ベルリン 天使のいる街 5
ブランデンブルグ門前のパリ広場。まだ朝を迎えたばかりのあたりの空気は白く澄み切り、気温は零度を上回る事はない。誰も居ない広場に立ち尽くす一組の男女。


「これが最後かもしれない…」

男は女を胸に抱き、辛そうに眉間に皺を寄せ、女の髪に顔を埋めながら囁く。女は何も言わずにただ男の胸に抱かれる。

「もう一度聞く、俺と一緒に来てくれないか?」

女の頬を両手で挟み、上を向かせると、熱く視線を絡ませながら最後の望みを託す。

「…人生は2度、選べません。私の人生はもう選ばれてしまいました。もう、そちら(西側)へは帰れません…」

その瞬間、涙が一筋、女の頬を伝わる。気の強い彼女が見せた初めての涙であった。

「あなたとは、生きてはいけません…」

瞬間、爪先立ちで伸び上がり、女は男に口づける。時がとまり、訪れる深い静寂。
永遠まであと一秒、そう思われた瞬間、唇は離れ、白い吐息だけが残される。

「さようなら、お元気で…」

震える声で女は呟くと、くるりと背を向け、並木道の向こうへ歩いていく。恋に行き、歌に生きるはずであった自らの人生を『スパイ』として生きる事を余儀なくされた、孤高の歌姫はゆっくりと男の前から全てが幻であったかのように、朝靄の向こうへ消えていく。
その時、静寂を切り裂く男の叫び声。

「もし、いつか君と僕を隔てる全てのものが取り除かれる日が来るのなら、この醜い壁が永遠に葬りさられる日が来るのなら、僕は誓う!!
全てが消え去った年が終わり、新しい年が始まるその瞬間、僕は君をここに迎えに来る!!ここへ、君を手放したこの場所へ!!」

朝靄の向こうで、真っ赤なコートが一度、振り返ったように見えた。が、すぐにそれはその白い霧の中に吸い込まれていった。



「カット!!」

幻想の世界を切り取る声が、広場に響く。その瞬間、見物人は早朝のため誰もいなかったはずなのに、どこからともなく、一人分の拍手が起こる。ゆっくりと大きく手を叩きながら、その人物は近づいてくる。

「速水の若旦那ぁ?!」

黒沼が心底驚いたという表情で、間の抜けた声を上げる。

(北島のせいで俺まで妙な幻覚が見えてきたんじゃあるまいな)

「朝から気合の入った、いいものを見せて頂きましたよ。こちらで撮影があるとは聞いていましたが、私の滞在ホテルはすぐそこでね、偶然バルコニーから見えまして、ご挨拶に来たというわけですよ」

と、真澄は背後に立つアドロンホテルを指差しながら言う。

「へぇ〜、アンタがここに居るとはこりゃまた奇遇だな。仕事か、若旦那?」

「ええ、まぁ…」

どこか言葉を濁す様子に黒沼はすぐに合点が行ったのか、それ以上はあえて突っ込まなかった。
並木道の向こうに消えたはずのマヤがゆっくりと、戻ってくる。が、その先に真澄の後ろ姿を捉えると、足は地面に凍りついてしまったかのように固まり、一歩も動けなくなる。立ち尽くしたまま動かなくなったマヤを不審に思い、桜小路が声を上げる。

「マヤちゃん?」

駆け寄る桜小路に付き添われ、仕方なくマヤは真澄と黒沼の居る位置まで足を進める。こちらに振り返った真澄の視線がずっと自分に注がれているのを、充分に感じながら…。

「お、おはようございます…」

真澄と視線を合わせる事もせず、真っ赤になって俯きながらマヤはやっとの事で挨拶する。
「ああ、おはよう。昨日はよく眠れたかい?」

優しいがどこか人をからかうような響きを含んだ声で真澄が答える。途端にマヤははじかれたように顔を上げ、驚いた表情で真澄を見上げる。

(そ、そんな、昨日は、なんて、そんな事言ったら、二人が一緒だった事バレちゃうじゃない!!)

