Bitter&Sweet Hot Chocolate



【一杯飲んで、もう一杯をシェアしよう】

 有名チョコレート店が展開するカフェの店先でマヤの足が止まる。大きな宣伝ポスターによると、今ならドリンクのホットチョコレートを一杯頼むと、もう一 杯レギュラーサイズがついてくる、すなわち一杯買えば二杯貰えるということだ。

 一杯七百円を優に超える、高級チョコレートを使用したショコリキサーと呼ばれるそのドリンクは、マヤにとってはコーヒーショップのカフェラテの値段をも 凌ぐ価格設定で、とても美味しいけれどめったに手が出るものではなかった。

(え、ってことは一杯三百五十円で飲めるってことだよね?)

 瞬時に計算して、辺りを見回す。ここは大都芸能が入るオフィスビルの一階だ。もしかしたら、桜小路や亜弓など、知った顔が通るかもしれない。誰かと一緒 にシェアすれば……、そんな考えが頭をよぎった瞬間、想定外のとんでもない人物と目が合う。

(嘘、なんでいるの?)

 想定外、は厳密に言えば嘘だ。ほんの一瞬、時間にして0.001秒ぐらい期待した。会社の目の前だし、偶然会えたりしないかなと。でもそんな都合のいい 事あるわけないと、瞬時に打ち消した。
 それなのに突如目の前に現れた存在にマヤは駆け寄ると、どこかに行ってしまわないように、思わずコートの袖の端を掴む。

「速水さん! 今、暇ですか? ちょっとだけお時間ありますか?」

 事務所の社長なのにとか、恥ずかしいとか、何をやっているのだ、といった常識は、半額ホットチョコレートの前に、消し飛んだ。

「一体どうしたチビちゃん」
 
 突然、街中で銃口を突きつけられたかのように、真澄は両手を上げて驚いたジェスチャーをする。

「半額になるんです、ホットチョコレートが。二人で飲めば半額になるんです。凄い美味しいんです。一緒に飲みません?」

 驚き呆れた真澄の表情が崩れて笑い出した瞬間、自分はとんでもない事をしでかしたのだと気づいたが、もう遅かった。流れるようなスマートさで真澄はタッ チ決済で二杯分のホットチョコレートの会計を済ませると、マヤの手にその温かな一杯を渡した。

「あ、半分払います」

「いい、いらない」

「それじゃ意味ないです。一杯買ったらもう一杯、だからお得なのに」

 ムキになって言い返していると、クスクスと真澄が笑い出す。

「事務所の社長が所属の女優から数百円徴収するほうがどうかしてるだろ。黙って奢られておけ、クリスマスだ」

 そう言って、乾杯の真似事のようにカップをそっとぶつけてきた。

「え? あ、今日クリスマスだったんですね」

「今更気づいたのか?」

 一口ホットチョコレートを飲んだ真澄が呆れたような顔をする。

「ずっと稽古場に籠もっていたから曜日感覚なくて……。勿論十二月だなぁとか、クリスマスだなぁぐらいは思ってましたけど、今日がクリスマスだって事は忘 れてました。さっきまで稽古してましたし、明日も、明後日も稽古だし」

 クリスマスになんの予定もない事を誤魔化すように、つい早口でそんな事を捲し立てる。そんな事、真澄には全然関係ない事なのに。

「速水さんは? なんの予定もないんですか?」

「今日は水曜日だし、普通に仕事だ」

「でも、もう仕事終わったんですよね?」

 腕時計は十八時を指している。オフィスビルから出てきた所からしても、通常業務は終わったと見てよさそうだ。


「この後の予定はないのかとでも言いたそうな顔だな。君は本当に酷い事を言うな。破談したばかりの男にクリスマスの予定なんかある訳ないだろ」

 真澄にとっては甘すぎるであろう手元のホットチョコレートを、やけになったよう一気に煽る。お酒でもあるまいし……。その様子をあっけにとられて見守っ た後、マヤは耐えかねて吹き出す。

