紫の行方 4
紅天女の試演から約束の3日が経ち、審査発表及びレセプションが執り行われるパレスホテルの鶴の間は、すでに異様な熱気に包まれていた。多くの関係者、出演者が次々と会場入りする中、主役の二人であるマヤと亜弓の姿はまだ見られなかった。また新紅天女に上演権を手渡すと思われていた月影千草も、体調の不良を理由に会場には現れていなかった。月影が来ない事を知らされたマヤは、また月影の容態が急変したのかと動揺したが、

「新しい紅天女が生まれるその席で、役目を終えた紅天女の抜け殻は必要ない」

と会場に来る事自体を拒否した、と聞き、寂しい思いが広がる一方でそれも月影らしいと思った。
真澄は関係者への挨拶周りの関係もあって、早くから会場入りしていた。


『今日は自分にとって運命の日』

と言った、マヤの言葉を思い出す。それは自分にとっても同じことであった。長年追いかけてきた幻の紅天女がいよいよ現実のものとなるこの日、長年贈り続けて来た紫の薔薇に自ら終止符を打つべき時がやってきた。これが運命の1日でなくてなんであろう。柄にもなく自分も緊張しているのがわかる。そんな自分に対して自嘲的な笑みを口の端に浮かべると、まだ半分以上残っているタバコを灰皿でもみ消した。
目を瞑ると、昨日自分の胸の中で理由も言わず、ただ泣きすがっていたマヤの感触がよみがえる。泣いてる理由を聞く事も、ましてやマヤを泣かせる棘を取り除いてやる事も出来ず、マヤが泣き止むまで、真澄はただひたすらに、抱きしめてやる事しか出来なかった。真澄にとってマヤは、表面に触れる事は出来ても、乱暴に取り扱えばたちまち粉々に壊れてしまう、まるでガラス細工のようなものだった。




そのとき、一斉に会場の入り口でフラッシュが焚かれる。
亜弓の登場であった。失明の危機に晒されていることを一切伏せ、舞台へあがったその恐るべき女優魂、そしてその完成度、どれをとっても賞賛に値するものであった。『見えてはいない』というのを全く感じさせない、堂々とした足取りで、恋人であるハミルにエスコートされ、深紅のドレスを纏った亜弓は笑顔でフラッシュの中を歩いて行く。その表情はさっぱりとしたもので、緊張や動揺といった種類のものは見られなかった。
幾人かの握手を求める者に軽く答えながら、亜弓は真澄のすぐ側までやってきた。
真澄が声をかけようと思ったその一瞬前に、亜弓はハミルの腕を離れ、きっちり真澄の方を見て挨拶した。

「こんばんわ、速水社長。いよいよですわね」

見えないはずの亜弓が、どのように自分であることの検討をつけたのか図りかね、驚きのあまり真澄は亜弓を見つめ返す。

「ふふ。見えないはずじゃないのかって驚いていらっしゃるのね?」

図星ではあったが、『そうだ』といえば、あまりにもストレートで彼女を傷つけるのでは、と真澄は言葉に詰まる。

「香水ですか?」

かわりに彼女が自分を識別した理由を尋ねてみる。

「そうですね、香水とそれからあなたの空気かしら?」

「空気…ですか?」

「ええ、速水社長、わたくし目が見えなくなってからというもの、見えない筈のものが見えてくるようになったのですよ。感覚が研ぎ澄まされていくというのかしら、その人の周りの空気に触れるだけで、その人の事がわかるのです」

美しい女優の笑みを浮かべながら、亜弓は言う。

「では、私の空気は、どのようにあなたに見えるのですか?」

「今日のあなたは…、随分と思いつめていらっしゃるのね。速水社長、わたくし以上に緊張なさってるのではなくって?」

少しからかうように、亜弓は笑う。図星であることは否めないが、真澄はそれとなくはぐらかす。

「それはそうですよ。世紀の紅天女の誕生に立ち会えるのですからね」

亜弓はそれ以上は何も言わず、では後ほど、と再びハミルの腕を取ると、更に会場の中央へと進んでいった。


再び入り口付近でどよめきが上がり、フラッシュが焚かれる。おそらく二人目の主役の登場であろう。ボーイからドリンクを受け取り、何気ない風を装いながら、真澄も一心に入り口に目を凝らす。
そこには、薄紫色の絹のドレスを纏い、俯き加減に微笑む、狂うほどに愛しいマヤの姿があった。聖と一緒に選んだというドレスは、華奢な体にぴったりと沿うラインでありながら、スカート部はゆったりと後ろにトレーンをひくデザインで、上品な華やかさがあった。

