永遠(とわ)の愛に生きて 1
「北島さんの理想的な人生の終わり方は?」

ある雑誌のインタビューで向けられたその問いは、まだ若いマヤにはあまりに唐突で、掴みきれない。それでも、しばらく思考をさまよわせ、少し考えたあと、ゆっくり答える。

「えっと、私は、女優だから、女優をしてる時が一番幸せだから、やっぱり舞台の上で死ねたら幸せかな」

その答えに満足そうにインタビュアーは頷きながら、続ける。

「役者として本望って事ですね」

「どうなのかな?本望とかよくわからないですけど、私、舞台の上では何にも感じないんですよ。お芝居の上での感覚しかないから、人間として普通だったら感じる、痛いとか暑いとか、まるで気にならないんです。だから、舞台の上で死ぬのは怖くないと思うんです。最後まで役のままで居れたらいいなぁ」


━それは、前触れだったのかもしれない。
唐突に訪れる永遠の不在に対する…。






「毎日電話する。メールも送る」

「うん」

「寂しくなったら、時差なんか気にするな。夜中でもいつでも電話してこい」

「うん」

「羽目を外すなよ。初めてのヨーロッパだからってな、大体君はすぐに人を信用し…」

「んもぉ、速水さんくどい!!飛行機乗り遅れちゃうよ。行ってきます!!」

延々と続く真澄のお説教と、注意事項を遮るようにマヤは言う。

「あぁ、待て。忘れ物だ」

そう言うと、真澄は素早くマヤを抱き寄せ、唇を奪う。両手で左右の頬をしっかりと押さえたまま、充分にその柔らかい唇の感覚を味わうと、何度も何度も輪郭を確かめるように、指で唇や頬をなぞる。たまりかねたように、もう一度その細い腰を抱き寄せ、髪の中に顔を埋める。
『行くな』とか
『手放したくない』とか
『どこにも行かせない』
と言った言葉が次々に頭に浮かんできては、それを押しとどめる。大都芸能の社長ともあろうものが、妻の海外公演の度にこれほど動揺してては話にならない。ありとあらゆる、自分の子どもじみた発想を無理矢理どこかに押し込め、笑顔で言う。

「よし、行ってこい」

満面の笑顔を向けて玄関のドアの向こうの朝日の中で羽ばたいていこうとするマヤを、眩しいものでも見るように、真澄は目を細める。何かもう一言言いたくて、慌てて叫ぶ。

「マヤ、帰ってきたら、もう『速水さん』は禁止だぞ。むこうでせいぜい練習しておくんだな!!」

タクシーに乗り込もうとしてたマヤは一瞬真っ赤になるが、すぐに大きく腕を振って叫び返す。

「は〜い、速水さん!!行って来ま〜す!!」

「まったく、言ってるそばから…。まぁ、そう呼ぶのもそれが最後だからな…」

苦笑とともに呟いた自分の『最後』という言葉が、後に全く違った意味を持って、現実を突きつけてくるとは真澄はこの時、夢にも思わなかった。







紅天女の2度目の海外公演はヨーロッパはドイツ、ミュージカルと演劇の街ハンブルグにて大々的に行われる事になっていた。日本の演劇界に君臨する最高傑作として、名高いその「紅天女」は、早くからドイツ演劇界でも話題になっていた。 紅天女の上演権がマヤに手渡され早3年。マヤは着実に、日本演劇界の宝としてその道を登りつめ、いまやその若さで「最高峰」呼ぶにふさわしい地位を手に入れていた。もちろんそういった世間のものさしとは全く別に、マヤそのものは何一つ変っていない。大都芸能社長の速水真澄と結婚した、という一つの事実を除いて…。
世間の様々な憶測や中傷を乗り越え、マヤと真澄はつい1ヶ月前に2年半の交際期間を経て、結婚した。鷹宮家との破談、上演権を巡る政略結婚、と二人を巡るドス黒いスキャンダルや疑惑は耐えなかったが、『お互いがお互いのために存在する』という何物にも代えられない今現在のこの幸せを、二人は何よりも大切にしていた。
夫として、そしてプロデューサーとして、マヤの成長を自らの手で確かめていくこの幸せを、真澄は信じられないものでも扱うように、日々、自らの手のひらに確認する。