そんな二人の様子を見ながら、訝しげに黒沼が口を挟む。

「なんだ、お前ら、昨日は一緒だったのか?」

「え?ち…」

マヤが答えるより早く、真澄が答える。

「ええ、ホテルの前で偶然彼女と会いまして、ちょっと食事に…」

しれっと答える真澄に、マヤはあんぐりと口を開ける。

(ああ、そう。この人はいつだってポーカーフェイス。昨日のあれだって、速水さんにはなんでもない事だったのよ…。一人で動揺して馬鹿みたい…)

取り乱す自分の姿は、自らの幼さを露呈してしまったようで、途端にマヤは気恥ずかしくなる。そうでなくとも、昨晩の残像が瞼の裏にちらついて、一秒たりともまともに真澄の顔を見ていられないほど、マヤは先程から赤面してるのである。
それでも、

(もう一度速水さんと二人きりになって、昨日聞けなかった事を聞きたい)

そんな思いがマヤをしっかりと捉え、勇気を振り絞って何かを口にしようとした瞬間、真澄の背後に近づく人物にマヤは息が止まる思いがする。

「紫織さん…!!」

マヤの小さな叫び声にびくりと肩を震わせ、真澄は慌てて振り返る。ミンクの毛皮を着た紫織が口元に妖しい笑みを浮かべながら近寄ってくる。微笑んだその口元とは対照的にその目は憎しみと軽蔑で満ちているのを真澄は見逃さなかった。

「みなさま、おはようございます。この寒さの中こんなに朝早くから撮影とは、大変でございますわね。監督、お疲れ様でございますわ」

マヤの方には目もくれず、社長夫人である立場を強調するようなねぎらいの挨拶をする。

「真澄さまも意地悪なお方ですね、撮影の様子でしたら、紫織もぜひお側で拝見したかったのに。いくら紫織が昨晩疲れていたからと言って、起こしてくださって差し支えありませんでしたのよ」

そう言うと、今度はマヤの方をチラリと伺いながら、すっと細い腕を真澄の腕に絡める。驚いた真澄が、慌ててその腕を振り解こうとすると、赤い皮の手袋をはめた紫織の細い手は、真澄の腕に食い込む程の強さで、肘の内側を握り締める。

「お待たせしてしまってごめんなさい、真澄さま。それでは行きましょうか。ディーツ伯爵のお宅にお伺いするお時間ですわよ」

促すように赤い手袋は真澄の腕を強く引っ張る。どこに目線を置いていいのやらわからないマヤは、困惑した表情の真澄と一瞬目があうと、すぐに逸らし、ガクガクと震えだす足を寒さのせいにしようと必死になる。真澄は否定の言葉を探し、纏わり付く紫織の腕を振り解こうとするが、監督をはじめ多くの出演者の居る前で、大声を出す事も憚られ、

「ちょっと失礼…」

そう言うと、紫織を連れてその場を離れる。

「どういう事ですか、紫織さん。話は昨晩でついたはずです。全て終わっ…」

「真澄さま、わたくしとの結婚には誠意で報いるつもりだったとおっしゃいましたわね」

紫織の真意を図りかね、真澄は伺うような目線を紫織に送りながら答える。

「ええ、ですが、その誠意も…」

再び紫織は真澄の言葉を遮る。

「今こそ、その誠意とやらを見せる時ではありませんか、真澄さま。あなたの仰る通り、ここまで壊れてしまった関係を修復出来るとは、わたくしも思ってはおりません。いいでしょう、どんな書類だろうと判を押しますわ。でも、最後にあなたの誠意を見せて下さいませ!」

紫織の思ったよりも冷静な強い口調に真澄は驚きながら、慎重に口を開く。

「何がお望みですか?」

真澄が話しに耳を傾けたのを紫織は確認すると、静かに息を吐き、真澄の目を見つめゆっくりと言葉を紡いでいく。

「この旅行を最後まで続けて下さいませ。この旅行が終わるまでは、紫織の夫で居て下さい。あなたの誠意で、紫織に忘れられない思い出を下さい」

「しかし、それは…」

いたずらな同情心から彼女に接する事が、どれほど今まで結果的に彼女を傷つける事になったかを思うと、真澄には安易に受け入れられる内容ではなかった。

(悪戯に事を引き伸ばしてどうする)

そう思い、断りの言葉を探すと、表情からそれを読み取ったのか紫織が先に口を開く。

「たった3日間でいいのです。あなたのお側に一生居る事を諦める代わりに、たった3日間だけ紫織にお時間を頂戴したいと、お願い申し上げているのです」

震える声でそこまで言うと、紫織は瞳からはらはらと大粒の涙をこぼす。震える紫織の肩越しに、こちらの様子を控えめに伺うマヤと目が合う。途端にマヤは小さくイヤイヤをするように頭を左右に振り、走り去る。真澄は追いかけたい衝動を抑えるように、拳をきつく握り、大きく息を吐く。