「北島さん、こっちお願いします」

端のカメラマンの注文に答え、マヤが向きを変えると、大きく晒されたマヤの白い背中が、真澄の目に飛び込んできた。髪をアップにし、惜しげもなく晒された美しい白い素肌に目を奪われ、すっかり狼狽してると、すっとその背中に手を伸ばす者があった。きっとあらかじめエスコート役を頼んでいたのであろう、桜小路であった。

「マヤちゃん、行こう」

当然のように堂々とマヤをエスコートする桜小路に対し、やり場のない嫉妬を感じる真澄であった。遠くからでも緊張しているのがわかる。晴れ晴れとした表情で笑顔を振りまく亜弓とは対照的に、ぎこちなく笑顔を作ったり、かと思えば下を向いてしまったり、ただでさえ小さいその肩がますます小さく見えた。そんな彼女の肩をしっかりと抱き、何度となく笑いかけ話しかけ、励ます立場にいるのが桜小路であった。

(これが自然な姿なのかもしれない)

渦巻く嫉妬を心の奥底に押し込め、そう思おうとする。

(年齢も、環境も、すべてに無理がないではないか。それに比べて俺とあの子ときたら無理だらけだ)

緊張に怯えるマヤをどうしてやる事も出来ない苛立ちを、グラスのシャンパンとともに飲み込んだ。


予定されていた開始時刻を5分過ぎてから、紅天女の試演の審査結果を発表する旨のアナウンスが入った。最初に幾人かの関係者の挨拶が行われたが、何一つとしてマヤの耳には入ってこない。会場入りした時から、マヤは真澄の姿を探していた。自分を幾重にも取り巻く人の波のむこうに、一瞬自分を見つめる真澄の姿が見えた気がしたが、すぐに人ごみに飲まれ、見失ってしまった。真澄は真澄で、今この瞬間にマヤといる事が出来ないというのであれば、他の誰ともいたくないといった風情で、会場の隅に佇んでいた。しかし、目では確実にマヤを追い、一瞬たりとも目を離す事はなかった。

「それでは御挨拶が終わりましたところで、いよいよ発表のほうに移りたいと思います」

司会の若い男の声に、びくりとマヤの肩が震える。桜小路はそんなマヤの肩をいっそう強く抱きしめる。脇役の配役の名前が次々と読み上げられる。黒沼チーム、小野寺チーム、両者一歩も譲らぬ攻防戦といった感じで、両チームからほぼ同じ割合で名前が読み上げられ、その度に会場にはどよめきと拍手が沸きあがる。

「仏師一真役、桜小路優!」

「演出家、黒沼龍三!」

最も重要な配役である一真役、そして演出家が黒沼チームから出た事になる。会場のどよめきはさらに大きさを増す。緊張のあまり萎縮しきっていたマヤも、二人の選出を自分のことのように喜ぶ。桜小路の隣で眩暈がするほどのフラッシュの洪水を浴び、

(次は私の番)

手に握った、白いハンカチをぎゅっと握り締める。

「それでは、いよいよ紅天女の発表です。御存知のように、紅天女に選ばれし者へは女優月影千草が保有しておりました、紅天女の上演権が授与されます」

会場は水を打ったように静まり返る。

「紅天女役、北島マヤ!!」

引き寄せる波のように、人々の歓声、拍手、カメラのフラッシュが一斉にマヤに押し寄せる。

「マヤちゃん、マヤちゃん!!紅天女だよ!君が紅天女になったんだよ!!」

呆然とするマヤの両肩を桜小路は激しく揺さぶり、有無を言わせず抱きしめた。

(私…が、紅天女…?)

