ベルリン 天使のいる街 7
真澄は紫織よりも早くホテルに戻ると、寝室の窓辺に立ち窓から外を見下ろす。大きな買い物袋をいくつも提げたミンクのコートの女がホテルの中に吸い込まれるのを確認すると、吸っていたタバコを灰皿に揉み消す。

「さてと、主役がお出ましだ…」

真澄はいつになく瞳にするどいものを一瞬光らせると、そのまま息を沈め寝室の角に身を潜める。
ドアの鍵が開けられる音がする。

紫織は真澄のコートがないのを確認すると、真澄の不在を確信し、備え付けの電話のダイヤルを押す。

「もしもし?私です。上手くいきましたか?」

氷のように冷たい声で紫織は事務的に問う。

「そう…。それは良かった。写真は今晩までにフロントに届けて下さい。こちらで確認したあと、残りの半分のお金をお渡しします…」

あとは、

「ええ」

とか

「はい」

とか短く答え、電話は切られる。真澄の居る場所からでも、電話の内容は完璧に聞き取れた。いや、真澄にしてみれば電話の内容は、単なる事実の確認にすぎなかったのではあるが…。紫織は寝室に向かうと、クローゼットを開け、今晩の舞踏会に来て行くオートクチュールのドレスを出そうとする。その瞬間、鏡張りのクローゼットの扉に予期せぬものの存在を認め、心臓が止まりそうになる。

「ま、真澄さま!」

その丹精な顔の造りを際立てるような冷たい笑みを浮かべ、真澄は言う。

「おかえりなさい、紫織さん。お買い物は済みましたか?」

言葉は優しいがやはりその目は少しも温かみを感じさせない。

「え、ええ…」

電話の内容を聞かれていたのでは、と数秒前に自分が取った行動を頭の中で反復しながら紫織の体は震えだしそうになる。

(いえ、そんなに大きな声ではなかったし、何より、核心にはふれていないわ…)

そう思って自らを安心させようとした瞬間、真澄が唐突に切り出す。

「写真を撮られましたよ、今朝。どこの誰だか知りませんが、僕も外国だと思って気を抜いていましてね。相当いいショットのものを撮られてしまったと思いますよ」

紫織は何も言えずに、しかし罪を糾弾するような激しい眼差しで自分を見つめる真澄から一時も視線を逸らせぬまま立ち尽くす。何も紫織が言わないのを確認すると、真澄は有無を言わせぬ調子で続ける。

「何がお望みですか?」

紫織の中で何かが弾ける。

(もう、ここまで来てしまったのであれば、後には引けまい。遅かれ早かれその事実は突きつけるつもりだった。物証はもうこちらで押さえてあるのだから、今、言ってしまったってかまわないではないか)

紫織は一瞬のうちに頭の中で、事実関係を整理すると、作ったような声で言う。

「わたくしと今晩、ともに過ごして頂きます。男性として、という意味です」

自分がこんな台詞を吐く日が来るなんて、紫織は予想だにしていなかった。落ち着いてそんな事を言い放つ自分の声は、まるで他人のそれのようで、おかしな気分にさえなってくる。

「もし、断ったら?」

真澄も落ち着きはらった様子で会話を続ける。

「その場合は…、残念ですが写真をわたくしの都合のいいように利用させて頂きます。『大都芸能の鬼社長が紅天女の上演権欲しさに所属女優を誑かす』なんて格好の見出しではなくって?」

紫織の口元は不気味に引きつりながら笑うが、その目は全く笑っていない。

「例えそんな風に事実関係を捻じ曲げて報道されたところで、僕には痛くもかゆくもありませんがね。そんなくだらない陳腐な噂話など、その後の僕とマヤの付き合いですぐに消してみせますよ」

一歩も譲らないという口調で真澄は答える。
ふふふ、と紫織は妖しい笑いを浮かべ、さも可笑しそうに言う。

「そうですわね、御強いあなたさまの事ですから、きっと何にも負けず、私には一度も見せてくださらなかったそのあなたの愛と優しさとやらで、あの小娘を守り続けるのでしょうね」

激しい嫉妬の色を瞳に湛えながら、尚且つ勝ち誇ったように紫織は続ける。

「でも…、それもすべて、わたくしと離婚できたら、という仮定の上に成立するあなたの未来の希望ではなくって?あなたは今でもわたくしの夫です」

紫織の意図を読み取った真澄は、真澄は苦笑するように言う。

「なるほど、私の運命はあなたの手の中にある、と仰りたいのですね」

「あなただけではありません、あなたともう一人…。あなたの大切な方の運命も…」

紫織はゆっくりと真澄に近寄る。その細い指先を真澄の胸元に預け、縋る。

「紫織を抱いてくださいまし!それが離婚の条件です!」

青ざめた表情で真澄は紫織の手を自らの胸から外すと、幾分低い声で言う。

「ずるいですね、紫織さん。昨日とお話が違うではありませんか。この最後の3日間を夫婦として過ごすという事で、すでに離婚の方は同意済みではありませんか」

「約束をお破りになったのは、真澄さま、あなたの方です。これは、形だけとは言えこのたった3日間だけでも、誠実に私の夫で居る事をなさらなかったあなたへの罰です」

真澄の心にチクリと針のような傷みが走る。紫織の言っている事ももっともであった。最後の最後まで自分は紫織を裏切ってしまったのだ。誰かに誠実でいようとすれば、一方で誰かに不誠実でならなければいけない。そんな蟻地獄のような状態にはまり込んでしまったのも、もとはといえば自分がいけなかったのだ。すべては自分の優柔不断が…。そこまで、真澄は思うと、ゆっくりと口を開く。

