紫の行方 5
「北島マヤさんですね、お花をお届けにあがりました」

振り向く前からその聞き覚えのある声の主はわかっていた。

(聖さん!!)

喉元まで出かかった叫びを必死に押し込め、震える手で、差し出された紫の薔薇の花束を受け取る。もう2度と貰えないのでは、と大きな不安の塊をお腹のなかに抱え、今日の日を迎えたマヤにとって、それは考えうる限りの最も嬉しい祝福であった。

「あ、ありがとうございます…。もう、貰えないかと思ってた…。嬉しい…」

聖に言うともなく、薔薇の花の中に顔を埋め、マヤは呟く。はっと気づいたように顔を上げ、不安げな表情で尋ねる。

「あの、何かメッセージは?」

「はい、承っておりますよ。こちらでございます」

そういうと、白い一通の封筒を差し出した。それはいつも添えられていた、メッセージカードとは違う大きさのものだった。少し厚みを持ったそれを躊躇いがちに受け取ると、マヤは大事そうにそっと胸に押し当てた。それをしっかり見届けると

「それでは、これで失礼いたします」

マヤの脇を通り抜け聖は去っていった。側をすり抜ける瞬間、耳元でマヤだけに聞き取れた、

「おめでとうございます」

という囁きを残して。






(開けようか、どうしようか)

少し重みのある長方形の封筒をじっと見つめ、マヤは迷う。今ここで、開けてしまったら、その後自分は正気でいられるかどうか。
決心がつかず、立ち尽くすマヤに桜小路が声をかける。

「マヤちゃん、主役がそんなところでぼーっと突っ立ってたら、だめじゃん。ほら、みんな紅天女に会いたがってるよ」

そういって、マヤの手を取り、無理やり宴の中へ連れて行こうとした。

「待って、桜小路君!あの、私、控え室にこれ、置いてくるから」

そういって、胸の前に薔薇の花を持ってきた。桜小路は敵わないな、という表情を浮かべ、

「ただの花束だったら僕が置いてきてあげるけど、紫の薔薇だったらしょうがないね。待ってるから、早く帰ってきてね」

そういうと、一人で宴の中へ戻って行った。

「うん、すぐ帰ってくるから」

とりあえずそういい残すと、マヤは会場を後にした。とりあえず、とりあえず一人になって考えよう、そう言い聞かせながら。

控え室の扉を後ろ手に閉めると、マヤはようやくほっと息をつき、薔薇の花束を鏡台の横へそっと置いた。鏡台の前の椅子に腰掛けると、改めて白い封筒を確かめる。

「北島マヤ様へ」

そう上書きされている、封筒の表をゆっくりと右手のひらでなぞった。

(これは白紙じゃない)

そう思われた。いつもの簡単なカードと違って、しっかり封をされた長方形のそれは、明らかに中に手紙が入っている事を意味していた。震える手でその封を切ろうとした瞬間、

(だめだ!今はまだ見れない!)

鏡台の上に両手をついて、手紙を押し戻した。そしてその封筒を半分に折りたたむと、そっと胸元へと押し込んだ。心臓の鼓動が伝わるその位置にしっかりと押し込めると、ドレスの上からその場所を優しく押さえた。

(あと一時間ぐらいは、側にいてね)

そう心の中で呟くと、花束の中から2輪薔薇の花を抜き取り、1輪は結い上げた夜会巻の髪の中へ差し込み、もう1輪はしっかりと手に持って、控え室を後にした。

発表があった後も、人がまばらになった様子はなく、会場は華やかな雰囲気に包まれていた。自分が主役であるとは到底考えられないマヤは、入り口で立ち止まってついつい知った顔を捜してしまう。桜小路はすぐに見つかった。だが、彼の元へ足を向ける前にどうしてもマヤの目はもう一人の人物を探してしまう。背の高いその人は、人垣の向こうで頭ひとつ飛び出していて、まるで目印のようにマヤの目に入ってくる。にこやかに微笑みながら、関係者と談笑してるようだった。

(会ってお礼を言うぐらいいいよね。社長さんなんだから、会いに行ったって不自然じゃないよね)

もっともらしい理由をつけ、真澄の方へまっすぐに近づいていく。人の波を掻き分け、あと数メートルというところまできて、マヤの足は凍りついたようにすくんでしまった。
真澄のとなりで、微笑むのはあの美しい婚約者の紫織であった。先ほどまで一人で佇む真澄を見ていたため、今日は一人だと思っていたのだ。だが考えてみれば、まもなく社長夫人となる紫織が、このような大都芸能の主催と言っても過言でないパーティーに、出席しないほうがおかしい。先程の発表時に居なかったのは、それは興味がなかったからか、またいる必要もなかったからではないか。社交の場、それこそが彼女が必要とされる場であり、また相応しい場でもあった。
立ち尽くすマヤに最初に気が付いたのは、紫織だった。

