第2話





「ばっかみたい」

 心の中でついたつもりの悪態が実際に口をついて出ていた。気にせずマヤはスチール製の非常階段を、カンカンと硬質な音を立てて下りていく。今日はスニー カーではなく、買ったばかりのヒールのあるブーツを履いてきた。もしかしたら真澄に会えるかもしれないと思ったからこそだ。五センチのヒールの背伸びも虚 しく、また真澄には「チビちゃん」と言って、しっかりからかわれたけれど。
 
 先程、まさにこの場所で「キスでもして欲しいのか」と言って笑いながら真澄が顔を近づけてきた事を思い出して、瞬時に頬が熱くなる。きっと紅くもなっているはずだ。

「悔しい……」

 今度は下唇を少し噛んで、呟くように言った。
 
 紅天女になった。大都芸能にも所属した。だからって、それがなんだというのだ。あの人の物にでもなったつもりだったのか。

 心配ばかりされている。誰かと食事に行く度に怒られて、そんな訳ないのに、熱愛やら交際やらを疑われてお説教を食らう。そんな事、ある訳ないのに。

 自分はもうずっと真澄しか好きじゃない。真澄しか見ていない。真澄以外なんて考えた事もない。

「ばっかみたい」

 地上に辿り着く直前、もう一度大きな声を出した。
 そんな事にも全く気づかず、いらぬ心配ばかりして、あれで芸能界一の凄腕社長とかどうかしている。鈍いにも程がある。本当にあの人は一体何なんだ、と。

 一方で「ばかみたい」なのは、自分もだ。こんなに好きだというのに、それを少しも真澄に対して表せた事がない。平気で全然好きでも何でもないふりをして しまう。本当は食事に誘われる事だって、ああやって社長室に呼び出される事だって、飛び上がるほど嬉しいのに、嬉しさを隠そうとするあまりに、とんでもな く無愛想になったり、嫌な顔をしている。きっと凄く感じが悪いだろうし、この態度の悪さには真澄も心底呆れているに違いない。

 非常階段の最後の一段から足が離れ、コンクリートの地上へと降り立つ。体からホッとした息が吐き出される。
 元々、エレベーターは苦手だ。幼い頃に閉じ込められたトラウマもあって、自分の力が働かなくなる空間という存在に、どこか小さな恐れがある。時間が掛 かっても、階段であればいつか自分の足でたどり着けるという安心感がある。大都芸能が巨大な大都グループ本社ビルの中にあった時は、超高層ビルの為、使え る非常階段などなく、仕方なく毎回エレベーターに運ばれていた。あの、胃がぎゅっとなる、この世のどこにも属していないような浮遊感。苦手だ。

 地に足がつくとはよく言ったもので、自分が居るべき場所へと戻って来られた安堵感からか、足取りが軽くなる。
 真澄に会った、というほんの一瞬の現実逃避と高揚感を胸に、マヤは次の稽古場という現実の世界へと駆けていった。









 事件は翌週、またすぐ起こった。

 稽古終わり、今度の舞台の共演者である里美が、あまりの荷物の多さを心配して車で送ってくれると申し出てくれた。参考にと渡された映像資料の山と台本 を、欲張って一度で持って帰ろうとしたら、その重さに耐えかねた紙袋の持ち手が切れてしまい、呆然としていたところに通りがかった里美が声を掛けてくれた のだ。
 あんなふうに別れた人との再会は、意外にあっけなく済んだ。

「マヤちゃん、久しぶり」

 数年前と変わらぬ爽やかな笑顔はそのままに、少し、いや、だいぶ大人びたその人は、とてもスマートに何事もなかったかのうように接してくれたので、自分も同じように接する事が出来た。もっとどこか気まずい空気が流れたり、

「あの時はごめんね」

と謝る必要もないのに、お互いの若さと無力さを詫びるところから始めなければいけないのではと思っていたマヤにとって、その自然さはとてもありがたかった。何より自分と再度共演する事を受け入れてくれた事も、どこか心の棘が抜ける思いがした。

 もっとも二人きりで食事に誘われたりしていたら、それは断っていたと思う。あれだけ真澄に怒られた後だし、他の共演者ともしばらくは一応控えている。撮られる写真も、撮られた写真も、ここ数日はないはずだ。
 だがこの不測の事態は致し方ない。里美だって稽古が終わって、すぐに帰りたいだろうに送ってくれるなんて、なんていい人なのだろう、としか思わなかった。