人々の歓声も、拍手も、靄がかかったように全てどこか遠くで聞こえる気がした。

「北島!やったな!よくやったぞ!」

桜小路から開放され立ち尽くすマヤの背中を、黒沼がばしばしと叩いた。ようやく我に返ったマヤは、幾重にも重なった押し寄せる人の波の間から、その姿を探した。
愛しい紫の薔薇の人のその姿を!
折り重なる人々の間から、真澄はまっすぐにマヤを見詰めていた。周りの全てのものが慌しくうごめく中、遠くにたたずみじっとこちらを見つめる、真澄のその視線だけが、その瞬間、マヤにとって静をなすものであり、また自分の心を射るものだった。記者の質問に答えるのも忘れ、マヤは同じようにまっすぐと真澄を見つめ返す。
真澄は満面の笑みを浮かべ、ゆっくりと大きな拍手を送った。

(おめでとう!おめでとう!チビちゃん!!)

マヤ、桜小路、黒沼の3人は壇上に登ることを促され、それぞれ今の気持ちと抱負を語らせられた。緊張の糸もぷっつりと切れ、頭の中が真っ白であるマヤはすっかり取り乱し、何を喋っていいのやら、慌てふためく。

「えーっと、あの、まだ、信じられない気持ちで一杯です。夢なんじゃないかと、さっきから自分の指をつねってみてるんですが、痛いのでどうもホントみたいです」

会場からは一斉に笑いが起こる。

「紅天女はずっと私の夢でした。今まで決して楽ではない道を遠回りしながら歩いてきましたが、それは、全部無駄じゃなかったって、今日、初めて胸を張って言える気がします。本当にありがとうございました」

そう言ってぺこりと頭を下げると、マヤは今まで自分を支えてきてくれた、沢山の周りの者の顔を順番に、一人一人思い浮かべてみるのだった。
詰め掛けた報道陣から一斉にマヤに質問が浴びせられる。

「北島さん、今後の問題としては、まず紅天女の本公演にあたっての上演劇場ですが、具体的に事務所や劇場はすでに決めてあるんですか?」

「あ、いえ、そんな、まだぜんぜんです。さっき、紅天女になったばかりですから」

「現在あなたはフリーで活動なさってますが、今後、特定の事務所に入るということは考えられますか?紅天女になったんですから、いくらでも今のあなたを欲しがる事務所はあるでしょう」

過去に芸能界中の事務所から干され、どこにも居場所のなかったマヤへのあてつけともとれる、質問だった。

「そう…ですね、お話を頂ければ前向きに検討したいと思います」

当たり障りなく返すのがマヤには精一杯だった。

「今回の試演に関しては全面的に大都芸能が取り仕切ってきましたが、今後もそのまま大都のもとで上演という可能性が高いのではないですか?」

「それは…、黒沼先生など周りの方とも相談してみないと、今の私にはまだ、わかりません」

「それでは北島さん個人の感情としてはいかがでしょう?過去の御自身の大都での経験やその後続いてる、社長の速水氏との確執を持っても、大都での上演はありえますか?」

遠くからじっとそのやりとりを見つめていた真澄の心臓に、鋭い痛みが走る。なぜこれほどの晴れがましい場で、そのような事をあの子は聞かれなければいけないのか?居た堪れない気持ちになって、記者に対して思わず怒鳴り声を上げそうになる。
だが、マヤが気色ばんで答えたのが先だった。

「…個人の感情を優先する前に、私は女優としての仕事を優先します。それが紅天女の上演にあたって最善の形であれば、どこの劇場であろうと私は公平に判断させて頂きます」

一瞬会場が静まりかえる。

「ほらほら、いつまでもそんな事ばっか聞いてないで、俺に芝居の事聞け、芝居の事!」

と黒沼が助け舟を出すと、一瞬にして会場はどっと湧き、その後マヤの今後の身の振り方や、上演権に対して質問する者はいなかった。
一通り形ばかりの記者会見が終わると、会場は記念パーティーに移るということで、一気に華やいだ雰囲気になった。多くの人がマヤに祝いの言葉をかける中、すっと誰もが道を開ける人物がいた。

亜弓だった。

「マヤさんおめでとう」

「あ、亜弓さん…!あ、あの、私…」

なんて言ったらいいのか…、そう言おうとしたが、それは亜弓に対して逆に失礼なのでは、と思い、

「あ…りがと…うございます」

と戸惑いながらも言い直した。

「いいのよ、あなたが気にする事はないのよ。紅天女は一人だけ。一人だけしか選ばれないのよ。そして、それはあなたしかいない。負けたとは思っていないわ。紅天女に息を吹き返させられるのはあなたしかいない、でも、きっと私にもあなたの紅天女に匹敵する私だけの役があるはずだわ。この世界のどこかに…」