「あら、噂をすれば紅天女さまがお見えですわよ」

一斉にその場に居た皆の目がマヤに向けられ、さっと一瞬にして表情を変えた真澄と目が合う。ますますもって、根っこが生えたようにマヤの足はその場から動かなくなったが、ちょうど真澄と談笑していたとある企業の重役が強引にマヤの腕を掴むと、輪の中に連れ込んだ。男はすでに酔っているようだった。

「いやね、紅天女が決まってようやく、真澄君も安心して結婚できると言っていたところだよ。紫織さんも紅天女が相手では、こりゃ随分待たされたと違いますか?」

大きな声でかっかっかと下品な笑い声をあげた。真澄が何か言う前に、紫織はすぐにそれに同調した。

「そうなんですよ、真澄さまもとにかくお仕事熱心な方でしょ。これさえなければ、すぐにでもお式をという事だったんですけれど、きちんと落ちついてから結婚生活を始めたいっておっしゃられるし…。でもこれで一安心ですわ。ね、真澄さま」

「え、ええ、そうですね、紫織さん」

血の気が引いてるのは自分でもわかったが、それでも真澄は機械的に答えた。マヤは自分でもみっともないと思うほど、足がぶるぶると震えだすのがわかった。大きく広がったドレスのスカートの中では、きっとそれは見えないかもしれない。せめて手が震えてるのは見られないようにと、手にしていた一輪の紫の薔薇ごと、両手を後ろに持っていった。
今日だけは、今日だけはせめて見つめたくなかった現実、愛しいその人はもうすぐ他の誰かのものになってしまう。突きつけられた今更の現実に、マヤは一言も声が出ない。

「いや、でもまだ大仕事が残ってますな、真澄君。紅天女の上演が大都に決まらない事にはねぇ。どうだね、北島君、きみ、ここは一つお二人の結婚祝いに、紅天女の上演を大都にお願いしたらどうかね。はっはっは」

余りに無神経かつ無礼な態度に真澄は声を荒げそうになったが、誰にもわからないように拳をぐっと握り締め、受け流すような台詞を吐く。

「そうなってくれれば有り難いんですが、こちらの天女さんはなかなか気難しい事で有名でしてね、そう簡単には事は運ばないでしょう」

「きみぃ、悪い事は言わないよ。早いとこ、大都に決めてやりなさいって。じゃないと、アンタさんに邪魔されて、このお二人はいつまでも結婚できない悲劇のカップルだよ」

それまでじっと俯いていたマヤが驚いて真澄を見上げる。

「あ、あの、私…」

(お二人の邪魔をするつもりはありません)

そう言おうと思った瞬間

「マヤちゃん、探したよ」

そこに桜小路がやってきた。

「さぁ、黒沼先生もいるし、あっちへ行こう」

まるで狼の群れの中で弄ばれるかのように、追い詰められていた雰囲気を桜小路も察したのであろう、震えるマヤの肩を抱きその場から連れ去ろうとした。マヤは俯いたまま、それに従う。一瞬だけ真澄に目をやると、その表情はとても寂しそうで疲れていた。

結局、真澄からは紅天女になれた事へのお祝いの一言も聞けなかった。もはや大都芸能の社長である真澄にとって、自分は紅天女の上演権を持った女優という、仕留めるべく獲物でしかないのか。言いようのない哀しみがマヤの心に広がって行った。