 後から気づいた事だが真澄にしてみれば、そこからしてどうやら自分は間違っていたらしい。


 里美に言われるがまま、大量の資料集が入った持ち手の切れた紙袋をトランクに入れる。里美が開けてくれた助手席の扉から乗り込もうとしたその瞬間、強く腕を引っ張られ、後ろに倒れそうになった。

「悪いがその車には乗せられないな」

 そう言って、マヤを強く引き寄せ、真澄の体の後ろへ隠すように引き離す。そのまま車のルーフ部分に手をついて運転席を覗き込むと、

「北島はこの後打ち合わせだ。申し訳ないが今すぐこのまま帰ってくれ。後ろも詰まってる。早く出ろ」

そう言って、凄い勢いで助手席のドアを閉めた。指でも挟んだら切り落とされそうな勢いで。

「ちょ、ちょっと─」

 慌てて里美の車を引き留めようとしたが、駐車場の出入り口付近での立ち往生はさすがにまずいと思ったのが、車はそのまま走り出してしまった。呆然と見送っていると、真澄の冷ややかな声が背中に刺さる。

「車に乗るとか馬鹿なのか?」

「荷物が凄い重かったんです!」

 振り向きざまにマヤも負けじと叫ぶ。

「今日大量に資料集とか貰って、紙袋の持ち手は切れちゃうし、凄い困ってたら、里美君が親切心で送ってくれるって言ってくれたのに、それを─」

 睨みつけてはみたが、だからどうしたとでも言うような呆れた顔で真澄がこちらを見ている。

「もう! トランクに荷物入ったままじゃないですか! どうしてくれるんですかっ?」

「あとで俺が取り返して君の家まで届ける。それで問題ないだろ」

 何も悪びれる様子もなく開き直ったようにそう言われ、マヤは絶句する。根本的に思考回路の何もかもが大都芸能の若社長と自分は違うようだ。全く理解できない。

「今度は元恋人の車に乗り込む北島マヤをパパラッチされる事に比べたら、あいつの家まで荷物を取りに行って、迷惑かけて申し訳なかったとでも頭を下げるほ うが百倍マシだ。いいか、車は言い訳が出来ない。食事よりたちが悪い。密室で二人きり。しかも行き先が君の家で、あいつが部屋まで荷物を運んでみろ。その まま朝まで出てこなかったと書かれるのがオチだ。たとえ何もなかったとしてもだ」

 そこまで真澄に一気に畳み掛けられ、ようやくマヤは自分の足りなかった部分に気づく。それは浅い思慮なのか、至らなさなのか、問題意識の希薄さなのか、あるいはそれら全部なのか。

「……すみませんでした」

 消え入りそうな声で、そう絞り出す。

「乗れ」

 そう言われて、驚いて顔をあげる。真澄の車がすぐそばに駐めてある。

「え?」

 そのまま動けずにいると、無理やり助手席に座らされた。

「さっき車に乗るなって言ったのに」

「だから俺はいいんだ」

 例の謎理論に反論したくなるが、すぐに真澄の答が予想できて、マヤは口をつぐむ。

「君が俺といたところで、俺の車に乗ったところで、それは事務所の社長が所属の女優を送っただけの話で、ただの仕事の延長だ」

 思った通りの事を真澄は寸分違わず口にした。
 悔しさと恥ずかしさから喉がつまり、何の言葉も出てこなくなる。マヤは黙って車窓の景色が流れていく様子を、運転席から顔を背けて漠然と眺めていた。

「里美茂……、あいつはやめておけ」

 沈黙を破った真澄の声が告げる内容に驚いて、マヤは振り返る。

「それ、どういう意味─」

「あいつの場合はシャレにならない。一度は本気で君を好きになった男だ。世間もそのリアリティを嫌でも感じ取る」

 何を言い出すのか、と呆れて真澄の顔をまじまじと見たが、どうやらいたって本気で言っているようだった。

「里美君、凄くかっこよくなりましたよね。爽やかなのはそのままに、大人っぽくなったっていうか。周りの皆も素敵って言うの分かる」

 マヤにしてみれば他意はなく、再会した感想をそのままに述べる。

「あれは昔の話です。今は違います」

 そう言い切る。それは本当の事だ。里美にしても、自分自身にしても。

「どうだか……」

 左折する為にハンドルを切りながら、真澄が不服そうに呟く。

「男はしつこい生き物だからな。諦めても、諦めても、懲りずに何度も同じ女を好きになるヤツは一定数いる」

 妙な説得力を持って、そう言い切った。

「君は一人で食事が出来ないタイプなのか?」

 突然、あさっての方向から聞こえてきたその質問に驚いて、マヤが真澄を見つめ返す。質問の意味が分からないとでも言うように。

「毎回毎回、違う男と写真を撮られ、最初はさぞ美味い店か高級料理でも口実に連れ出されているのかと思ったが、この間の年下の俳優はただの定食屋だった じゃないか。あんな店でもついて行くという事は、よっぽど一人で食事がしたくない、あるいは出来ないタイプの人間なのかと」