「紫織さん、あなたの勝ちですよ。見事にはめられましたね。よろしい、あなたの離婚の条件を呑む事にしましょう」






ベーベル広場の隣に建つ、ドイツ国立歌劇場はドイツ3大オペラの一つに数えられ、世界トップクラスのオペラ座である。そこで毎年大晦日に行われる、ジルベスターパーティーはドイツ社交界の華であった。ジルベスターコンサートと称した午後7時からのコンサートでは、恒例の第9が超一流の大物歌手により演奏される。今年は引退と噂される指揮者バレンボイムの最後のベルリン公演という事で、発売と同時にチケットは売り切れていた。眩暈がするほど煌びやかなホールロビーを真澄は、紫織をエスコートしつつ、人ごみの中を泳いでいく。

(あと、もう一仕事だ…)

そう思いながら…。
コンサート終了後、オペラ座は一気に華やかな舞踏会会場と化す。この上なく華やかに着飾った紳士淑女が軽やかにワルツを踊る風景が、終わりのない映画のように延々と繰り返される。紫織に紹介され、幾人かのドイツ社交界の要人と上辺だけの挨拶を取り交わしながらも、真澄の関心はただ一点、時計の針にのみ向けられていた。


『明日が始まる時、新しい年が始まる時、君を迎えに行く』


自らの誓いを何度となく心の中で繰り返し、正確に時間を計算する。

(そろそろだな…)

時計の針が10時を少し回った頃、真澄はわざと吐息がかかるようにして、紫織の耳元に囁く。

「そろそろ、あなたを抱く時間がやって参りました」

てっきり、新年の瞬間はこのパーティーでのカウントダウンで迎えると思っていた紫織は訝しげな表情で真澄に問う。

「まだ、早いんではなくって?12時にもなっていませんし…」

焦る気持ちを押し隠し、真澄は余裕を装った声で言う。

「二人きりで迎える新年もまたいいのではありませんか?」

意味を理解したのか、紫織は頬を赤らめ、俯きながら真澄に従い、オペラ座を後にした。






ホテルのフロントで鍵を受け取った後、紫織は、思い出したように

「失礼」

と言って、フロントに戻ると自分宛てに届け物がないか、尋ねる。いまだ届けられていない事に少し怪訝な表情をするが、

(その『証拠品』がなくとも、自分はすでにここまで事を運んだのだ)

そう思い、何事もなかったかのように真澄の元へ戻る。自らの勝利を確信する笑顔を浮かべながら…。


すでにシャワーを浴びた紫織が横たわる寝室の扉の前で、真澄は声をかける。

「紫織さん、入りますよ。よろしいですか?」

「は、はい…」

恥らうような小さな紫織の返事を合図に、寝室の電気は消される。

剥ぎ取られる、絹の薄い下着。荒々しい男の息遣い。自らのうなじを這う、熱い口付け。そして、その逞しい腕に抱かれ、紫織はすでに恍惚の境地となる。いよいよ、長い間固く閉ざされていた自らの秘境の扉が開けられようとした、まさにその瞬間、室内に不自然な閃光が立て続けに光る。カメラのシャッター音が数回聞こえた後、室内の暗闇は一転して白い明るさへと移る。突然、隠すべき闇を失った紫織の白い裸体が、白々しい天井の明かりに晒される。そこへ、また閃光とシャッター音がその瞬間を切り取ると、紫織は気が動転したように叫ぶ。

「な、な、な!!これはどういう事ですか?!!」

真澄だと思っていた自らの上に圧し掛かる男が、まるで違う男である事に紫織は気が狂うほどのショックを受ける。ましてや、その男は自分が罠を仕掛けるにあたって、利用した男なのである。

「目には目を、罠には罠をですよ」

カメラを持った真澄は、可笑しそうに笑いながら答える。いまだに自分の側に纏わり付くその男の頬を紫織は引っぱたくと、汚らわしい獣から逃げるように、体にシーツを巻きつけ、壁際に寄る。
男はニヤニヤしながら立ち上がると、真澄からフィルムを抜かれたカメラ、そして金を受け取ると、

