第3話








 

 当日誘われて、いきなり連れて来られたにしては、まるで古城のような立派過ぎるフレンチレストランの門構えにマヤは怯む。

「え、ここって、予約取るのも大変なレストランですよね」

 看板の名前に見覚えのあるその三つ星レストランは半年先まで予約は取れないと噂で聞いた事がある。いくら真澄と言えども、予約なしで入るのは……と心配したが、

「予約してあるから大丈夫だ」

何でもないふうにしれっとそう言われ、本当に自分はする必要のない心配ばかりしていると嫌になる。真澄ほどの男がそもそもそんな門前払いを食らうような真似をする訳がないのだ。

 ここまで来たらもう抵抗は諦めた。今日に限ってどうでもいい古びたジャージではなく、シンプルな黒いニットに黒のパンツという当たり障りのない格好をしていた奇跡に、マヤはただただ安堵するばかりだった。











 言われるままに乾杯のアペリティフのグラスを合わせる。オーダーは全て真澄に任せたが、美しい細いグラスの中で金色の細かな泡を立ち上げるシャンパンは とんでもなく口当たりがいい。びっくりしてグラスの中を覗いてしまう。車で来ているからと真澄が誕生日の夜だというのに飲めないのは少し気の毒だとマヤは 思う。

「相変わらずいい飲みっぷりだな。君は相当酒が好きなようだが、強い訳ではないからたちが悪い」

 食前酒一杯でもうお説教が始まった。

「せっかくのスーパー美味しいお酒が不味くなるので、初手からお説教はやめて下さい」

「それもそうだな」

 めずらしく真澄はその一言で引き下がると、長い睫毛を伏せてグラスに唇を寄せた。レストランの間接照明が、その美しい輪郭を浮かび上がらせる。恐ろしいほどにシャンパングラスが似合う。こういうグラスを持って生まれてきたのではないのだろうかと思うほどに。

「俺の顔に何かついてるか?」

 無遠慮なマヤの視線を感じたのか、真澄が試すように言う。

「似合いますね。速水さんって、ほんっとそういうのが」

 意味が分からないとでも言うように、真澄が僅かに首を傾け、眉間に小さな皺を寄せる。

「なんか、そういうシャンパングラスとか持ったまま生まれてきてそう」

「そんな訳あるか」

 吹き出すようにして真澄が笑った。

「そもそもなんですけど、速水さん私に怒ってばっかりですけど、速水さんこそどうなんですか?」

 またもや真澄が怪訝そうに首を傾ける。全く身に覚えがないとでも言うように。

「結構いろんな噂聞きますよ。速水さんは芸能人じゃないから、そんなに撮られる危険とか感じてないのかもしれないけれど、業界の人はいっぱい速水さんの話してます」

「どんな話を?」

 少しだけ不快感を滲ませた様子で真澄が視線を動かす。

「女優さんとか、タレントさんとか、綺麗な人といっぱいデートしてるとか……。最近だと、あの有名な二世タレントの人に迫られてるとか」

 一瞬、空気が凍りついたような間ができる。地雷を踏んだような気もしたが構わない。自分ばかりが怒られるのはどう考えてもおかしい。真澄も同じような事をしているのだから。

「別に独身だし問題ない」

「私だって独身です」

 確実に神経に触る言い方をされたので、マヤは即座に剛速球を投げ返す。脳裏でストライク、と審判員が叫ぶ。

「君は女優で俺はただの社長だ」

「ただの、じゃないですけど」

 所属のタレントや俳優の誰よりも秀でた容姿をして、世間の注目を浴びておきながら、平気でそんな事を言う神経が信じられないとマヤは思う。自分の注目度 というのを全く分かっていない。ただでさえ、あの鷹宮紫織ほどの令嬢との破談劇で世間の関心を集めたばかりだというのに。

「百歩譲って、速水さんが芸能人ではなくただの一般人の社長さんだったとしても、相手が女優さんとかタレントさんだったら、撮られるんじゃないですか? その時は速水さんの目に黒線って入るんですかね? 公人扱いで入らないんじゃないですか?」

 面白い、とでも言うようにそこで真澄が笑った。不敵とも言える笑みで。

「そうかもな……」

 その意味深な笑みをマヤはこの時、妙に怖いと思った。なぜだかは分からないが、この男は本当に自分の手には負えない男だと漠然と思ったのだ。

 当たり障りないやりとりと核心に触れそうで触れない会話を繰り返して、真澄の誕生日の夜はそうして更けていった。
 
 本当に好きな人との食事はとても楽しいはずなのに、言えない想いを抱えたまま、皿だけが次々と運び込まれると、不意に思い知らされる瞬間がくる。隣で真 澄が笑うたびに、それでもこの人は決して自分のものにはならないのだと。今この一瞬一瞬が楽しければ楽しいほど、一人マンションに帰った後、途方もない虚 しさと切なさが襲ってくると知りながら、最後のデザートの赤いベリーソースに至るまで何一つ残さず、マヤは平らげてみせた。