「え、私、ラーメン屋とか一人で行きますよ。普通に」

 とんでもない推察に驚いて黙り込んでしまうところだったが、とりあえず誤解だけは解かなければと、マヤはそう口にした。

「まぁ、確かにそんなに一人で食事するのは好きではないです。つきかげの皆と暮らしていた時からずっと、食事は誰かとするものだったから。一人で食べるぐ らいだったら、お弁当買って帰って家で食べます。でもだからと言って、一人で食べたくないからって男の人を誘ってご飯に連れて行って貰うなんて、考えた事 もないです」

 納得したのかしないのか、真澄は指先で規則的にハンドルを叩きながら何かを思案しているようだった。指先がレザーハンドルを叩く音だけが車内に響く。

「食事はお腹が空いたから行くだけです。その時、誰かが誘ってくれたら、じゃぁって行くだけです。それ以上でもそれ以下でもないです」

「相手が誰であっても?」

 一瞬、その質問に答える事に躊躇する。目には見えないけれど、狡猾な罠が仕掛けられている気配を察するような間ができた。

「誰々さんだから行くとか、行かないとかはないです。その時一緒にいた人と行くだけです」

「誰でもいいんだな」

 念を押され、ますます嫌な予感がする。ずっと主張してきた事を曲げる訳に行かず、マヤはコクリと頷く。

「これから食事に行く」

 こちらの意思を伺う訳でもなく、誘う訳でもなく、決定事項のように一方的にそう告げられる。

「腹が減ってないは通用しない。さっきから、隣で鳴ってるそれは君のお腹だろ」

 そう言われているそばから本当にお腹が鳴ってしまい、マヤは慌ててお腹を両腕で隠すようにして、真っ赤になって体を折り曲げる。お腹が空いていたら行く という単純な理由を食事の動機にしているということは、お腹が空いてなければ行かないということだ。その言い訳の退路を予め真澄は断ってきたのだ。

「誰でもいいなら、俺だっていいはずだ」

「速水さんはダメ」

 思わずそう言い返してしまう。そう真澄だけはダメなのだ。本当に好きな相手との食事はダメなのだ。だって気持ちがもう溢れる寸前まで来ているのだから。 次に一緒に食事なぞしようものなら、もう隠していられないかもしれない。そんな事になったら本当に困った事になるというのに。

「速水さんだけはダメ」

 もう一度、そう言葉にする。

「随分嫌われたな」

 呆れたように深い溜息を吐かれる。信号が青に変わるまでの沈黙。いつの間にか降り出した雨を蹴散らすワイパーの音だけが車内に響いている。

「今日ぐらい言う事を聞け」

 怖いぐらい美しい横顔がそう告げる。

「何でですか?」

 震える声でマヤは問う。まるで次の瞬間、地獄の扉でも開いてしまうのではないかと緊張する。

「誕生日だからだ」

「え?」

 真澄の想定外のその答に、マヤは思わず間の抜けた声をあげる。

「今日は俺の誕生日なんだ」

「お、おめでとうございます」

 平静を装おうとして、変なふうに声が掠れた。

「ありがとう。これで言うことを聞く気になったか?」

 そう言って、まるで楽しい冗談でも言ったかのように真澄がこちらに向かって笑いかける。

「俺も誕生日の夜には一人で食事はしたくない。君なら分かってくれるな?」

 絶対に逆らえない立場である事務所の社長に笑顔でそう言われて、断れる人間はいないだろう。断れそうな言い訳は、すでに用意周到に事前に真澄に全て潰さ れてしまっている。それに本当の事を言えば、一緒にいたいのだ。この人と一緒に食事をして、他愛もない会話を重ね、一緒の時を過ごしたい。それが真澄の誕 生日の夜だったら、願ってもいない奇跡だ。ただ、準備が全く出来ていなかっただけで……。

「お腹空いてるので行きます」

 観念したように、マヤはぼそりと助手席からそう告げた。




 



 


2025 . 11 . 12








…to be continued















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