| ベルリン 天使のいる街 6
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翌朝真澄は、
「ベルリン在住の大学時代の友人を訪ねる」 というなんとも陳腐な見え透いた嘘をついて、紫織をおいて外出しようとした。間違いなく問い詰められると覚悟していた真澄であったが、意外にも紫織はあっさりと承諾し、自分もちょうどホテルの並びにあるマイセンに買い物に行きたかった、と言った。 訝しく思いながらも、躊躇してる暇はなかったので、真澄はそのまま紫織を置いてホテルを後にする。 『明日の朝10時、天使の羽根の影で待ってます。』 まるで暗号のように具体的な場所を指定しないそれは、自分を試すようなマヤの小さなのイタズラ心と、会える事を確信できない自信のなさにも思えた。 ホテルの回転扉を抜けると、前方に建つブランデンブルグ門の正面はるか向こうに聳え立つ、金色の天使に目をやる。この距離では点のように小さいそれも、高層ビルの建たないベルリンでは抜きん出て空に突き刺さり、どこからでも容易にその姿を捉える事が出来る。 ホテルの前で列をなすタクシーの一台に乗り込むと、行き先を告げる。 「大きな星、まで」 言ったあとで、「戦勝記念塔」と言うべきだったかと少し心配になるが、運転手は別段考えあぐねる様子もなく、 「Ja」(ヤー) と一言無愛想に答えると、メルセデスを発車させた。 午前9時半。ようやく日が昇り、辺りは明るくなっていはいたが、日中も気温が上がる事のないこの時期、おそらく外気は零度を上回ってはいないだろう。目の前に聳え立つ高さ70mの巨大な円筒の上で微笑む黄金の天使を、もう一度目に焼き付けるように見上げると、覚悟を決めたように真澄は中へ入っていく。細かい螺旋階段が永遠に続くかと思われるそれは、一定のスピードで黙々と上り続ける真澄の体温を徐々に上げていく。入り口には285段と書いてあった。まだ5分の一も登ってないうちから、なんだか騙されてるような気分になる。窓も何もなく、外の様子を伺い知る事も出来ない薄闇の中で、ぐるぐると同じ所を廻っている様な錯覚に囚われる。 (本当にこれはいつか終わりがくるのか?いつか上に辿りつけるのか?) 思ってもしょうがない疑惑に苦笑してみたりする。 そして、登ってみたところで、そこに本当にマヤが居るかどうかの保障はどこにもないのだ。 『天使の羽根の影』 と言われ、真澄はすぐに空港に降り立った日、ホテルに向かう途中に突然視界に飛び込んできたあの天使を思い浮かべた。マヤへの恋慕の想いが途切れかかった時に、まるでそれを繋ぎ合わせるかのように突然姿を現した現代の天使に、真澄はどこか運命を託すような思いがした。 あの夜以来、ようやくマヤと二人きりになれるというのだ。いやでも胸の鼓動は速くないリ、熱い想いが体中をほとばしる。しかしその一方で、突然自分を呼び出したマヤの行動にいささかの不安も隠しきれない。昨日、突然現れた紫織の存在にすっかり萎縮してしまい、小さく首を振って逃げていってしまったマヤ。何一つ誤解を解くような事も出来ず、とりあえず紫織と決着を付ける事を最優先してきてしまっていただけに、必要以上に彼女を不安にさせ、何か取り返しの付かない決断を急がせてしまったのでは…。恐ろしい例え話はいくらでも、真澄の脳裏に浮かんでは消えて行った。 時計を見ると、9時45分。約束の時間まであと15分。 (いくらなんでも半分は登っただろう) そんな風に自分を励ましながら、真澄は頂上を目指し、空への階段を登っていく。 思ったとおり、吹きっさらしの展望台は風が強く、強烈な寒さであった。いくらなんでも真冬の朝にこんな所まで来る観光客もそう居ないのでは、という真澄の予想を裏切って、すでに30人ほどの観光客を確認できた。大晦日を首都ベルリンで過ごそうとやってくる観光客は毎年かなりの数に登るという。そう考えれば、寒さに関わらずここが賑わうのも自然な事に思われた。ちょうど天使の足元をぐるりと囲うようにそこは展望台になっていた。天使自体の大きさは8mちょっとと言った所だろう。