19 予定外の出来事
" 嵐の夜に抱きしめて 1"
written by 杏子
『超大型の台風24号は急激に進路を変え、関東地方に今夜中にも上陸する見込みです。現在暴風域に入った伊豆諸島南部は…』

何もそこまでして、暴風の中から中継する必要があるのか、首を傾げたくなるのは毎度の事であるが、雨合羽を来たアナウンサーがTVで絶叫しながら実況している。

(今夜は早めに切り上げて帰るか…)

真澄はまだ2・3の決算書類が残っていたが、自宅に持ち帰って終わらせる事にする。

時計の時刻はもうすぐ11時を指そうとしいた。





(うそぉ…。なんで止まってるのよぉ…)

マヤは『申し訳ありません』表示のあとに続く、無情な電車の不通案内に途方にくれる。

(こんなんだったら、さっきタクシー乗っとけば良かった…)

後悔してももう遅い。道路を走り抜けるタクシーに空車のランプの灯ったものは皆無だ。
マヤは今日、出演していたドラマの終了の打ち上げの飲み会に出ていた。夏休み前に始まった、そのドラマは夏の間の話題をさらうほど好調な視聴率を記録し、マヤ自身も3ヶ月の撮影ですっかりスタッフや共演者と打ち解けた所であった。
すっかりいい気分で酔っ払い、周りの皆が

「いい加減、芸能人になったんだから、車を使え」

と忠告したにも関わらず、マヤは『酔い覚まし』と称し、歩いて駅まで行き電車でいつも通と帰ると言い放ったのだ。
まだ雨脚はそれほど強くないが、ゴロゴロと雷がなっている。電車の不通の原因も落雷によるカーベル障害らしい。

(しょうがない、タクシー掴まるまで、歩いて帰るかぁ…。歩くの得意だし…)

わけのわからない励ましを自分自身にして、マヤは歩き出す。

(そう言えば昔、電車賃使うのもったいなくて、よく歩いたなぁ)

最初はのんきにそんな事を考えていたが、次第に強まる雨脚に濡れ鼠のようになり、なんだかどんどん情けない心境になる。突風に傘を裏返され、骨までバキッと折れてしまったのを確認すると、酔いはすっかり覚め、寒さと心細さで体がブルブルと震えだす。

(速水さ〜ん…)

思わず心の中で呼んでしまう。

(電話しちゃおうかな…)

一瞬、そんな思いがふっと頭に浮かぶ。が、すぐに頭をブルブルと振ると、

(なに考えてるのよ。いくら付き合ってるからって、速水さんは運転手じゃないんだから。こんなくだらない事で呼び出すなんて、はた迷惑もいいとこよっ)

真澄にとって、観測史上最強の台風が都内を直撃してる瞬間に、マヤが無謀にも徒歩で深夜に帰宅中というシチュエーションの方がよっぽど心臓に悪い、はた迷惑な状況であるとは、マヤは少しも思わないのである。
もはや役目を果たさなくなった傘を差すのも諦め、マヤは突風に煽られながら前に進む。地面に叩きつけられる、豪雨がまるで川の流れのように、足元をすくいとりそうな勢いで流れていく。

(もしかして、これ、ちょっと、本気でマズイんじゃないか…)

初めてマヤは身の危険を感じる。





真澄は帰宅の準備をすると、都内の路線の一部が不通になっているため、道路が激しい渋滞を起こしている事を知り、今日は大都本社ビルの近くのマンションに帰る事にする。屋敷に戻る時間がない時、また、一人で過ごすプライベートな時間が欲しい時に使う、真澄個人の場所だった。

ふと、心配になり、ダイアルを押す。

(今日はドラマの打ち上げだと言ってたな。帰宅済みならいいんだが…)

間もなく暴風雨区域に指定されそうな都内の様子を中継するTV画像を横目で見ながら、発信音を聞く。なかなか取らないのはいつもの事だ。かばんの奥深くで迷子になった、携帯を捜し求めてアタフタしているマヤの姿が目に浮かび、真澄は思わず苦笑する。
7コール目にして出てきた、マヤの声は、明らかに在宅でない事を証明する、外野の音が激しく混ざるものであった。

「も、もしもし?」

「あぁ、俺だ、今どこに居るんだ。まだ、外なのか?」

「え?あ?もしもし?あの、ちょっと、聞こえないんで、もっと大きい声で…。
きゃーーーーーーーーーーー!!」

マヤの声は落雷の音と、マヤ自身の悲鳴で遮られる。真澄は一瞬にして血の気が引く。

(暴風雨の中、外をほっつき歩いてるというのか?)