「マヤちゃん、僕、ちょっと飲み物とってくるから」

桜小路は黒沼や他の役者達が集まるあたりまでマヤを連れてくると、そう言ってその場を離れた。

「なんだ、北島。晴れて紅天女になった奴がする顔か?」

今にも泣き出しそうな表情のマヤを見て、黒沼が声をかける。

「あ、いえ、あの沢山人が居るから、ちょっと空気が悪くて、気分が冴えないだけです」

慌てて言い繕うが、そんな見え透いた嘘は黒沼には通じない。マヤがやってきた方角に真澄の姿を確認すると、納得したように頭を縦に二回振る動作をする。

「なぁ、北島、お前はほんとによくやった。あそこまで舞台で化けてくれるとは正直俺も思わなかった。あそこまでの演技に辿りつくまでに、相当辛い思いをしたんだろうな」

思わぬ黒沼の思いやりを持った優しい言葉に、マヤはこらえていた涙をぽろぽろとこぼした。そんなマヤを慰めてやるでもなく黒沼は続ける。

「だがな、これで終わりじゃない。わかってるだろうが、ほんとの舞台はこれからだ。いや、紅天女が終わったところで、お前が女優で居続ける限り、それは一生続く事だ」

穏やかな口調ではあるが、いつもの厳しさで黒沼が喋りだすのをマヤは涙を拭うのも忘れて聞きいる。

「言ってる事わかるか?お前の私生活での幸せや不幸せが、舞台の上でのそれと必ずしも一致するわけではないって事だ。今回は、お前が初めてぶち当たった壁だったかもしれない。でも今後、お前が出会うであろう沢山の初めての感情に、イチイチお前自身が振り回されてたら、役者は務まらないんだよ。『知らない感情だから演じられない』とか『今は哀しい気分だから幸せな気分なんて演じられない』なんて許されないんだ。私生活の全てを殺してでも、普通の人間としての幸せを全部諦めてでも、舞台に立つ、それが役者だ。お前にその覚悟はあるか?」

マヤはごくりと唾を飲み込む。黒沼の言ってる事はもっともだった。また今までの自分に、そういった甘えや弱さがあった事もわかっていた。そしてそんな弱い自分が嫌いだった。
マヤはさっきまでの泣き出しそうな表情を捨て去り、意志の通った強い目で黒沼を見返して言った。

「舞台以外の他のどこにも私の人生はありません。女優として歩いていく人生に私は少しも後悔していません」

それをしっかり見届けると

「よく言った。それでこそ、俺の見込んだ女優だ」

そう言って、ちょうどグラスを持って駆けつけた桜小路を含め、音頭を取った。

「紅天女の誕生に、乾杯!!」

大きな声の黒沼のそれは思った以上に会場に響き、会場のあちこちでそれに同調する乾杯の声が上がった。






一時間ほどその後も宴の流れに、身を任せていただろうか。

(ちょっと消えたっていいよね)

一通り関係者への挨拶も終え、一刻も早く一人になりたい気分だったマヤは、桜小路が目を離してる隙に、そっと会場を抜け出した。また後でお詫びがてら会場には戻るつもりだったので、このまま帰ってしまうわけではなかった。ボーイの目を盗み、シャンパンボトルを一本抜き取ると、エレベーターに乗り込んだ。出口である1Fのボタンを押すかわりに、最上階のボタンを押す。


星が見たかった…。







誰もいない屋上は風が強く肌寒かったが、それでも大勢の人々にもみくちゃにされた後ではたまらない開放感があった。星空を仰ぐと、両手を広げ伸びをしてみる。都会の夜空の星などたかが知れてるが、それでも雲ひとつない星空は、マヤの心を落ち着かせるに十分な美しさであった。左胸のあたりでずっと違和感を感じさせられていたものに、そっと手をやった。半分ぐらいは何が書いてあるのかわかるような気がしたが、全くわからない気もした。
屋上の端までコツコツと足音をたてて歩くと、ちょうど椅子の高さである塀に腰掛ける。折り叩んであった封筒をもう1度丁寧に伸ばすと、思い切って封を切った。思った以上に心は落ち着いていた。出てきた便箋が白紙でない事を確かめると、そっと胸に押し当て、夜空を一瞬仰いだ。

(よかった…)

ゆっくりと再び便箋に視線を落とす。




『北島マヤ様へ

紅天女、おめでとうございます。
あなたの成長を傍らでずっと見つめてきた者にとって、今日ほど喜ばしい日はありません。 心よりお祝い申し上げます。

直接あなたの前に現れ賛辞の言葉を述べる事もせず、このような手紙を書く事で少なからずあなたを落胆させる事をお詫び申し上げます。

あなたに薔薇を贈り続けて7年、あなたも素晴らしい女優へと成長なさりました。あなたを影でずっと応援し続けてきましたが、そろそろその役目にも終わりがやってきました。 あなたは御自分の力で全てを乗り越え、今、紅天女を手になさいました。何も恐れる事も、躊躇う事もありません。あなたは今、誰もが認める最高の女優になったのです。


あなたの紅天女を見て、私も決心した事があります。
あなたの思いに、そしてあなた自身に対して誠実でありたい、と。
今後、あなたの舞台に紫の薔薇が届けられる事はないでしょう。しかし、あなたが舞台に立ち続ける限り、いつ、どこであろうと、私は決して舞台のあなたから目を離す事はありません。私の生涯を通じて、あなただけに私の心の薔薇は手向けられます。