(俺は本当に幸せな人間だ)

呆けたように社長室で口元を緩める真澄を、水城はまた万感の思いで見つめる。

「マヤさん、今日、ご出発でしたね」

「あぁ、元気に出て行ったよ。屋敷は怖いくらい静かでね…」

寂しがる英介やお手伝いの面々の顔を思い浮かべながら、真澄は答える

「お寂しいのは充分お察し申し上げますがね、この際ですから、溜まっていたお仕事、全部こなして頂きますわよ」

書類の山をどさりと机に落としながら、水城は言う。

「水城くん、俺がいつ仕事を溜めたっていうんだ。結婚してからも、同じペースでこなしてきたが」

いささかの不満を隠しきれず真澄は、水城を睨む。

「あら、お気づきにならなくって、社長。新婚さんをお邪魔するのもどうかと思いまして、出来るだけ他に回せる書類や会議は他に回していましたのよ。それに、社長はマヤさんからのSOSコールが入ると、すぐに飛び出して行ってしまいますからね。その心配もこの2週間はないようですから、椅子に括り付けてでもお仕事三昧して頂きますわ」

勝ち誇ったように言う水城を真澄はげんなりした表情で見つめ、何も言わずに両手を肩の高さにあげ、降参のポーズを取った。





悪夢はいつも突然。いや、これは夢ではないのだ。悪夢のような現実。実際には起こり得ないような事実。誰も想像しえなかった事態。そして、人生最悪の事件。
いつも通りに着々と仕事をこなし、会議の合間に決済書類に判を押していると、水城がらしからぬ取り乱しようで、社長室へ乗り込んでくる。

「真澄さま!!」

真澄のデスクの上に、両手をつき肩で息をしながら水城は真っ青な表情で、血の気のない唇を震わせる。瞬時に何か、とんでもない事が起きたのだと、真澄は察知し、体が強張る。
取引ミスや、契約ミスではない。そんな事でこの秘書がこれほど取り乱すはずがない。嫌な予感は、言い様のない不気味な不安は、じわりと足元から這い上がり、真澄にじっとりと汗をかかせる。

「なんだ、言え!」

しかし、その一方で『聞きたくない』と、心臓が縮むのを感じる。もしそれが、今自分が毎日確認する、この手の平にある『幸せ』と呼ぶ、かけがえのないものを脅かすものであれば、聞きたくもない。
しかし、現実は残酷に真澄を突き落とす。

「ハンブルグの紅天女の上演劇場がA国のテロリストの集団に占拠され、観客、出演者、総勢400名あまりが人質に取られました」

水城は震える声で、それでも冷静に一気に言い放つ。真澄の反応が全くないのを確認すると、付け加える。

「プロのテロリスト集団です。要求が通らない場合は、自害を辞さないとの姿勢で、すでに場内は大量の爆弾が仕掛けられてる状態です。
…状況はかなり厳しいです…」

「マヤは?マヤはそこに居るのか?!」

水城は一瞬言葉を詰まらせ、苦しそうな表情で答える。

「状況からみて、マヤさんが場内に居る事は間違いないです」

「うぅ…」

真澄は声にならないような低いうめき声を一瞬上げると、その場に胃の中のものを吐き出してしまった。倒れこむように、真澄は椅子に座り込むと、TVのリモコンに手を伸ばす。
現場の状況を狂ったように伝える様子は、どのチャンネルを押しても同じで、

『紅天女』
『大都芸能所属』
『北島マヤ』

と言った単語だけが、ブツブツと真澄の耳に刺さる。受け入れるべく現実は、とうてい受け入れられないもので、またあまりにも唐突で、そして、あまりにも残酷であった。
一言も声を発せられないまま、真澄は頭の髪をかきむしり、時にそれを引き抜かんばかりの強さで引っ張り、唸り声を上げる。
マヤはもちろんの事、多くの大都芸能所属のタレントが舞台には出演してるとあって、社内は一気に大混乱に陥る。
遅々として伝えられない現場の内部状況。カメラは遠巻きに劇場を外から映し出すのみで、中の様子は一切伺い知る事が出来ない。犯人の犯行声明は、劇場占拠後すぐに出され、

