| 紫の行方 1
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瞳を閉じるだけで、瞼の裏側にはあの時、舞台の上で見えたすべてのものが再生され、全身にはあの日感じた霊気が粟を立てて蘇る。 麻酔の解けない体のように、あちこちの感覚が麻痺している。 それでいて、舞台の上で感じたあの霊気のような感覚は今もしっかり体の隅々まで残っている。 自分の体は何もかも覚えている。 何もかも。 体の隅々まで、細胞の一つ一つが覚えている。 紅天女のあの感覚を……。 忘れられる、わけがない……。 「マヤ!マヤ!もう、何回呼ばせるんだよ、電話だよ!ほら!」 妄想から現実に引き戻される瞬間。麗の声の調子から、その叫びは一度だけではなかったのは、容易に想像がつく。 マヤは前日、紅天女の試演の舞台を終え、3日後の発表を待つ身であった。 今の自分にはこれ以上は出来ないという演技をしたつもりである。悔いはない。 むしろ、あれ程悩んでいた恋の演技において、自分なりに答えを出し、乗り越えたことを誇りにさえ思う。これで駄目だったら、それまでだ。そこまでマヤは思い切れていた。 麗に促され、廊下の電話口へ急ぐ。 「あ、もしもし、北島ですが」 「マヤさま、聖です」 「聖さん!」 思わず、マヤの鼓動が早くなり、受話器を持つ手に汗をかく。 「昨日は本当にお疲れ様でした。素晴らしい紅天女でした」 「あ、ありがとうございます。聖さんにそんな風に言っていただけて、それだけで私とっても嬉しいです」 紫の薔薇の人に言われたわけではないのに、聖からの優しい言葉は、乾ききったスポンジに水が染込むように、心の奥まで広がっていく。絶縁状を渡されて以来、また真澄自身に紫の薔薇を投げつけられて以来、紫の薔薇の人と自分をつなぐ存在である聖は、もう2度と接触を図ってこないのでは、と不安に思っていたのである。 「お忙しいところ申し訳ありませんが、マヤさま、明日お時間を少し頂くことはできますか?」 思わぬ聖の問いに、一層鼓動が早くなる。 (もしかして、紫の薔薇の人に会わせてもらえるの?) しかしその問いを口に出す勇気はなく、 「はい、あの、明日は一日空いてます。稽古のほうも勿論もう無いですし…」 そう答えるのが精一杯だった。 「それは良かった。では明日の2時に、お迎えに伺いますので」 そのまま、受話器を置いてしまいそうな聖に耐えられず、マヤは思わず声を上げる。 「あ、あの聖さん。明日は、その、明日お会いする用件は、紫の薔薇の人に関することですか?あの、もしかして、紫の薔薇の人もいらっしゃるんですか?」 少しの間を置いて、相変わらず落ち着いた優しげな声で聖は答える。 「あなたにお渡しするものがあります。あの方から言付けられました」 「そう……ですか」 (言付け……。じゃぁ、速水さんは来ないのね) 「やっぱり、紫の薔薇の人は私には会ってくださらないんですね」 寂しそうに呟く。 聖を黙らせてしまったことに気が付くと、広がってしまった奇妙な間を無理矢理片付けるように、口が勝手に動き出す。 「あ、ごめんなさい、聖さんにこんなこと言ってもしょうがないのに。えっと、あの、明日の2時ですね。お待ちしてます。お電話ありがとうございました」 それだけ言うと、一方的に電話を切ってしまった。両手で受話器を戻したまま、しばらく動かないでいる。次々と浮かぶ、明日への期待と不安。不安のほうが大きかったが、それでも自分と紫の薔薇の人を繋ぐ聖に会えるのは、嬉しい事であった。 不安……。 それはもう漠然と広がっているものであった。このまま、真澄は自分に紫の薔薇の人であるということを告げずに、去ってしまうのではないか、と。紅天女の本公演が決まれば、あの美しい婚約者と結婚する。女優としての自分への興味も永遠に失って、もう2度と、自分に薔薇を贈ることもなく……。 マヤの漠然とした不安の理由は、紅天女の試演のあとに届けられた、紫の花束に添えられたカードに所以する。 カードには何も書いてなかったのだ。 