呆れて物も言えなくなりそうだったが、そうもいかない。

「チビちゃん。落ち着け!今どこに居るんだ?そこで、何をやってるんだ?このばか娘っ!!」

いつもだったら、途端に物凄い勢いで言い返してくるはずが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、すすり泣くような声だった。

「そんな怒らないで下さいよぉ…。だって、電車走ってないしぃ、タクシー出払っちゃってるしぃ…。これでも、がんばって家に帰ろうとしてるんじゃないですかぁ…」

いよいよ不安を感じて、すっかり弱っていたマヤは真澄からの思わぬ電話に、ホッとして涙が出てきてしまう。それでも、顔が濡れているのは涙なのか雨なのか、全くわからないような状況ではあったが…。

「がんばって家に帰るって、君、まさか、歩いて帰る気でいたんじゃないだろうな?」

「えー、だって、他にどうしろって言うんですかぁ。それともなんですか、飛べとでも言うんですかぁ?」

いつもの反抗もまったく、勢いがない。マヤは今にもびーびー泣き出してしまいそうだ。

「全く呆れた子だ。夜道の散歩も結構だが、今度は出来れば天気のいい日にお願いしたいな。とにかく、今、どこなんだ?」

真澄の嫌味に反論する元気もないマヤは急激に下がってしまった体温にふらふらしながら、辺りを見回す。

「えっとー、道路沿いに歩いていたから、よくわかんないんですけど。信号のところに『溜池交差点』って書いてあります」

(よりによって、そんな雨宿りも何もするところもなさそうなところで…)

真澄は歯軋りするような思いで、ため息をつくと、更に声のトーンを上げて叫ぶ。

「いいか、良く聞け!そこの交差点の向かってに茶色いレンガのビルがある。丸晶ビルという名前だ」

「あ、はい。見えます。おっきいのですよね」

「ああ、そこの入り口の前で待ってろ。ビルは閉まっているだろうが、玄関のポーチの下に居れば、少しは雨も凌げるだろう」

真澄はちらりと時計を見やる。

「10分で着けるはずだが、道路の状況が読めない。いいか、そこから動くなよ」

「え〜、速水さんいいですよぉ。申し訳ない」

この期に及んで、まだグチグチ言うマヤに、真澄はぴしゃりと言い放つ。

「黙れ!!いいか、そこから動くなよ!!」

それだけ叫ぶと、真澄は取るものも取らずに社長室を飛び出した。



虫の知らせだったのだろうか、今日はなんとなく自分で運転して出勤してきた。運転手付きの社用車で出勤する事が当たり前の毎日で、真澄が自分で車を運転して出勤するのはまれである。しかし、今はその幸運に感謝せねばならない。この状況ではタクシーを掴まえる事さえ困難だったに違いないのであるから…。

幸い交通渋滞は高速道路を中心に膨れ上がってるようで、15分ほどで辿りつく事が出来た。すぐにビルの脇に車を横付けすると、真澄は車を飛び出す。
と、ビルの玄関先の階段に腰掛け、すっかり濡れそぼって小さくなっているマヤに心臓を鷲づかみにされるような衝撃が走る。いつになくその肩は小さく見え、張り付いた濡れた黒い髪の下にある顔は、体温を失い真っ青であった。

(まったく、どのくらいこの台風の中、歩いていたっていうんだ)