・ドイツ警察に身柄を拘束されている、テロリスト集団の幹部10人全員の釈放
・英米仏の3カ国による、軍事的制裁の即時全面撤退

が要求された。金で済む事であれば、真澄は大都芸能全てを投げ打ってでも、私財を投じたであろう。しかし、出された条件はあまりに真澄の手の届かないところにあった。
次々と社長室に、社の幹部が押し寄せ対策に追われる中、真澄だけは呆然と宙を見つめ、だらりと腕を垂らしたまま、椅子の上で放心している。口元はわずかに動いてるようで、耳を近づければ、ただひたすらにその名を復唱していた。

「マヤ、マヤ、マヤ、マヤ、マヤ」

水城は真澄のデスクに群がる幹部を掻き分け、真澄に近寄ると、平手でその横面を殴った。

「真澄さま!あなたが今、しっかりしなくてどうなさいますか!!マヤさんも、その他の出演者もまだ生きてるのですよ!!しっかりなさって下さい!!あなたが動かなくて、他の誰が動くのですか?!」

「マヤさんはまだ、生きてるのです!!」

真澄の脳に問いかけるように、水城はもう一度念を押す。真澄のうつろな瞳がぐらり、と揺れる。無言のまま、水城の目を死んだ魚のような目で見つめると、ゆっくり目を閉じ、何かを決心する。再び目を開けた瞬間、燃えるような強い意志をそこに宿らせると、低い声を絞り出す。

「そうだ…!マヤはまだ生きている!!」

固く握った拳はの爪はキリキリと手のひらに食い込み、血の気が引くほどだった。
関係者として真っ先に飛び込んでくる情報、さらにTVで飛び交う情報、またハンブルグの駐在記者から個人的に引き出した情報、それらを繋ぎ合わせ、弾き出された状況は、劣悪であった。

・テロリストは計20人。全員、自害の覚悟が出来ており、大量の爆弾を体に巻きつけている事。
・場内数箇所に地雷が仕掛けられ、簡単に人質が動けない状況である事。
・それ故、機動隊の突撃が困難である事。
・テロリストは見せしめとして、すでに二人の女性を殺害し、その遺体を晒している事。
・人質には食料・水の一切の供給物が与えられていない事。
・ドイツ政府としてはテロリストの要求に応じるつもりはないという事。
・英米仏の各政府とも、軍事勢力の即時撤退の意思はないという事。

真澄はキリキリと奥歯が欠けるほどに、歯軋りすると、絶望のあまりデスクを激しく叩く。八方塞なまま、刻々と時間だけが残酷に過ぎていく。


「水城くん、今日中にチャーター便を出してくれ。なんとしても今日中に現地入りする!!無理だと言われても、押せ!金ならいくらでも出す!」

力強く言い放つ真澄に従い、水城はすぐに数時間内に飛び立つチャーター便を準備させる。非力とわかっていても、少しでもマヤの側に居たい。何とか彼女を救い出したい。その思いだけが真澄を駆り立てる。

12時間に及ぶ、フライトの間も真澄は一睡も出来ず、常に情報収集するも、特に進展がない事がプラスにもならないが、マイナスにもならないというわけで、とりあえずの現状維持として安堵する。真澄の最も恐れる事態は、今、確かに息をしてるはずのその最愛の人を目の前で失う事である。
生きるか死ぬか、その決断がいつ下されてもおかしくないという状況に晒されてるマヤ。その心境を思うと、真澄は自らが身代わりになれるものなら、今すぐにここから飛び降りる覚悟さえある、と思う。

(俺が必ず、救い出す!生きていてくれ、マヤ!!)

真澄は祈るように、両手を額の前で組み合わせ、頭を垂れた。




1.7.2003









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