初めて届けられた真っ白なカード。それは、もう彼の気持ちは自分にはないという事ではないか。絶縁状よりも、堪えた白紙のカードであった。 試演の前は、毎日のように真澄を思って、気が付くと昼夜を問わず涙を流していたマヤだったが、試演後はぴたりと涙も止まっていた。 哀しくないわけではない。今でも胸は張り裂けそうに、千切れそうに悲鳴を上げている。真澄の事を考えるだけで、心臓からどくどくと流れ出る血の音まで聞こえてくる。 ――もう叶わない思いなのだから、もうこれ以上求めてはいけない人なんだから、諦めてしまおう―― そう言い聞かせるたびに、心はバラバラになっていった。バラバラになった心の破片がまた自分の心に戻ってきて、突き刺さる。血が流れる。 こんなになっても、まだ真澄の事を好きでいる自分に、ほとほと嫌気がさした時、諦めることができないなら、この思いを一生背負っていってやろう、と目が覚めた。 自分が舞台の上でしか生きていけないのと同じように、自分は真澄への愛なくして、生きていくことは出来ない。 報われなくてもいい、気づいてもらえなくてもいい、側にいることが出来なくたっていい、この愛だけは自分のもの。 この愛はきっと私の運命。 ならば自分はなにも求めない。 そう心の底から思い切れたとき、暗闇のなかでようやく探していた出口をみつけた思いがした。 そう、これが紅天女の愛し方。 何も求めない、何も誤魔化さない。ただまっすぐな思い。 ――今なら自分は紅天女になれる―― そう思えたのは、試演のわずか2日前であった。 舞台からまっすぐに、まっすぐに送った愛、真澄はどう受け止めてくれたのだろう。もう、何も求めないとは、心に誓っていても、白紙のカードは、せめて女優としてこの愛に一生を捧げる、という自分の思いを付き返されたようで、どうしようもなく心が堕ちていったのも事実だ。 それでも、もっともっと、強くならなければ、女優として、誰よりも強い光を放つ、強い自分にならなければ、そう思う事によって、涙を流すことだけは必死にこらえていた。 ![]() 翌日の午後2時、約束の5分前に聖はやってきた。真澄に会えるわけではない、そうは思っても、かすかな期待がマヤにおしゃれをさせた。紫の薔薇の人としてプレゼントしてくれた、仕立てのいい白いノースリーブのワンピース。シンプルなデザインだが、質のいいものだけが出せる、センスのよい服でマヤのお気に入りでもあった。 「素敵すぎて、着る機会もほとんどなかったけど、今日ならいいよね」 そう鏡の中の自分に言うと、小さなダイヤのネックレスとおそろいのイヤリングを付ける。 「ふふ、全身速水コーディネートのできあがりー」 くるりと1回転しておどけてみる。そうしなければ、笑顔のバランスさえ取れないのだ。 「ほら、早く行きなって、相手はもうお待ちだよ。お尻にもなんにもついてないよ」 麗の両手が背中を押す。 「はーい、いってきまーす」 「ほら、帽子。色黒の天女さまじゃ困るだろ」 「ありがと」 ほんの些細な冗談のなかでも、自分の紅天女の可能性を信じてる人の言葉は嬉しかったりする。ちょっとツバの大きめの麦藁帽子を被ると、マヤは聖の待つ車までかけて行った。 「お待たせしました」 なんとなくおしゃれをしてるのが照れくさく、帽子を頭に押さえつけながら、少し目線を外してマヤは言う。 「いいえ。こんなにキレイな方が飛び出してきて下さるんでしたら、僕は何時間でも待ちますよ」 照れもせず、かといって歯の浮いたお世辞というわけでもなく、聖は言う。 「もう、聖さんたら、またまたぁ。女優は女優でも言う相手間違えてますよぉ」 大げさに片手をバタバタさせながら、マヤは真っ赤になる。 「いいえ、マヤさま、間違えたりなんて僕はしませんよ」 マヤはますます真っ赤になりながらも、聖が開けた助手席の扉のむこうに、さっと滑り込んだ。 ![]() 「あの、今日はどこへ行くんですか?」 車が発車すると、マヤは一番気になっていた事を口にする。行き先はもちろんだが、だいたい今日何が行われるかさえも、てんで見当がつかないのだ。