「じゃぁ一緒だ」

 何がだとでも言うように、訝しげに真澄の表情が揺れる。

「予定ない同士、乾杯」

 そう言って、今度はマヤからカップを合わせた。











 十月の試演を経て、マヤは正式な紅天女の後継者となった。下馬評のほとんどが亜弓に傾いていた事を思えば、大どんでん返しのような結末だった。
 その後は一月の紅天女本公演へ向けて、一気に全ての事が動きだす。あらゆる事が燻っていた昔とは考えられないスピードで。
 ずっとそう決めていた通り、マヤは大都芸能に所属し、真澄の采配の元、女優活動を始めた。今は紅天女の本公演の事で手一杯だ。
 一方で真澄は試演の後、なぜか鷹宮家との破談を発表した。様々な憶測が流れたが、所属したばかりの新人女優の耳に真実の欠片が届く事はなく、自分は紅天 女本公演へ向けての稽古や準備で、瞬く間に時が過ぎていった。
 ただ、この人への恋心をずっと抱えたまま──。









「せっかくのクリスマスだ。少しだけ歩くか?」

 それは本当に偶然訪れたクリスマスプレゼントのようだった。
 ホットチョコレートを飲み干すまでの僅かな時間。冷めてしまわないよう、ゆっくりと少しずつ口にして、その甘さを味わう間だけ、真澄のそばにいられる。 クリスマスの夜に突然訪れた奇跡のような時間。

「あ、はい!」

 後で思い出せば、この瞬間、どれだけ上手に隠したつもりでも、真澄への恋心はきっと溢れてしまっていたとマヤは赤面しながら思い出す。そのぐらい全力 で、嬉しそうに、「はい!」と自分は答えてしまった。

「あと一週間ちょっとで紅天女の初日だなんて信じられないです」

 ずっと先だと思っていた夢の舞台がもうすぐそこまで近づいてきている。嬉しい気持ちと怖い気持ちが丁度半分ずつだ。

「毎日稽古だし、このまま年末もお正月もなさそう」

 一月二日が初日という事はきっとそういう事だ。愚痴ったように聞こえてしまったかもしれないが、でもそれは幸せな事だとちゃんと分かっている。紅天女に なれたからこそ訪れた多忙なる幸福だ。だからこそ、真澄の次の言葉は意外に響く。

「二月になったら休ませてやる」

「え?」

「君の誕生日だろ」

 驚いたあまり、間違ったタイミングで飲み込んでしまったホットチョコレートをマヤは喉に詰まらせる。

「クリスマスも年末年始も大都の為に働いてくれたご褒美をちゃんとやる。心配するな。大都芸能はそこまでブラックじゃない。働いた分、十分な給料も出る し、休みもある」

「あたし、そんな事心配してませんっ! 幸せなことだって、ちゃんと分かってます。紅天女になれるんですから、休みなんて──」

 思わず焦って大きな声を出してしまう。

「だが大事な事だ。こういった仕事は得てしてやりがい搾取に陥りやすい。君みたいな子は特に気をつけないといけない。演じる事が好きなのも、演じる事が人 生なのも素晴らしい事だが、仕事にする以上、権利と義務、その両方が生じる。俺の元で女優を続けるならその両方をしっかり守って欲しい。長く女優であるた めに」

 一瞬、途方に暮れそうになる。思った以上にこの人が自分の事を、大事に思ってくれているような気がして、どう答えたらいいか分からなくなる。もしかした ら自分で自分の事を考える以上に、この人は女優・北島マヤの事を考えてくれているのでは、と。でも、それはあくまで女優として大切にされているのだと、紅 天女だからこそ、ここまでして貰えるのだと、そう瞬時に思考が追いかけてくる程度には自分も大人になった。

