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| 第二話
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”マヤちゃん、おはよう! この間話した、お祝の食事の件だけど、今度の土曜日でどうかな? クルーゼ船でディナーなんて、お祝にぴったりだと思うよ” 続いて記されている店のURLを見ることなく、マヤは深いため息とともに携帯を閉じる。 疲れる。 たった一通の携帯メール、それもなんら他愛もないものだというのに、物凄く疲れる。 ――説明しないとわからない人には、説明してもわからない。 結局はそういうことだ。 ”ありがとう。楽しみにしてるね” それだけ打つと、マヤは更に深いため息をもう一度ついた。そう言うしかない自分に対して。 どうしたら桜小路が納得してくれるのか、もはや自分には全く分からなくなっていた。 そうしてマヤはその週の土曜までの時間を、鬱々と過ごすことになる。今度はこういうふうに伝えてみよう、こういう例え話で切り出してみよう、いくつもの解決策を浮かべてみるが、 ――説明しないとわからない人には、説明してもわからない。 その言葉がすべてを砂に戻す。 桜小路の言った『友達として』というその言葉はまるで鈍い棘のようにマヤの体に刺さったままだ。棘はやがてゆっくりと肉に取り込まれ、そして体内に滞留する。確実な異物として。 ――説明しないとわからない人には、説明してもわらかない。 その通りだ。 深いため息をつくことしか、やはりマヤには出来なかった。 ![]() 『紅天女がこの世にいると俺に信じさせてくれ』 そう言ったのは、確かに自分だった。 その言葉に対して見事にあの少女は舞台の上で応えた。 そこにいたのは紛れもなく、一人の本物の紅天女。 暗闇の中、塵が金色の粉となって舞う舞台に現れたマヤの姿を、真澄は眼を瞑れば、今もまぶたの裏側に鮮明に思い出すことができた。 『紅天女がこの世にいると俺に信じさせてくれ』 その言葉は真澄にとって一つの賭けだった。もしも自分が、この現代には存在しないはずの紅天女の存在を信じることができたら、それをこの少女が成し遂げた時は、自分も心を一つに決める、と。 覚悟を決めて携帯を鳴らす。 「もしもし紫織さん、僕です。夜分に申し訳ありません。来週末のお約束ですが、申し訳ありません……、先にお話しなければいけないことができました。出来るだけ早く、あなたにお会いしたいのですが」 電話の向こう、表情は見えないはずだが、瞬時に詰まった息使いから紫織の表情が強張ったのが容易に想像できた。 「明日ですか?」 紫織からの思いがけない急な曜日の提案に、瞬時に脳内のカレンダーをめくる。夜は大丈夫のはずだ。 「分かりました、それでは明日、場所は……」 そこで少しだけ思案する、別れ話を切り出す場所としていったいどこがふさわしい場所なのか、見当もつかない。沈黙から何かを感じ取ったのか、来週末行くはずだったクルーズ船がよいと、紫織が言い放った。躊躇わなかったといったら嘘になるが、他にいい案があるわけでもなく、舞台はどこであれ彼女を傷つけることに相違はない。 分かりましたと、真澄は事務的に答えると携帯を切った。 自分は今、とんでもないことをしようとしている。 いきなり何を言い出すんだと、誰もが自分を馬鹿だと笑うだろう。 一人の女のたかだか一芝居で、人生を狂わされようとしている。義父・英介も同じように紅天女に人生を狂わされた。血は繋がっていないはずなのに、そんなところは似てしまったということか。 あの日、あの部屋で紅天女を見てしまった時から、もしかしたらこうなることは最初から決まっていたのかもしれない。 自分は紅天女のために、全てを手に入れ、そして紅天女のために今、全てを失う。 構わない。 鼻からわずかに息を吐くと目を伏せ、自嘲的に笑った。 ただの一人の女じゃない。 北島マヤだ。 自分が愛した唯一の女だ。 ただの一芝居じゃない。 紅天女だ。 自分が一生を賭けてでも手に入れたかった舞台だ。 拳を強く握る。 鬱血した手の甲に歯を立てた。 ![]() 梅雨明けが告知されて最初土曜の夜の日の出桟橋は、賑わいを見せていた。時節柄、こうした東京湾クルーズは今が一番人気がある。 約束の出発時刻よりだいぶ早く着いてしまったが、夜の海は嫌いではない。風にあたるのも悪くないと、真澄はそのまま乗船した。 予約した個室の部屋に入ると、真澄は硬直する。はたして約束の相手も、同じく約束の時刻よりも40分も早くそこにいた。 