聖は”渡すものがある”とは言っていたが、渡すだけなら、郵送でも玄関口でもいいはずである。 「今日は、他に予定は入れてらっしゃいますか?」 「いえ、予定はなんにもないです。今日1日フリーですから」 「それは良かった。それでは今日1日、僕とデートということで、お任せ頂けますか?」 「で、でぇとぉぉ??」 大げさではなく、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。 「あ、あ、あ、あの、聖さんと私が、あの、その」 しどろもどろになりながら、なんとか言葉を繋ごうとするがうまくいかないマヤに聖はさらに続ける。 「そんなに慌てることはありませんよ。今までだって、何度か一緒に楽しい時を過ごしたではありませんか」 からかうような聖の口調に対して、真っ赤になって俯くだけのマヤを見て、聖は少し声のトーンを落とす。 「心配ありませんよ。あなたに嫌な思いはさせません、誓います。今日は、あの方に代わってあなたを1日お連れすることが、あの方の希望です。私は今日1日、あの方の代わりです。なんでも私にお申し付けくださいませ」 「紫の薔薇の人の代わり?」 腑に落ちない表情で自分を見上げるマヤに、 「私ではとてもあの方の代わりにはならないでしょうが」 穏やかな声でそう答えながら、聖は寂しそうに笑った。 「あ、いえ、私、そんな意味ではなくって。その、聖さんと居れるのもとっても嬉しいです」 そう言ったっきり真っ赤になって俯くマヤを、聖は優しげな目で見つめた。 ![]() 「聖、明日でも明後日でもいい、マヤを1日案内してやってくれないか?」 内密に進められていたとある調査内容を届けに、あるホテルの一室までやってきた聖に、タバコの煙を吐き出した後、真澄は何気ないように切り出した。書類を片付ける手を一瞬休め、真澄の目を探る。 「と、いいますと?具体的におっしゃって下さいませ」 「具体的にか…」 タバコを灰皿で捻りつぶし、最後の煙を吐きだす。 「まずは、3日後の審査発表のレセプションで彼女が着るドレスを一緒に選んでやってくれ。彼女に似合いそうなものを、とびきりのドレスを。それから、まぁ、その他必要な靴だのアクセサリーだの、お前の判断で必要と思うもの全てだ。 あとはどこでも、彼女の好きな所へ、行きたいところへ連れて行ってやれ。映画をみてもいいし、食事をするのもいいだろう。お前に任せる」 真澄の真意を図りかねるように、押し黙って聞いていた聖であったが、そこまで聞くと、ふっと笑みをもらす。 「真澄さま。それはまるでデートではないですか」 「デート?ああ、まぁ、そうかもしれないな」 「お断りします」 きっぱりと言う聖に対して、いささかの驚きを隠せず、真澄は言う。 「俺の頼みが聞けないというのか」 「ええ、真澄さま、私はあなたとあの方を繋ぐ役割をして参りましたが、あなたの代わりをやってきた覚えはございません。それはマヤさまにしても同じです。あの方が今、一番求めているのは紫の影であるわたくしとの偽りの安らぎではなく、あなたとの真実の時間です。それはあなたご自身が、1番お分かりになってるはずです。 そして、あの方に似合うドレスを選ぶのも、一緒に映画を見るのも、食事をするのも、全てあなた御自身が望んでいることではありませんか。そんな大切なことをこの聖めにやらせて、あなたは一体どうするおつもりですか」 真澄はイライラしながら、2本目のタバコに火をつける手を止め、テーブルを叩く。指に挟んだタバコがこぼれる。 「わからないか、聖。俺にはそれが出来ない、いや、する権利がない」 「それはあなたが、間もなく結婚をする身という事ですか?」 「そうだ。だが、それだけではない」 2本目のタバコに火をつける真澄の手が、かすかに震えてるように見えた。 「紅天女だ。 彼女の紅天女の舞台を見て、俺のなかの全てが、音を立てて崩れていくのがわかったんだよ」 怪訝そうな表情で聖は真澄を見つめるが、真澄はそれには構わず続ける。 