永遠(とわ)の愛に生きて 2

ハンブルグ到着後、真っ先に現地の警察や政府関係者と接触を図った真澄は、自体が好転しそうな事実を知る。
テロリスト集団が、女性と子供の人質の解放に応じる構えがあるという。絶望の中に一理の望みを見出したかのように、真澄はその光に縋るように想いを託す。
結果、その情報通りに数時間後、劇場から女性と子供が開放された。事件発生からすでに24時間以上たっていたが、初めての大きな進展である。目に見えた負傷者はいなかったが、体力的に弱っている者、精神的なショックを受けた者が多数おり、次々と病院へ搬送される。身内と言えども、バリケードで囲われた劇場のすぐ近くまでは近づく事の出来ない真澄は、歯がゆい思いで、バリケード越しにマヤの姿を探す。
しかし、どんなに目を凝らしても、マヤの姿は見えない。いや、それどころか、出てくるのは観客と思われる、現地ドイツ人ばかりで、日本人らしき姿は全く見当たらない。次第にどうしようもない焦りと恐怖に、真澄のバリケードを掴む指がガタガタと震えだす。
最後の人質の一人が開放されると、会場のドアは無情にも閉まる。
点呼を取っていた係りの者に、食って掛かるように詰め寄ると、係員は一斉に暗い表情で首を横に振った。

「新たなる声明文です」

そう言われ、発表されたテロリストからの新たな声明文に真澄は、ガクガクと膝の力が抜け、その場に跪く。

「真澄さま!!」

あわてて駆け寄った水城は、真澄の手の冷たさに驚く。テロリストの新たなる声明文には

「この行為がドイツ国内のみならず、世界的に注目されるべきものである事。虐げられた本国の悲惨な状況を世界に広く理解してもらう事を趣旨としており、『国際的な人質』の解放はありえない」

と、簡潔に述べられていた。
襲いかかる絶望の波、混乱の渦、真澄の緊張感は限界に達し、30時間以上眠っていなかった体力も限界に達する。
真澄の体が一瞬、ぐらりと揺れたかと思うと、そのまま意識の途切れた肉体は、どさりという音と共に、地面に叩きつけられた。



目覚めると、割れるような頭痛とともに、見知らぬホテルの一室に居るのが分かる。
(ここは…)
一瞬の間に、記憶を巡らせ、全てが夢であれば、と目を閉じてみるが、再び開けた視界の先に入るものは、今現在自分が居るはずのない場所に居る、という証明だけだった。
音声の切られたTVでは、繰り返し、今日の人質の解放劇の模様が流されている。激しく肉親と抱き合う様子や、ショックのあまり、泣き崩れる人々の様子が映し出され、真澄は平静では居られなくなる。電話の横に、水城の走り書きを認めると、とりあえずそこへダイヤルする。

「あぁ、俺だ。倒れたりしてすまなかった。何か、変った事は?」

水城の比較的落ち着いた声が、少し心を落ち着かせる。

「今日の所は、もうこれ以上何も進展はないそうです。対策本部としても、今日の人質解放を評価するとして、これ以上テロリストを悪戯に刺激しないために、接触は控えるとの事です」

「だが…!だが…!マヤは、マヤは、まだあの中に…!!」

悲痛なうめき声が洩れる。

「マヤさんだけではありません、大都の大事な所属俳優、スタッフが何十人とあそこには居るのですよ、真澄さま。そして、紅天女の公演責任者は真澄さま、あなたです!
しっかりなさい!!大丈夫です、彼らは必ず助け出されます。
ですから、真澄さまもこれからが勝負どころです、しっかり体力を保って頂かなければ困ります。先程、倒れた際に、注射を一本打たせて頂きました。ですが、今晩は必ず何かをお召し上がりになって下さい。それから、ゆっくりお休みになる事です。
これは、社長としてのあなたの義務です!」

厳しい口調に水城なりの優しさを隠して、強く言い切ると、水城は電話を切った。
翌日、朝一番で真澄が劇場前の対策本部へ駆けつけると、異様な空気が真澄を取り巻く。対策本部長が、無言で真澄を一室に招き入れる。

「今朝方アメリカのジャーナリストが、内部取材と身の安全を引き換えに乗り込みました。テロリスト側も声明文の発表のために、受け入れた模様です。間もなく一回目の中継が繋がります」

本部長は時計をちら、と見て真澄の目を見る。

「テロリスト達は内容にかかわらず、生放送を条件としてます、ご覧になりますか」

真澄は一瞬にして体中の血の気が引き、震えだす指先を固く握り締め、無言で首を縦に振った。マヤの姿が見れる保障はなかった。いや、それ以前に何か衝撃的な映像を突きつけられる可能性だってあるのだ。しかし、この悪夢のような現実から一秒たりとも、真澄は目を離す事が出来なかった。


緊迫した空気が本部内に立ち込める。世界中がこのテロリストからの生中継による、前代未聞の声明文発表に固唾を呑んで注目していた。


真っ黒であった、中継TVの画像が一瞬乱れたかと思うと、暗い劇場内が映しだされる。ジャーナリストであるカメラマンは喋る事を禁止されているのか、音声には何も入ってこない。
場内の様子を一瞬だけ写したあと、カメラの焦点は一点に絞られる。手動なのか、カメラは小刻みに揺れている。
焦点が絞られた誰もいない舞台上の映像のなかに、突然一人の人物が飛び込んでくる。テロリストの一人に腕を取られ、無理矢理そこに立たされる。

