようなため息を一つつくと、何気なくその書類の上に細い指を滑らせる。と、突然飛び込んできたある文字に、紫織は心臓を直撃され、ワナワナと体が震えだす。 『北島マヤ【天使のいた街】ベルリンロケ日程』 と書かれたそれを、鷲づかみにするように取り上げると、紫織は血走った目で内容を追う。 『ロケ期間:12月1日〜12月31日 帰国予定日:1月1日(日本到着時間 1月2日) 滞在ホテル:ウェスティン・グランドホテル』 そこまで、目を通すと企画書は紫織の指の間から滑り落ちた。 (こんな、こんな事って!!ここまで来ても、あの女の邪魔が入るなんて!!) 顔面は蒼白になり、体は小刻みに震える。 (真澄さまは、知っていてこの旅行を承諾なさったのかしら) 言いようの無い真澄への不信感が沸々と湧き上がる。その時、バスルームのドアが開く音がし、バスローブを羽織った真澄が髪から水滴を滴らせながら出てきた。リビングの暗がりで呆然と立ち尽くす紫織に一瞬驚いた真澄は、体を強張らせるが、足元に落ちた一枚の企画書に気が付くと、合点がいったように不敵な笑いを浮かべた。 「こんな時間にお目覚めですか?お顔が真っ青ですよ。お休みになられた方がよろしいのでは?」 「北島マヤが…、あの女がベルリンに居る事を知ってて、ベルリン行きを承諾なさったのですか?」 激しい不信の色を目に湛え、震える声で紫織は問い質す。 「いえ、知ったのは、あなたに強引に旅行を決定された後でした。あなたはとてもこの旅行を楽しみにしていたのではないんですか?私がどんな理由を挙げて断ったところで受け付けてくれなかったでしょうに」 クククッと真澄はおかしそうに笑う。その悪魔のような笑いに紫織は背筋に戦慄が走るのを感じる。 「今まで、そちらへいらしたのですか?」 『そちら』の部分を意味深に強調させ、紫織はさらに真澄に詰め寄る。しばらくの沈黙の後、もう何もかも取り繕う事を放棄したように、真澄が答える。 「そうですね、計画的にそうなったわけではありませんが、結果的にはそうなりました」 瞬間、紫織の平手が真澄に飛ぶ。派手な音がしたわりには、大した痛みもそれは感じさせなかった。いや、その程度の事に痛みを感じるほど、今の真澄の武装は柔ではないのである。 (今こそ、決着を付ける時が来た) どこからともなく、強い闘争心が湧く。 「ゲームオーバーですね。いくらあなたと言えども、目の前で不貞を働いた夫を愛せますか?」 真澄は紫織の憎しみのベクトルが明らかにマヤに向かっていくのを感じ取って、必死でそれを自分へ向けようとする。 (紫織さん、憎むなら俺を憎んでくれ!!) そう心の中で叫びながら。 「あなたを愛する事は出来ない、と結婚する前にすでにあなたには伝えてありました。生涯、誠意で持ってあなたとの結婚生活に報いるつもりでおりましたが、所詮、見せ掛けの誠意など、砂の城も同然です。大波が一度押し寄せれば、跡形もなく崩れてしまいました」 いささかの迷いもないという風に、真澄は止めの一言を刺す。 「形だけでもあなたの夫で居る事を放棄させて頂きます」 紫織は真澄の氷のようなその最後通告を聞き取ると、悲鳴とともにその場に倒れ気を失った。 真澄は紫織を寝室のベットまで運ぶと、そのまましばらく紫織を見下ろした。見合いをした相手が自分でさえなければ、このように不必要に傷つけられる事もなかった筈である。それまでの人生に何一つ陰りが無かったように、その先の人生にも当たり前のように幸せを望んだとして、どうしてそれが罪になろう。全ては自分の優柔不断と不甲斐なさが招いてしまった結果だった。 「すまない紫織さん…」 そう呟くと、真澄は静かに寝室をあとにした。 翌朝、紫織は割れるような頭痛と共に目を覚ますと、誰もいないスウィートルームを一人さまよう。真澄の荷物がすでにまとめられ、ドアの前に置いてあるのを確認すると、ケタケタと不気味な笑い声を上げる。 「真澄さま、これで全て片付いたとお思いね。わたくしが鷹宮の娘である事をお忘れなのかしら?!オホホホホホホッ!まだですわよ、これからですわ!」 誰もいないガランとした室内に紫織のその声は響き渡り、いつまでもその調子の外れた高い笑い声がこだましていた。 12.29.2002 ![]() |
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