圧倒される思いで、マヤは亜弓を見上げる。

「すごい、すごいや、亜弓さん。私なんてさっきの今で、まだこんなに動揺してて、自分が何言ってるのか、何考えてるのかも、よくわからないのに、そんな冷静に自分のこと考えてて、すごい…」

「ふふ。さっきの今じゃないもの。試演が終わったときからずっと思ってたこと、分かっていたことだもの。私ね、試演では今までの人生の中で最高の演技をしたと思ってる。そして誰もがそれを認めてくれた。目が見えなくなって、目に見えないものを信じるようになって、目に見えないものを大切にするようになって、そうしたら今まで見えなかったものが全部見えてくるようだった。女優としての技術は極限まで高める事が出来たと思うし、それから人間としても、今まで信じていなかったものを信じる事が出来るようになった」

含みのある笑みを浮かべる。

「あなたが一生の思いを捧げる舞台を見つけたように、私も自分の一生の思いを捧げる舞台をこれから探す」

「亜…弓さん?どうして?私の一生の思い…って、どうしてわかるの?」

「言ったでしょ、目が見えなくなってから、見えなかったものが見えてくるようになったって。信じていなかったものを信じることが出来るようになったって。本気の恋なんて、女優をやっていく上で必要だと思ってなかった。相手を変え、場所を変え、気持ちを変え、いくつもの恋を上滑りでもいいから経験することが、いくつもの気持ちが知れて、女優にはプラスだって本気で信じてた」

気の強そうな女優の顔が一瞬もたげるが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ亜弓は続ける。

「でも、もう大丈夫。私も見つけたから。これからゆっくり一生分の思いで、その人を愛していくから…」

そこまで言うと、一歩距離をおいて二人のやり取りを、そっと見守っていたハミルに腕をかける。

「マヤさん、私、明日渡米するの。目の手術よ。そのあとはしばらくハミルさんとパリに滞在するつもり。じっくりと静養しながら、私の一生に値する舞台を探すつもりよ。世界は広いもの、きっと世界のどこかに私にしか出来ない舞台があるはずだわ」

「亜弓さん、私、私、やっぱりあなたには叶わない。追いついたと思ったら、あなたはまたすぐ、私の先へ行ってしまう。これからも私、あなたの事、追いかけてもいいですか?」

しばらく亜弓は見えないはずの目でマヤを見つめた後、突然一歩前へと進み出ると、マヤの頬にキスをした。先ほどから遠巻きに二人のやり取りに注目していた記者たちが一斉に、フラッシュを焚く。

「こりゃー、本日のベストショットだ!」

そんな声が聞こえてきた。
びっくりしたマヤは、真っ赤になりながら立ち尽くす。

「亜、亜弓さん?!」

「この世に友情ってものがあるって信じさせてくれたのも、あなたよ。あなたにだったら追いかけられても悪い気はしないわ」

最後は冗談とも本気ともつかない言葉で濁して、亜弓はマヤから離れた。そして、妹を労わる様な慈悲深い表情で、そっと付け加えた。

「あなたの一生分の思い、届くといいわね」

マヤは驚いて、何か言おうとして口を開くが、亜弓はすでにハミルの腕をとって、優雅に身を翻すと、もう用はないと言わんばかりに、会場を後にしようとした。
とっさにマヤはその背中に向かって叫ぶ、

「待っててください、亜弓さん、私、いつか必ずあなたに追いつきますから!!待っててください、亜弓さん!!」

一体何を叫びだすのかと、まわりはあっけにとられてマヤを見る。亜弓は振り返りもせず、小さく1回後ろ向きに右手を上げ、それに答えた。

「追いつくって、一体なんの話なんだよなぁ、おい…」

記者の一人がぼやくばかりだった。


亜弓が去ったあと、一人会場に取り残されたマヤに、背後から近づく者がいた。

「北島マヤさんですね、お花をお届けにあがりました」

聞き覚えのあるその声に、マヤは血が逆流したかと思った。振り向くと、そこには花屋に扮した聖が、大きな紫の薔薇の花束を手に立っていた。






11.24.2002


…to be continued








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