(彼女を追いかけるのは、こちらを済ませてからだ)

「わかりました。あなたの言うとおりにしましょう。ただ、最初にこれだけは申し上げておきます。どんな事があっても、昨日私が申し上げた気持ちに変わりはないと」

「ありがとう、真澄さま」

紫織は少女のような笑顔を浮かべ、素早く真澄の腕に自らの腕をもう一度滑り込ませる。涙で潤んだその瞳の奥の黒い闇の陰謀には、まだ誰も気が付かない…。






話し声は聞こえなくても、寄り添って何かを話す二人の姿は、マヤにとってこの世で一番心に痛い風景かもしれない。アフレコの作業をするように、音声のない二人の様子に残酷な会話を当てはめてみたりする…。

(ヤッパリ、フタリハ オニアイ…)

ヨーロッパの街角に立っても、絵になる二人の様子にため息が一つと半分でたところで、

「北島、北島!!」

黒沼の怒鳴り声で、マヤはようやく我に返る。

「次のカット行くぞ。3番の衣装に着替えてこい」

マヤは慌てて道路脇に止められてたキャンピングカーに向かう。ロケの際の楽屋として使われるそこには、撮影に必要な衣装がストックされ、着替え場所にもメイク場所にもなっている。ちょうど着替えを済ませた出てきた桜小路から鍵を受け取ると、何か言いたそうな桜小路から逃げるように中へ入っていく。内側から鍵を閉め、背中をドアにもたれかけると、さっきまでギリギリ押さえていた思いが溢れ出し、その場にしゃがみ込む。

(泣いちゃダメ、泣いちゃダメ。メイク落ちちゃう)

そんな風に自分の心をなだめようと努めても、立ってしまったさざ波は、収まるどころか波紋のように心から全身へ押し寄せる。

(速水さん、どうして私を抱いたんですか?
あの人が居るのに、どうして私に構うんですか?
どうして『愛してる』なんて言うんですか?)

ガクガクと震える膝を両手で抱えると、祈るような気持ちで叫ぶ。

(教えてください、速水さん!!)

先ほどの二人の様子が嫌というほど、閉じた瞼の裏に浮かび上がる。ぽっかりと開いた心の隙間に滑り込んでくる隠しようのない本音。次々と押し寄せる、どす黒い渦を巻くような濁流は、きっと嫉妬。そんな醜い感情や、そんな浅はかな自分が、自分の中に居るなんて知らなかった。生まれて初めて襲ってくる「嫉妬」という感情に溺れてしまいそうな自分を、マヤは出来る事なら消してしまいたくなる。



午後の撮影はボロボロだった。マヤが今まで安定した演技を見せ、恋愛物も立派にこなせるようになってきた、と黒沼も確信してきただけに、その崩れ方は衝撃的だった。あとは最後の1カットを残すだけとなってるのに、その最後のカットになるとマヤの演技は突然歯車が狂いだす。

二人が別れて7年後、永遠に立ち続けると思われたベルリンの壁が崩壊し、その年の12月31日に長沢が約束を果たすべく桐子を迎えに来る。大晦日の乱痴気騒ぎの混乱の中、七年ぶりにお互いを探し出した二人が永久の愛を確かめ合うというシーンである。もともと、このシーンは12月31日の実際の状況の中で撮影がしたいというのが、黒沼の希望であったが、安全上の保障が出来ないという事でベルリン市当局から許可が下りなかった。実際、新年の瞬間を生中継しようとするクルーが花火を投げつけられたり、酒気を帯びた集団に襲われたり、毎年事件がたえないのである。
今日中に二人の台詞のシーンの撮影を済ませ、花火を含めた大晦日の様子は、ゲリラ的にカメラだけを回し、二人をドキュメンタリー風に実際人ごみの中を泳がせ、撮影するつもりでいた。このままでは最も大事なシーンが完成しない事になる。

「北島ちょっと来い。他の奴らは30分休憩だ。どこかで暖まって来い」

そう言うと、マヤを連れて黒沼は歩き出す。ブランデンブルグ門を抜けると、広大な並木道「6月17日通り」へと続く。左右を美しい森に囲われたそれは、ベルリンマラソンのルートとしても有名であり、休日は散歩を楽しむ市民の憩いの場となる。
交通の往来の激しい通りをさけ、黒沼は森へ続く小道に入っていく。黙って黒沼の後を歩くマヤは、紅天女の試演前にも同じ理由で演技が崩れ、皆に迷惑をかけた事を思い出し、なんとも居た堪れない気持ちになる。

(私はちっとも成長していない…)

哀しさではなく悔しさから涙が出そうになる。それでも、必死に涙が零れ落ちるのをこらえたのは、今は自分に泣く資格なんかないと思ったからである。

「なぁ、北島、また同じ理由か?」

腕組みをしながら黒沼は、じっと俯くマヤに言う。

(同じ…?)