「マヤ…!!」

紅天女の打ちかけを着た、その小さな体は間違いなくマヤであり、実に10日ぶりに目にする姿だった。
その瞳は恐怖のあまり、あのいつもの輝きを失い、色を失い、しかし大きく見開かれている。小刻みに体が震えているのが分かる。真澄は、今すぐに駆け寄って抱き去りたい衝動にかられ、ガタガタと体が震えだす。

(なんて事だ!なんて事だ!)
今まで何度も、「悪夢」として片付けようとしていた事実を、紛れもない現実として、自分の目の前に晒され、真澄は体中の内臓が口から飛び出しそうな吐き気を覚える。


物々しく武装し、爆弾らしきものを体中に巻きつけたテロリストがマヤの肘を掴み、カメラの中央にマヤを立たせる。テロリストの表情はガスマスクの向こうで窺い知る事が出来ない。対策本部内は、そのテロリストの確定に躍起になっているのか、一瞬室内が騒がしくなる。テロリストは何かマヤの耳元に囁き、一歩下がると、ライフル銃を後ろから突きつけた。
震え上がるほどの悪寒が真澄の背中を駆け上がり、胃のあたりに例えようのない痛みが渦を巻く。

(マヤ…!!)

顎の下で固く組んだ真澄の手は、すでに人間が持ちうる通常の体温を失っていた。


音声が入れられたのが分かる。場内は不気味な静けさではあるが、確かにそこに多数の人間の息がある事がわかる、生々しい空気が伝わってくる。突然、その不気味な静寂を打ち破るマヤの声。絞り出すように出されたそれは、最初こそ震えていたが、だんだんとハッキリしてくる。


「…き、北島マヤです…。この舞台の主役を演じていた女優です。

お芝居の途中にこんな事になってしまって、とても残念です」
そこまで言うと、マヤは何かを決心したのか、俯きがちに時には彷徨う様に泳がせていた視線を、きっちりとカメラに合わせ、明瞭に語りだす。

「現在ここには、紅天女の上演関係者68名、それからお客さんが200名ちょっといます。ここは、とても寒いですし、お水も食べ物もなくて困ってる状態の人が沢山います。
でも、みんながんばってます。助け出されるって信じてがんばってます…!」

マヤの瞳の中で、縋るような表情がゆらゆらと揺れだす。

「お願いです、私の紅天女を見に来た人たちを殺さないでください。
私の紅天女のために、ここに居る仲間を殺さないでください。
助けて…、下さい…!!」


「おぉ…!!」

呻くように人間の声とも思えない唸り声を真澄は上げると、耐え切れないようにTVから目をそらす。
その瞬間自分を呼ぶ、懐かしい声がする。

「速水さん、見てますか?」

絶望的な表情にうっすらと柔らかい微笑が浮かぶ。

「きっとまた会えるって信じてます。どこかで必ずまた会えるって信じてます」

冷静に紡ぎだされるマヤの言葉の真意を図りかね、真澄はこれ以上ないほどに動揺する。

「マヤ!!何を言ってるんだ!!どういう意味だ!!」

思わず、画面に向かって切り裂くような悲鳴とともに叫び声を上げる。

「約束守れなくてごめんなさい。最後だから、一度も呼んだ事ない呼び方で呼んでもいいですか?ここで、約束果たしていいですか?」

マヤはゆっくりと瞼を閉じ、大きく一度深呼吸する。再び開かれた瞳には、ただそこにあるだけの愛と絶望と悔恨と、そして刹那の色が浮かぶ。

「真澄さん、あなたに会えてよかった。
あなたに愛されて嬉しかった。
あなたと結婚できて、幸せだった
愛してます。これからも、ずっと…」

そう言うと、静かに両手の平を胸の前で合わせる。

「私の紅天女がみなさんの命の役に立ちますように」

その声はマヤの声ではなく、あの舞台の上の奇跡、あの紅天女の声であった。マヤはゆっくりと目を閉じる。3秒間、マヤにとっての永遠の時間が刻まれる。

ズキューン…


永遠の沈黙を切り裂くライフル銃の音。一瞬世界中の時間が止まったかのように、全てのものが呼吸を止める。ガクンとマヤの首が垂れ、全身から人間が持ちうる全ての感覚が奪い去られ、持ち主を失った体は、ふわりと舞台の上に舞う。紅天女の体が地面に叩きつけられた瞬間、カメラは激しく揺れ、突然撮影対象を失ったかのように、床を映し出す。
場内に響く悲鳴。唸り声。そして、訪れる永遠の沈黙。

再びカメラが場内を捉えると、テロリストの一人がガスマスクを外し、至近距離でカメラを覗きこみ、言い放つ。

「要求が受け入れられない限り、一時間ごとに一人ずつ、同じ運命を辿ってもらう。我々の強い決意は伝わったはずだ」

そこで、中継は遮断され、砂嵐のような雑音と無機質な灰色の画像だけが残された。


「うぅぅ…」

誰もが凍りついたように、何も写らなくなった画面を食い入るように見つめ続けていると、突然唸り声とともに、椅子が倒れる音がする。
真澄は今度こそ体中の内臓が飛び出すほどの吐き気が現実になった気がした。堪えきれず喉から押し出されたものは、一面に飛び散った鮮血であった。
ゆっくりと意識が遠のく。

(なんの躊躇いもなく、このまま死ねたらいい…)

遠のく意識の中で、真澄はただそれだけを願った。



1.7.2003








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