 そろそろ手のひらのカップの中のホットチョコレートはなくなりそうだ。少しだけズルをする。まだなくなっていないふりをすれば、飲み干すまでの間、この 人の隣にいられるかもしれない。
 六本木の街はクリスマスイルミネーションに彩られ、道行くカップルは誰もがクリスマスの夜に高揚している。自分もこの風景の一部に溶け込んでいるだろう か。稽古帰りだし、おしゃれもしていない。いつものコートにいつものパンツ。クリスマスの装いとは程遠い。
 それでも、手のひらのカップと隣にいる真澄という存在が今日は特別な日だと主張する。

「綺麗ですね」

 青いイルミネーションを見上げてマヤは言う。
 
「そうだな。綺麗だ」

 イルミネーションではなく、その青い光を瞳の表面に揺らすマヤの横顔を見つめながら真澄は答える。

「ご褒美……、さっき言ってたご褒美、誕生日の日に貰ってもいいですか?」

 特別な意味などない、唐突な思いつきに聞こえるような軽さでそう口にする。そう言えば、誕生日の日を一緒に過ごせるかもしれないという安直な自分の願い など真澄に気づかれないように。

「ああ、構わない」

 ためらいもなく優しく、丁度よい穏やかさで響く真澄の返事にマヤは安堵する。未来の小さなささやかな約束を一つ、クリスマスの夜に貰う。

「その代わり、俺の願いも一つ聞いてもらう」

「え? 高いものとか無理ですよ」

 驚いてマヤは高い声を上げる。

「大丈夫だ。君しか用意できないものだ」

「なんだろう? えー、気になるから今教えて下さいよ」

「ダメだ。紅天女の幕が無事下りたら伝える」

 もう飲み終えてしまったのだろう。カップを事もなげに潰して、真澄はハッキリとそう答える。

「今じゃなくて?」

「今じゃなくて」

 そう言い切られると、もうどれだけ粘ってもきっと答は教えて貰えないだろう。更に言い募る代わりにマヤも一つ小さな、けれどもとても大きな決意を伝え る。

「私も速水さんに伝えたい事あります。紅天女の舞台が無事に終わったら伝えますね」

「気になるな、今じゃダメなのか?」

「ダメです」

 先程のやり取りの繰り返しに二人は思わず笑い合う。

「願掛けしてるんです。舞台が上手くいったら、きっと上手く伝えられるんじゃないかなって。それこそご褒美みたいなものです。上手くいったら伝えられるっ て──」

「上手くいかなかったら?」

 ビル風に煽られ、真澄の前髪が揺れる。

「……一生伝えません」

「なんだそれは」

 前髪をクシャリと掻き上げた真澄が苦笑する。

「でも大丈夫だな。上手くいく、俺が保証する。大都芸能の速水真澄が言うんだから間違いない」

「ふふ、心強いような、怖いような」

 そう言ってマヤも笑った。

 真澄がそっと手を伸ばす。空になったカップを寄越せという意味だ。もう空になってしまったカップではこれ以上真澄を引き止める事もできない。手渡した カップを真澄がゴミ箱に捨てると、もう自分にとってのクリスマスの時間は終わってしまう。

「君なら二杯飲めただろ」

 邪な気持ちを見透かされたように真澄にそう言われる。

「分かってないですね! こういうのは半分こするから美味しいんですよ。一人で二杯飲んだって美味しくないし、楽しくないじゃないですか」

「俺と半分こでよかったのか?」
 
 どう答えたらいいのか分からず、一瞬息を呑んでしまう。

「君は俺の事が嫌いだろ?」

 まだそんな事を言うのか。
 いや違う、言わせてしまうのか。
 
 取り返しがつかないほどに積み重ねてしまった過去が胸を苦しくさせる。解けないほどにきつく結んでしまった糸を前に、呆然とするように。

「クリスマスですから」

 そう言って、マヤは笑った。できるだけ、無邪気で無頓着な子供の一言に聞こえるように……。




 



 


2024 . 12 . 31








Epilogueへ続く















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