例え物質的な繋がりがそこになくとも、
手を伸ばせばいつも私はあなたの側にいます。
なぜなら、私の紫の薔薇は永遠であるからです。



                      あなたの永遠のファンより』





風に揺れ、便箋はカサカサと音を立てた。読み終わった後も、マヤはまるで写真を見るかのように、その便箋全体をじっと見つめる。長く続いた自分と紫の薔薇の人の関係に今、こうして終止符が打たれたという事実、その一方で紫の薔薇の生涯に渡る不変性を誓ったこの手紙にマヤはまだついていけない。
いや、正確にいえば頭では理解できていても、どう反応していいのか、その次の行動が脳から体に伝わらないのである。そして、同じように心も無感動だった。

(これで…全部、終わり…なの…?ほんとにもう最後なの…?)

じっと便箋を見つめ続けると、ある一文が目に刺さる。

『あなたの思いに、そしてあなた自身に対して誠実でありたい』

自分の一生分の思いを込めて演じたあの舞台。彼は自分の気持ちに気づいたはずだ。だが気づいた所で何になろう。真澄が大切に思っていてくれたのは女優としての自分の存在で、女としての素顔は何もかも平凡な自分に、どうして振り向いてくれるわけがあろう。そして何より、ふさわしい相手とこれから結婚する身である。彼の言う、自分のこの思いに対して

『誠実でありたい』

というのは、これ以上いたずらに自分の紫の薔薇の人への恋心を増長させないための、優しい拒絶なのではないか。

そういうことか…。

そこまで考えが辿りつくと、ふっとマヤは笑った。

(馬鹿だなぁ私、永遠の思いと引き換えに、紫の薔薇、失っちゃったんだね。自分で失っちゃったんだね)

それでも手紙は、薔薇を贈る事はなくとも、永遠に女優としての自分を見つめ続けてると約束している。紫の薔薇は永遠であると…。

マヤはゆっくりと、丁寧に便箋を畳むと、再び大事そうに胸の中に閉まった。紙のチクチクとした違和感とは別に、どうしようもないほどの喪失感がそこから染みのように広がっていく。
屋上の端に立つと、頭上にある星空を見上げ、そして地上を見下ろした。あまりの高さに一瞬足がすくむ。
目線を戻し、そっと目を閉じた。

ゆっくりと深呼吸すると再び目を開け、きっと前方を強くもう一度見つめると、声に出して呟いた。自分自身に、そして聞こえないと分かってはいても、愛しいその人に向かって。


「それでも、私の気持ちは永遠です。何があっても…」


その瞬間、マヤの瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれる落ちる。耐え切れずマヤはその場にうずくまる。この哀しみも、この切なさも、この涙も、全て真澄を愛した証、ならばどれ一つとて自分の体から逃げていかないようにと、ぐっと膝を抱え、自分自身を抱きすくめるようにして、思いを凝縮させた。

(大丈夫、大丈夫、いつかきっと、この鈍い塊のような思いも透明なそれに変わる。いつかきっと、自然にやり過ごせるようになる。痛いのは今だけ…)

それでもふと別の疑問が湧く、

(胸の痛みが消える頃、この思いも忘れてしまう日が来るのだろうか?いや、忘れなければいけないのだろうか?)

100回死んでも忘れられない気がした。
立ち上がって、更にもう一歩、塀まで近づくと、上半身をぐっと前に突き出し、手に携えていた薔薇の香りを嗅いだ。


忘れられる…
   忘れられない…
      忘れられる…
        忘れられない…


紫の薔薇の花びらが夜空に舞う。辺りは風が強く、千切った花びらはあっという間に夜陰に飲まれていった。



忘れられる…
    忘れられない…






真澄は型通りに紫織をエスコートし、パーティーをやり過ごすと、迎えの車を寄越し、紫織を家まで送らせた。自分も家まで送る事を紫織も望んでいるのはわかったが、今日の様な日にこれ以上彼女と居るのは、苦痛以外の何者でもでなかった。やり残した仕事がある、と適当な言い訳をし、彼女を一人車に押し込めた。車が二つ目の信号を右に曲がり、見えなくなるとおもむろにタバコに火をつけ空を見上げる。

と、目の前に空からひらひらと舞い降りる、不思議な白い浮遊物。真澄の足元にたよりなげに落ちたそれを拾い上げると、真澄の心臓に衝撃が走る。


紫の薔薇の花びら。


急いで見上げたホテルの屋上に、白い人影が動いた気がした。

(マヤ!!)

真澄は花びらをぐっと握り締めると、屋上に向かって駆け出した。








11.25.2002


…to be continued








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