対象は同じでも、気持ちはあの時とは違う気がした。何も期待せず、何も求めず、そして実際何も持っていなかった自分が、ただ純粋に真澄を思う事で乗り切れたあの時と今とでは、確実に何かが違っていた。

「同じ…ようで、違う気がします…」

「どう違うんだ」

自分自身に答えを探すように視線をさまよわせるマヤの思考を覗き込むように、黒沼はマヤの目を見つめる。

「愛する事で…、愛する事だけで満足出来てたのに…、愛される事を望んでしまったのが、間違いだったのかもしれません。
『もっと愛して欲しい』『自分だけを愛して欲しい』って、こんな思いにばっかり囚われてなんにも出来なくなるぐらいだったら、愛されなければ良かった…」

やっぱりこらえていた涙が一筋こぼれてきてしまったが、マヤは気にしなかった。

「愛か…」

苦笑するような声で黒沼が言う。

「お前さんもそんなような事を言うほど、大人になったっとはな…」

「そんな…、私、大人なんかじゃありません。だいたい、大人だったら、こんな事でいちいち躓いたりしない…。大人になりたいです…」

メイクのアイラインがづれないように、人差し指の腹でそっと涙を拭いながらマヤは答える。

「なぁ、北島。映画の長沢と桐子はどうして最後に幸せになれたと思うか?」

唐突な黒沼の問いに少しマヤは驚きながら、それでも一生懸命思考をめぐらせながら考える。

「信じていたからじゃないかな…。普通だったら誰も信じないけど、7年間も信じ続けたからかな。それが本当の愛だって…」

黒沼は満足気に頷く。

「お前もそれが本当の愛だと思うんなら、信じてみろ。お前にいま足りないのは自分の愛と相手の愛と、同じ重さで信じる事だ」

(愛する事は信じる事…)

どこかで聞いた事があるような台詞にも思えた。

(そんな陳腐なことわざみたいなものに縋っていいのだろうか?)