「トランクにある荷物を出して貰えるか?」

 背後から近づいて、いきなりそんな声を掛けたので、驚いたように里美の肩がビクリと震えた。マヤとの食事を終え、自宅まで送り届けた後、約束通り、里美の車のトランクに残した荷物をこうして取りにきた。

 自宅であるマンションの地下駐車場で待ち伏せを食らうというのは、先程、車からマヤを引きずり降ろした経緯も含めて、相当気に食わない事態であろうことは、その無遠慮にこちらを睨みつける表情からも手に取るように分かる。

「君は爽やかが売りだったんじゃないのか?」

 挑発すると、ハッと吐き捨てるように里美が笑う。

「ご心配なく。仕事ではちゃんと爽やかでいますから」

 こんな深夜まで自身の帰宅を待ち伏せていた真澄に対して、ご苦労さまとでも言うような視線で上から下まで眺めると、諦めたように里美はトランクへと向かう。

「随分過保護なんですね」

「やっと手に入れた大事な商品なんでね。傷がつかないよう、それなりに気を遣っている」

「商品か……。速水社長、それ事あるごとに口にしていますけど、どれぐらいの人がそれ信じているんでしょうね? もっとも当の本人が一番そう思い込んでいるみたいですけれど」

 取り出した荷物を真澄の前に出すと、挑発的な視線で続ける。

「自分はただの商品だから。大事にされているって体で管理されてるだけだって、いつも言ってますよ、マヤちゃん」

「本人に自覚があるなら何よりだ」

 そう言って、目の前に出された荷物を真澄が無造作に受け取ろうとしたが、里美はそこから手を離さなかった。途端に二人の間に置かれた荷物が鉛のような重さを持つ。

「大事にするならいいんですか?」

「馬鹿を言うな。君だってスキャンダルは望まないはずだ」

 真澄が強く荷物を引くがビクとも動かない。

「真剣交際なら何も問題ないはずですが。僕らは恋愛禁止のアイドルじゃありませんよ、もう……。何より僕たちは、今はあの頃みたいに何も出来ない無力な子供じゃない。言う事をただ聞かなければいけない子供でもない」

 里美の手が離れ、真澄の元へと荷物が渡る。

「わざわざお手数おかけしました」

 そう言って里美は頭を下げると、マンションのエントランスへと向かっていった。










 里美から受け取った荷物を片手に、近くに停めた車へと向かう。
 先程のマヤとの食事のやりとりを思い出す。誕生日を理由に随分強引に誘ったものだと、今更苦笑がこみ上げる。

「必死だな」

 口に出してみる。確かに必死だった。同じように、滑稽だ、とも思う。十一も年下の若い女優。恋愛感情はひた隠しにしているが、バレていないのが奇跡とし か思えない。自分の周りを執拗に見張られれば、誰を見ているのか、誰に執着しているのか、一目瞭然のはずだ。現にあの若造、里美茂ごときにも普通ではない ことはバレている。

 北島マヤが紅天女の後継者となってまだ一年。女優としてのキャリアが安定したとは言い難い。ここ数年が勝負だ。

 そして真澄自身も、一年前に鷹宮家と破談になり、全ての責任を負わされた身だ。軽率に所属の若い女優に手を出したなどと取り沙汰されては、マヤにも迷惑でしかないだろう。

 今はまだ、その時ではない─。

 それが真澄の出した結論だ。
 今宵も何度も想いを告げたい瞬間が確かにあった。その全てを味のしない偽のシャンパンで、喉元から体内へと押し戻した。



 無性にタバコが吸いたくなる。この心に押し寄せる、今すぐどうにかしたくても決してどうする事も出来ない、やり場のない想いを灰にして、自分の体から出してしまいたくなる。

 気づけば車を会社へ向けて走らせていた。冷静になろうとする脳は、あの非常階段のどこにも属さない冷たい外気を求めていた。

 こんな時間、勿論、誰一人いない非常階段に真澄は一人立つ。闇夜の宙に浮かぶスチール製の階段の踊り場で、真澄はタバコに火をつける。

 夜陰に放つように、ゆっくりと紫煙を吐くとさざ波のようにうるさく動いていた己の気持ちが少しだけ落ち着いた。そうやってほんの僅かでも、自分の気持ちを灰にして殺さなければ、いつかこの想いは溢れてしまうだろうと真澄は思う。


 最上階にある社長室という自分を縛り付ける檻と、愛する女が自由に駆けていく地上を結ぶ非常階段。

 非常階段には必ず、自力で地上に降り立つ為に地面と繋がってなければいけないという決まりがあるらしい。

 この場所から自分も本当は全てを投げ捨て、駆け下りてしまいたい。あの背中を追いかけて。

 叶わぬ衝動を己の拳の中で握り潰しながら、誕生日の夜は世界中の誰にも知られず、その場所で静かに更けていった。


 今はまだ、その時ではない──。

 




 



 


2025 . 11 . 13








FIN




  ※こちらのお話は同人誌「螺旋階段」へと続きます。
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