怒りにまかせて、怒鳴りつけてやりたいのをぐっとこらえ、真澄は無言で走りよる。

「速水さん…。ホントに来てくれたんだぁ…。ごめんなさい…」

熱があるのか、焦点の定まらない視線を真澄に向けマヤは、言う。その視線はなんとも艶かしく、一瞬真澄をどきりとさせる。さらに、大雨に打たれすっかり濡れてしまった白いブラウスはぴったりと体に張り付き、おまけに下着が全て透け上がっていた。
真澄の動悸があがる。

(いかん…。今はそれどころじゃない…)

一瞬火が付きかけた自らの欲望を揉み消すように、真澄は背広のジャケットを素早く脱いで、その震える肩にかけてやる。

「あ、いいよぉ、速水さん。そんな事したら、背広濡れちゃうし…」

いまだに自分の体の心配もせず、真澄の背広の心配をするマヤに、真澄は怒りを通り越して呆れかえってしまう。そして、自分が一体どんな格好を今しているのか、また、それがどれほど男である自分を動揺させているのか、テンで無自覚なのだから、手に負えない。

「ほら、来い!!」

しゃがんだままのマヤの両肩を支えると、立ち上がらせた。



車の中でも真澄は延々と説教を続けた。

「女優ともあろうものが、自分の体の管理も出来なくてどうする。だいたい、台風直撃の深夜に歩いて帰るとは、いったいどこをどうその脳みそを振ったら出てくる答えなのか、聞いてみたいよ。仮にも君は芸能人なんだ」

至極もっともな説教ではあったが、真澄はそれ以上に、口には出せない別の事実で、腹が立っていた。

(なぜ、恋人である自分に電話してこないのだ?)





真澄が紫織との婚約を解消して、半年、世間には一応隠しているが、二人は恋人という関係にあった。ようやく思いが通じ合い、これ以上幸せな事はこの世にはないと、思い切れるほどの幸せの絶頂にいる気分でいた真澄ではあったが、何かと言うと遠慮ばかりするマヤに、歯がゆい思いをしていたのも事実であった。
一緒に居る時でさえ、時々申し訳無さそうな、捨てられた子犬のような目で人の目を見る事がある。そして、恋人であるはずの自分に我儘はおろか、何かを要求してきた事さえない。彼女のためなら、なんだってしてやりたいと燃えあがる気持ちにいつも水を差されるようで、 真澄は恋人同士である事の安心感にイマイチ浸れないのであった。
贅沢な悩みと言えば、贅沢な悩みかもしれない。
しかし、マヤに嫌われて、愛想をつかされる事を何よりも恐れる真澄は、強気になってマヤの中に踏み込んでいく事も憚られ、

(時間が必要なんだ、彼女には…。何をそんなに焦る必要がある)

と、暴走しそうになる自らの想いをどうにか、こうにか押しとどめているのであった。
自分の方が愛しているのは明らかだった。お互いの愛の重さを量りにかけて比べるなんて、馬鹿げているとわかっている。そして自らの七年にも及ぶ積年の想いは、とても言葉で伝えきれる種類のものではなかったが、まだ少女であるようなマヤを相手に、ましてや自分への好意を自覚したのはつい最近と思われるマヤに、それほどの思いのたけをぶつけるのは、マヤ自身を追い込むようで真澄には出来なかった。。
そして、それはキス以上に進まない二人の関係にも現れていた…。



「マヤ、高速は大渋滞だそうだ。君も一刻も早く、その濡れた衣服を乾かした方がいいだろう。俺のマンションに行く。ここからだったら、そのほうが早い。いいな」

有無を言わせぬ調子で真澄は言う。実際、マヤが嫌だ、と叫んだ所で真澄はそうするつもりであった。下心がないと言えば嘘になる。ましてや、先程、その白いブラウスの下に浮き上がった艶かしい濡れた肌の残像が瞼の裏に、数秒おきに蘇るこの状況では、真澄は自らの欲望の行方に責任が持てなくなる。

(今日はもう、無理かもしれない…)



狂ったように動くワイパーが、叩きつける雨の向こうに行く手を見せるが、雨脚が弱まる気配は一向になかった…。



1.7.2003







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