「真澄様から早く会いたいだなんて、お珍しいですわね」 席に掛けたままそう言葉を発する白いワンピースの紫織のその笑みは、一見すると屈託のない微笑みに見えたが、目が笑ってないことに真澄はすぐに気付く。 「それから真澄様が約束のお時間より、こんなに早く到着されるのもお珍しいですわね」 嫌味であることは明らかだった。いつも待たせていた非礼を詫びようと口を開こうとした瞬間、遮るように紫織は言葉を放つ。 「ということはよっぽど大事なお話があるということですわよね」 挑むような視線。その視線に対等に対比できる言葉はたった一つしかない。もっと違う形で切り出すつもりだったが、結局のところどれだけ丁寧に言ってみたところで、それは回りくどく相手を傷つけるだけであることを真澄は悟る。 3歩だけ紫織のいるテーブルへ近づくと、真澄は立ったまま言うべき言葉を、まっすぐに放った。 「紫織さん、あなたとは結婚できません。他に心から愛している人がいます」 予想通りの沈黙。冷えきった、全てが凍りついて、取り返しのつかない状態に一瞬にして陥ったことを証明するような沈黙。 予想外だったのは、表情をひとつも変えずに紫織が放った次の言葉だった。 「知っていました」 無表情のまま、紫織は繰り返す。 「そんなこと、とっくに知っていました」 予想外の紫織の言葉に、真澄は少なからずうろたえる。泣くか叫ぶか罵られるか、そのどれかだと勝手に想定していた。 「愛する人のことだから、その方が誰を思っているのかぐらい、女なら分かります」 不思議とその声に棘はなかった。無表情というよりも、放心しているのだと真澄は気付く。 「あなたが私を愛していなくても、他の方を愛していても、それでも構わない、あなたさえいてくだされば構わないと思っていました。 結婚さえすれば、いつかはそんなあなたに愛される日が来るとも思ってました」 再びの沈黙。けれどもその沈黙は、言葉を失ったことによる沈黙ではなく、次の言葉を待つための沈黙であることが容易に伝わり、真澄は黙って紫織を見つめながら続きを待つ。 「だけどあんな紅天女を見たら、もう無理です。無償の愛だなんて……。あなたは私と結婚したところであの子だけを見続けるでしょう。例え死んだって、あの子のことを愛し続けるでしょう。そんな……、そんな方と心を一度も通わせないままに一生を添い遂げるなんて、そんな絶望的な結婚、私にはできません!」 最後には興奮が混じり、幾分強い口調となり、紫織の息が乱れた。 けれどもそこが紫織の臨界点だった。大きく上下していた紫織の胸の動きが、次第に治まっていく。 「紫織さん、あなたには本当に申し訳ないことをした。罪のないあなたを僕は傷つけ――」 「いいんです。あなたになら傷つけられて本望です。私を傷つけた方なんて、私の人生で他にありませんでしたから」 剥ぎあわされたような悲痛な笑みが紫織の顔を覆う。 「それだけでも幸せだったと思えます。だって、本当に私、愛しておりましたから……」 それ以上は言葉にならず、紫織は俯く。数秒後、思いきったように立ち上がると、まっすぐに真澄の目の前に進む。 「真澄様、あなたには幸せになる義務があります。すべてを失ってまで手に入れたかったものが、どれほどのものか世界に証明する義務があります」 静かに強い言葉だった。 「さようなら、お元気で」 そのまま紫織は真澄の横を通り抜けると、足早に出口へと向かう。すれ違いざまに紫織の目から涙がこぼれおちたのがわかった。 咄嗟に呼び止めようと体が振り向く。けれどもこれ以上何を言ったところで、悪戯に紫織を傷つけるだけなのは明白だった。真澄はただ黙って拳を強く握ったまま、不用意な間違った優しさを投げかけようとする自分を強く叱責し、耳の奥で扉が閉まる音が響くのを聞いた。 あっけない幕切れ。 嘘のような幕切れ。 けれども、それが答えだった。 答えはいつも、シンプルにそこにあったのだ。 何もかも複雑にしていたのは他ならぬ自分で、望んでいたことはいつだってたった一つ。 そのたった一つを自分は求めなければいけない。 誰よりも強く。 誰よりも正直に。 扉を開けて外に出る。潮の香りが体を包む。 やはり夜の海は嫌いじゃない。 ゆっくりとデッキを歩き、夜風を体に受けながら出口へと向かう。 その時、自分が求めるたった一つの存在が、唐突に視界に入る。都合のいい幻覚かと思うほどのタイミングで。 同じように自分の存在を視界に認めたマヤの表情がみるみる紅潮し、それが幻覚ではないことを証明する。 夜の海風が二人を煽る。 まるで本当の気持ちが剥き出しになるまで、容赦なく煽り続ける神の風であるかのごとく。 07.2009 ![]() |
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