そんな思いが一瞬頭をもたげるが、それはまさに自分が何も信じていない証拠であるようで、途端にそんな自分が恥ずかしくなる。

「信じた先に何もなかったらどうしたらいいんですか?」

そんな事を聞く自分はずるい、と思いつつも、黒沼が自分の問いに答える度に心のさざ波が落ち着いていくのがわかると、問わずにはいられない。

「何もないって事はないだろ、何かはあるさ、そこには」

黒沼の言葉を復唱するように、何度か頷くと、マヤは納得したように顔を上げる。

「逃げちゃだめって事ですね。例えそこに何があっても…」

「そういう事だ」

そう言って黒沼はマヤの肩を軽く叩くと、戻るように促す。涙の乾いた顔に自然な笑顔を浮かべながら、マヤは最後の質問をする。

「監督、錯覚じゃない恋なんて、あると思いますか?」

黒沼はしばらく考えた後、ふと思いついたように答える。

「一生錯覚出来れば、それで幸せなんじゃないか?」

不意を付かれたように、マヤは少し驚いた表情を見せたが、すぐに再び笑顔になると、

「そうですね、きっと幸せですね…」

それだけ言うと、木々の間から空を見上げ、大きく息を吸う。体中の中身を入れ替えるように…。






「どなたかお探しですか?」

いつまでも立ち尽くす男に、近づいてきた女が声をかける。男は振り向かなくても、その高いソプラノの声の主を確信し、震える声で答える。

「ええ、7年前に手放した歌姫を取り戻しにやってきました」

それだけ聞くと、女は男の背中に抱きつく。

「ああ…、愛していました。愛していました、あなただけを!!あなただけを狂おしいほどに!!」

切なさに押しつぶされそうなその叫びはいつしか、言葉のない嗚咽に変わる。男がゆっくりと体の向きを変えようとすると、女は小さな叫び声をあげる。

「待って!!
…7年もの歳月は私から、若さと美貌を奪いました。あなたはあの頃の私しか知らない…」

「だからなんだと言うのですか?」

男は落ち着いた声で答える。

「7年もの間、私があなたの姿形だけに恋焦がれていたというのですか?そんなものは幻にすぎない、私が求めていたのは、あなたの魂、あなた自身です…」

そう言うと、男は躊躇うことなく彼女に向き合い、その顔を、瞳を、全てを、射るように見つめる。

「あなただけを愛しています。今までも、そして、これからも」

口づけよりもこの腕にきつく抱きしめたい衝動に駆られる。その7年前と少しも変わらない華奢な体を男は折れるほどの強さで、抱きしめた。

ゆっくりとカメラが引いていく。広場には固く抱き合ったままの二人がいつまでも取り残される。






紫織との約束を果たすべく、真澄はまるで最後の任務を遂行するかのように、淡々と旅行の予定を消化していった。昼は伯爵の家へ出かけ、夜はオペラ座宮殿でディナーをとった後、オペラ『トスカ』を観賞してきた。努めてよそよそしい距離を取ろうとする真澄とは対照的に、紫織はあたかも何もなかったかのごとく、幸せな結婚生活の続きのように振舞う。こんな日は時間の経過が地獄のように遅い。
時計の針が間もなく12時を指そうかという頃、疲れきった足でようやくホテルに辿りつき、フロントでキーを受け取ると、メッセージが届いているという。

『速水さんへ』

その小さな丸い文字に体中に電流が走る。
(マヤ…!!)
紫織が見ていないのを確認すると、素早く封を切る。



『明日の朝10時、天使の羽根の影で待ってます。

                 北島マヤ』




それだけ読むと、真澄の心臓はまるで2倍のテンポで速打ちを始めたかのように、血管がドクドクと鳴る。紫織に悟られないようにそっと、スーツの内ポケットにそれを忍ばせると、エレベーターの前で待つ紫織の元へと戻る。

「ちょっとワインを飲みすぎてしまったみたい」

何も知らずにしなだれかかる紫織の声も、どこか遠くで聞こえる他人の会話のようだった。


シャワーを浴びた紫織がバスローブを纏い、目の前に聳えるライティングアップされたブランデンブルグ門を窓際で見つめる真澄に近づく。

「真澄さま、あなたの誠意で私を一晩だけ愛してください」

紫織の湿った生温かさを背中に感じ、真澄は硬直する。

「紫織さん…、それは、出来かねます」

「どうしても、とお願いしても?思い出を残したいのです」

紫織は、縋るような独特の甘えた女の声を出す。

「そんな思い出は、あなたを傷つけるだけです」

「傷ついてもいいのです!あなたに傷つけられるんだったら、本望ですわ!!」

今までに見せた事もないような、激しい調子で紫織は言う。たじろぐ事なく真澄は静かに続ける。

「私は愛している者しか抱けない男なのです。そして、あなたもあなたを本当に愛している者に抱かれるべき女性です」

真澄の優しい響きを持ったそれに、紫織の心は少し、今までとは違う方向に傾きかけるが、心の闇に横たわる諦めきれない何かが、再び口をついて出る。

「おかしな話ですわね。妻を差し置いて、よその女を平気で抱けるあなたが、戸籍上も立派な妻であるわたくしを抱く事が出来ないなんて。よその女の一人だとでも思って、お抱きになればよろしいではありませんか」

真澄は哀れみ以外のなんの表情も持たない瞳で紫織を見つめる。

「そういう間違いは、もう2度と自分の人生でしないと決めたのです。あなたを抱く事は僕にとって3重の罪となるでしょう。自分を裏切り、マヤを裏切り、そしてあなたを裏切る。愚かな事です」



バスルームに消えた真澄の服をハンガーにかけながら、紫織は歯軋りするような思いで、真澄の今日一日の表情を思い出す。その時、紫織は背広の内ポケットの違和感を指に感じる。シャワーの水音が続いているのを確認しながら、そっとそれを取り出すと、その宛名書きに愕然とする。素早く中身に目を走らせると、ヒクヒクと引き付けを起こしたように、笑い出す。

「逢引とはまたかわいらしい事…。それでは、私もそろそろ楽しませて頂きますわ!!」

独り言にしては大きすぎるそれは、不気味に室内に響き渡る。







12.30.2002


…to be continued








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