ゆっくりと、天使の周りを歩くように展望台を一周する。マヤが居ないのを確認すると、思ったとおり不安が押し寄せる。強風のため、タバコに火をつける事さえままならない。 (この辺りかな) ちょうど天使の背中側、羽根の下あたりにあるブロックの上に腰を下ろすと、真澄はタバコを吸うのも諦め、祈るように両手を顎の下で組み合わせた。 「あ〜、やっぱり来てくれた」 幻聴ではない事を祈りながら真澄は声のする方に、目をやる。たった今登り切ったと言わんばかりに頬を紅潮させ、マヤが嬉しそうに近づいてくる。 「速水さんよくここって、わかりましたね」 悪戯っぽい笑顔でマヤは言う。立ち上がりつつ真澄も同じような笑顔を浮かべて答える。 「そりゃ、馬鹿と煙は高い所へ行くって言うしな」 途端にマヤは膨れてみせ、 「なによ、自分だって登ってきたくせに…。馬鹿はお互いさまじゃないですか」 「まぁ、そう怒るな」 そう言って真澄はマヤを強引に抱き寄せると、耳元で囁く。 「会いたかった…。こうして君を抱きしめたかった…」 コートや帽子に隠れていない、外気に晒されかじかんだ頬に感じる真澄の吐息はこの上なく暖かい。会ったらこう言おう、こうしよう、と思っていた事を全て忘れてしまったマヤは、真っ白になってしまった頭をそのまま真澄の胸に預けると、小さな声で呟く。 「私も速水さんに会いたかった…。ずっとずっと抱きしめて欲しくて、体がズキズキしてた…」 一度真澄の体温を知ってしまった体は、そのぬくもりを求めて暴れだし、自らの心臓はもう一つの脈打つ心臓を求めて、鼓動の速さを上げる。そんな自分の体の変化に戸惑っていたマヤだが、目覚めてしまった小さな欲望も、真澄の大きな腕の中でゆっくりと溶かされていく。 (ああ、私はこうして欲しかったんだ。こうしたかったんだ…) 抱きしめられるだけで、 (これだけで、もう充分) そう思ってしまうほどに、満たされた気持ちが体中に広がっていく。 「地上70mでするキスはどんな味がすると思う?」 真澄がするとは思えない種類の問いに驚いてマヤが顔を上げると、真澄は待ち構えていたかのように素早く唇を奪う。キスの間に洩れるお互いの吐息が周りの温度を2度は上げてるような熱いキス。まるで唇同士が何かの見えない糸で繋がってるかのように、お互いの唇を離す事が出来ず、キスがその次のキスを呼ぶ。 息切れするほどのキスの後、マヤは再び真澄の腕に閉じ込められると、哀しいわけではないのに、涙が零れ落ちそうになる。 (一つになれればいいのに。どこまでが自分で、どこからが速水さんかわからないほどに、同じものになれちゃえば、こんな思いはしなくて済むのに…) 涙の代わりに、ため息を一つ。天使の羽根に隠れて、不貞を働いたふたりを神様は許してくれるだろうか、そんな事を頭の隅でぼんやり思いながら…。 その時真澄は視界のはしに何か神経に障るものを見た気がした。が、慌てて素早く辺りを見回すが、そこにはごく当たり前の観光客によって繰り返される風景が広がるだけ。頭の中で、神経に障ったものの正体をゆっくり思い出そうとしてると、マヤの愛らしい声に引き戻される。 「速水さん、来てくれてありがとう…」 少し恥ずかしそうに俯きながらそう言うと、マヤは真澄の手を引いて金網のフェンスの近くまで行く 。 「一緒にベルリンを見ましょう」 両手の指を金網に絡め、視界いっぱいに広がるベルリンを体中に吸い込むように見つめながらマヤは言う。 「…どうしてここにしたんだ」 真澄は肩肘を金網に付きながらマヤを見下ろす。 「生まれて初めて見た天使だからかな…」 無言のままマヤを見つめ続ける真澄には目をやらず、まっすぐ前を向いたままマヤは続ける。 「ほら…、私、生まれて初めて外国に来て、飛行場から車に乗ってからもずっと興奮してて、ずーっと窓にへばり付いて外を見てたんです。でも、見えるのは家と建物ばかりで、看板がドイツ語以外は東京と変わらないな、なんてがっかりしたりして…」 そこで、マヤは小さく笑う。 「そしたら、この天使が突然目に飛び込んできたんです。