「アイツは本気だ。本気で恋をしている。恋以上だ。気が狂うほどに、愛している。紫の薔薇の人をな! 会ったことも無い奴によくもそこまで、と呆れたが、考えて見ればそれは、これが紅天女であるあの子の愛し方なのかもしれん。無償の愛。それが紅天女の愛だというのならな! 紫の薔薇の人という匿名の隠れ蓑に隠れて、俺が一方的に送り続けていた愛に、あの子は紅天女の愛で一生応えて行こうとしているんだよ。 舞台から投げられる、あのまっすぐな思いに、俺はもう気が狂いそうだった! あの熱い視線に魂を射られるかと思ったよ。身も心もすべて、もうあの子に射抜かれるところは射抜かれ、穴だらけだと思っていたのに、この期に及んでそれでもまだ、俺には魂が残っていたらしい。だがその最後の魂さえも、完全に彼女に奪われたというわけだ」 自嘲的な笑みさえ浮かべて、真澄は言った。 「それならどうして!どうして、そのお心を素直にマヤさまに打ち明けられないのですか?!」 「………」 黙ったまま空を睨む真澄に耐えかね、聖が続ける。 「それが、あの言葉のない白紙のカードの理由ですね」 聖は、試演のあと真澄がマヤに贈った、紫の薔薇の花束に添えたカードが、白紙であったことを咎めているのだった。鉛を飲み込むような思いで、グラスに注いだウイスキーを喉に押し込めると、低くくぐもる声で真澄は告げた。 「彼女の女優生命をかけて思いを伝えた相手が、母親までも奪った、憎むべき相手だと知るのはあまりにも残酷なことだ…。長い間育んで来たのは一方的な俺だけの愛だ。彼女は何も知らない。俺と紫の薔薇の人が結びつくことはあってはならない。俺だけが一生、この思いを背負っていけばいいんだ」 「それでは、マヤさまのお気持ちはどこへ行けばいいんですか?お労しい。あんな小さな体で抱えきれないほどのものを抱え、さらにあなたへの思いを一生彼女にも背負っていくことをあなたは課すのですか?!」 聖が声を荒げる。 「俺への思いじゃない。紫の薔薇の人という架空の人物への思いだ」 それだけ、静かに言うと、真澄は黙り込んだ。 重苦しい沈黙のあと、聖がゆっくりと確認するように聞く。 「それで本当にいいのですか。今、あなたの思いを封じ込め、もう2度とその思いを打ち明けるチャンスが訪れなかったとして、それで本当にいいのですか?」 「打ち明けたところでどうなる、衝撃の真実に彼女を苦しめ、さらには間もなく結婚する身である人間からの愛の告白なんぞ、茶番もいいところだ!」 吐き捨てるように言う。 「茶番かどうかは、やってみないとわからないのではないでしょうか。あの方ならあなたの真実の愛を受け止めてくださるはずです。あなたのおっしゃる通り、紅天女の無償の愛を持ったあの方なら」 一瞬、真澄の瞳の中の何かが揺れた。だがそれは一瞬のことで、再び自嘲的な笑いを浮かべると、 「もう、夢を見るのはお終いだ」 用意されたように、台詞じみた言葉を吐き出した。 「彼女には辛い思いばかりさせた。せめてもの償いをと、紫の薔薇で彼女を励ましてきたつもりが、最後の最後でその紫の薔薇が仇になってこんな思いをさせることになるとはな。皮肉なもんだ。 これが紫の薔薇の人としてしてやる、最後のことだ。3日後の審査発表のレセプションで最後の薔薇を贈る。 それで、終わりだ」 そこまで言い切ると、真澄はどかりとソファーに座り込み、天井を仰いだ。 じっと真澄を睨むように見つめていた聖が、口を開く。 「それが、あなたの愛なのですか?真澄さま」 鉛のような沈黙の後、重しの下からゆっくりと真澄の声が這い上がる。 「そうだ、これが俺の愛だ。 これが俺の愛し方だ。紫の薔薇を奪われたあとも、俺は愛し続ける。 彼女を愛し続けることは……、俺の逃れられない運命だ」 まるで血を吐くように言い切ると、グラスに残っていたウイスキーを毒でもあおるかのように、一気に流し込んだ。 11.21.2002 ![]() |
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