「悪く思わないでくださいね。罠を張るなら2重にも3重にも張るって事を知らなかったアンタがいけないんだ」

捨て台詞を吐いて、部屋を後にした。


紫織は悔しさと羞恥に耐え切れず涙を流す。こんな思いで流す涙は初めてだ。そんな紫織を見つめながら真澄は、静かに語りだす。

「あなたは僕と離婚する気など、さらさらなかった。違いますか?」

紫織の裸の肩がビクリと動く。

「あの写真をたてに僕と寝、さらに僕との情事の写真も盗撮させ、それをマヤに送りつけるつもりだったのでは?そして彼女に僕と別れる事を強要するつもりでしたね」

真澄は男から、今晩の写真も撮るように紫織が依頼していた事を聞き出していた。だからこそ、このような危険な賭けに出たのである。多少室内で二人以外の物音がしたところで紫織は訝しくは思わなかったであろう。

(美しい傷つかない別れ方なんて、ないのだ。どうせやるなら、とことんだ)

そう思い切ると、真澄は役者の仮面を被る面持ちで続ける。

「ところが残念ながら、このフィルムにあるのは、私とあなたの情事どころか、あなたと行きずりの得体の知れない男の情事の写真だ。そして、この写真は僕が持っている。ついでに言えば、あなたが盗撮させた私とマヤの写真も私の手の中にあります」

真澄はゆっくりと一度息を吐き、紫織を試すように言う。

「さて、どうしましょうか、紫織さん」

紫織は震えながら下唇を噛み、ヒステリーな叫び声を上げる。

「お、お、おじいさまに言いますわ!わたくしを、このわたくしをこんなに侮辱したあなたの事をおじいさまに言いますわよ!!」

「何を言うのですか?おかしな事をおっしゃいますね。証拠はすべてここにあるんですよ。貞淑な妻であるはずのあなたのこのような乱れた写真に、鷹宮会長はどう反応する事か…」

落ち着き払った声で真澄は言うと、2本のフィルムを意味深に手のひらで転がしながら、紫織にちらつかせる。

「もう!もう!充分ですわ!!今すぐ、ここを出てって下さいな!!あなたの顔なんて2度と見たくもない!!」

紫織はそう叫ぶと、左手の薬指から結婚指輪の抜き取ると、真澄の顔に向かって投げつけた。自らの頬に当たって、足元に落ちたそれを拾い上げ真澄は静かな声で終わりを告げる。

「今度こそゲームオーバーです、紫織さん」






長い間自分を苦しめていた全ての悪夢から開放されたというのに、真澄の心は疲れ、ささくれ立っていた。ホテルのバーで軽くウィスキーを飲みながら、喉元までこみ上げる何かを押し戻すように、茶色い液体を流し込んでいく。
紫織を傷つけてしまった事実はもはや、消せない。ならば、今度こそ大事なもの見失わないように、と今一度自らを奮い立たせる。

もう、これ以上誰も傷つけないように…。
これ以上、自分に嘘をつかないために…。






ブランデンブルグ門前は、すでにすさまじい人だかりだった。時刻は11時半を少し回った所である。道行く人々はすでに手持ちの花火に火をつけたり、シャンパンをラッパ飲みしながら新年への期待を胸に膨らませ、祭りの行列に身を委ねる。ブランデンブルグ門近辺は一斉に交通規制が布かれ、車両は完全に通行止めとなっていた。それでも溢れかえった人で、広場やあたりの道路は全く隙間がないほどに埋め尽くされている。

(マヤ、必ず君を見つけ出す…!!)

熱い想いを胸に秘め、真澄は人ごみに逆らうようにその流れをかき分け、約束の場所を目指す。






「よし、そろそろだな」

黒沼の声とともにスタッフに緊張が走る。マヤははめていた手袋を外すとスタッフの一人に渡す。みるみると手が寒さによって痺れ、感覚が失われていく。

「前にも言ったように、撮影許可は下りてないんでな、これはゲリラ撮影だ。まぁ、この混乱じゃ、捕まる事もないだろうが、こちらにどんな危害が加えられても文句は言えない。そのつもりで、各自、自分の行動には充分注意しろ」

すぐ側で爆竹の破裂する音に耳を劈かれ、マヤは思わず身震いする。

「大田のチームはそのまま、桜小路を追いかけてくれ。台詞はないからな、表情が勝負だ。一秒たりとも気を抜くな」

黒沼の目が厳しく光る。

「北島のほうは俺が追いかける。途中でカットはなしだ。カメラを常に意識しつつ、カメラを感じさせない演技だ、わかったな」

「はい」

(これが桐子でいる最後…)

もうすぐ自分の中で、一つの役が昇華される緊張と興奮、そしてかすかな喪失感。そういったものに捉えられ、否が応でもマヤの鼓動は速くなる。そして、

(速水さん、きっと私を見つけてくださいね)

もう一つの運命の予感にマヤは頬を紅潮させる。

新年まであと15分。打ち上がるフライングの花火の数はどんどん膨らみ、辺りは一発触発な緊張感が高まる。

「よし、行くぞ!!」

カメラが回りだす。

(桐子の運命!私の運命!!)

マヤは閉じていた目をゆっくりと開け、呼吸を始めたもう一人の自分とともに、人ごみの中へ飛び出していく。







1.2.2003


…to be continued








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