夜だったから、ライティングアップされてて、夜空にくっきり浮かび上がってたから、本当に天使なのかと思っちゃうぐらいびっくりして…。そしたら…」 いつのまにか目に溢れてきてしまった涙を瞳の中で震わせながら、感動した調子でマヤは言う。 「速水さんにも、天使、見せてあげたいなぁ。って一緒に、天使見れたらなぁ、って…。そしたら、ホントに速水さん来てくれちゃった」 瞳からついに零れ落ちる涙を拭う事なく、そこに笑顔を浮かべると、真澄の目をまっすぐに見つめながら言う。 「天使が連れてきてくれたのかなぁ、って…」 真澄はゆっくりと近づくと、その震える背中に覆いかぶさる様に、マヤの後ろにぴたりと立つ。金網に掛けられた小さな手を包み込むように、自らの手をそこへ重ねる。 「ここから二人で眺めたベルリンを二人のベルリンの思い出にしよう。あの夜と同じ位、大切な二人の思い出に…」 顎の下にマヤの小さな頭を抱え込み、愛おしそうに目を閉じる。目の前に広がる景色を焼き付けては、目を閉じ、今この瞬間自分の腕の中にあるかけがえのない温もりとともに、記憶の倉庫へと封印していく。お互いに何も言葉を発しないのに、同じものを見ている安心感が、不思議な連帯感を作る。 「愛している…」 そんな言葉は言わなくても、伝わっていると信じたかったが、思いは自然に口を付いて出る。 「明日が始まる時、新しい年が始まる時、君を迎えに行く。君を見つけ出すから、あの彼が歌姫を見つけ出したように、俺も君を見つけ出すから、同じ場所に居て欲しい」 驚いて金網から手を離し、振り返ろうとするマヤを力ずくで押さえ戻しながら、真澄は言う。 「誓いの言葉はその時、言う。君の目を見て、きちんと言う。だから、今はこのまま俺を信じて、俺に君を探させて欲しい。必ず見つけるから」 一点の曇りもない真澄の強い声の調子に圧倒されながら、マヤは震える声で言う。 「速水さん、それって、それって…」 (紫織さんじゃなくて、私を選んでくれるって事?) 声にならないそれは、とてつもない恐怖とともにマヤを襲う。 「ダメ!!そんな事しちゃ、ダメ!!私のせいで、そんな事しちゃ、ダメ!!」 切り裂くような痛みを持ったマヤの悲鳴を優しくなだめるように、真澄は言う。 「君のせいでも、誰のせいでもない。俺がそうしたいからそうするまでだ。そうしないと、もうこれ以上生きてはいけないから、そうするまでだ。君は…、何も考えずに、俺を待ってて欲しい。今晩、必ず君の元へ行く…!!」 もう一度強く、背後から真澄はマヤをきつく、きつく抱きしめると、ふわりとマヤを解放する。促すように出口を指差すと、 「俺が引き止めないうちに帰れ。じゃないと、このまま君を連れ去りそうになる」 柔らかい笑顔を浮かべて、冗談のように言う。どんな表情を浮かべたらいいのか、マヤは少し悩んで、そして戸惑いがちに、これでいいのか確認するような、曖昧な笑顔を浮かべて言う。 「真っ赤なコートだから…。真っ赤なコートを着てるから、ちゃんと見つけて下さいね」 それだけ言うと、小走りにマヤは出口に消えた。 走り去る愛しい影を目で追いながら、真澄は今度こそ、視界の端に入った神経に障るものを捕らえる。瞬間、その異物に飛び掛る。不意を付かれた男は、体制を崩しフェンスに押し付けられると、真澄の強い腕力に喉元を締め上げられる。苦しそうに顔を歪める男から、カメラを奪い取ると、一気に中のフィルムを抜き取る。 「日本の記者じゃないな。誰に頼まれた?地上70mまで追いかけて盗撮とはいい度胸だ」 キリキリと締め上げても、男が何も言わないのを確かめると、真澄は口の端に冷淡な笑いを浮かべ、男の耳元で言う。 「まぁ、いい。だいたいの見当は付く。だが、ばれた以上はただで済むとは思うなよ。君のような仕事をする奴になら充分わかるだろう。こちらの都合のいいように少し働いてもらうよ。金は、君の依頼者の2倍出す。君に断る権利はない」 男の顔がいやらしい笑いで歪む。薄ら笑いを浮かべながら、男は盗撮の目的と、依頼者の名前をぺらぺらと喋った。 真澄は男の話を黙って聞きながら、今年最後のやり残した仕事への完璧なシナリオを組み立てる。 |