第3話
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久しぶりに夢を見なかった。 深く深く、眠りという世界だけに自分の肉体が存在し、一度も目が覚める事なく朝を迎える。こんな事は本当に久しぶりで、それはきっとこの腕の中で守られ た夜だったからこそだと、目の前のまだ瞼を閉じたままの美しい寝顔に対してマヤは思う。 長い睫毛に触れてみたくなって伸ばしかけた指先を慌てて止める。起こしてしまったら大変だ。きっと昨晩だって、かなり無理をして会いに来てくれたはず だ。出来るだけ長く寝かせてあげたかった。 時間を見たくてスマートフォンに手を伸ばそうと体の向きを変えた瞬間、急に強く腕の中に引き戻される。 「起きたのか……?」 「ご、ごめんなさい。起こしちゃいましたかっ?」 慌ててそう答えたが、真澄はその質問には答えず、ただマヤの体をもう一度温かな腕の中へと閉じ込めた。 「よく眠れたか?」 「はい、ぐっすり。久しぶりに何の夢も見ませんでした」 真澄の指がゆっくりとマヤの髪の間を上下し始める。年上の男に甘やかされているという事が実感出来る気がして、こうされるのがマヤは嫌いではなかった。 「今何時だ?」 「六時をちょっと回ったところです」 遮光カーテンと窓の僅かな隙間から、一筋、陽の光が入り始めている。 「今日は……」 真澄の思案する声に曜日を聞いているのだと、マヤは瞬時に答える。 「土曜日です。10月17日の土曜日です。お仕事ありますか?」 「仕事は……あるな。ない日はない」 もう曜日など関係なく仕事をしているのだろうと、自分とは違い、やるべき事に追われている真澄が今置かれている状況に、改めて胸が苦しくなる。 「行きたくないな。ずっと君とこうしていたい」 あの真澄の発言とは思えず、驚いてマヤは埋めていた真澄の胸元から勢いよく顔を上げる。 「え、意外。速水さんでもそういう事言うんだ」 「君とずっと居たいと思う気持ちは、別に意外でも何でもないはずだが」 そう言って、もう一段、更に甘やかすようなキスを髪の間に一つ落とされる。 「そ、そっちじゃなくてっ! 仕事したくない、の方!!」 「仕事よりこっちのほうが好きに決まってるだろう」 からかうように笑いながらそんなふうに言うと、首筋に唇を寄せてくる。昨晩、お互い貪り尽くして、ベッドの奥底に深く沈めたはずの欲望を再び目覚めさせ るかのように。さすがにそれはまずいとマヤは 「だ……め、くすぐったい」 などと言って、身を捩らせて逃れようとする。 「そうだっ! 昨日ね、美奈から赤ちゃんの動画送られてきたんです! 先月出産したんですけど、ほら……、コロナもあって全然会いにも行けてなくて、そし たら動画送ってくれて」 ちょうど手元にあったスマートフォンから昨日届いたばかりの動画を再生する。母親である美奈の親指を握って、ほんの一瞬笑いかける瞬間がたまらなく愛ら しい。 「今のところ、団長には全然似てないですよねー。美奈似かなー」 そんな茶々をいれながら延々再生した後、はたと気づく。 「ご、ごめんなさいっ! 美奈も団長の事も速水さん、そんな知らないし、興味ないですよねっ! あたしってば、つい……」 真澄は特段困った様子もみせず、枕に肩肘をついて頭を支えながら、そんなマヤの様子と動画を交互に見ながら穏やかに笑う。 「速水さん、子供って好きですか?」 思わずそんな言葉がこぼれ落ちる。なぜか真澄には似つかわしくない質問に思えて、言った瞬間後悔したが、予想外に真澄はさらりと答える。 「嫌いじゃない。それこそ意外に思われるかもしれないし、信じて貰えないかもしれないが、不思議と子供には好かれる」 「し、信じますっ! ほら、お祭りの時、迷子の子を肩車してあげたのとか、見てますからっ!!」 懐かしい記憶がふいに蘇る。あの頃の自分は、真澄が自分に対して抱いていた気持ちは勿論、真澄に対する自分の気持ちすらも何も分かっていなかった。奇妙 な状況で想定外の相手と親密に過ごした一日が、忘れられない記憶となってずっとマヤの中に残っている。その人に今こうしてベッドの中で抱かれているのだか ら、人生とは本当に分からない、などとしみじみと思っていると、思ってもいない方角から真澄の声が聞こえた。 「子供は好きだが、自分の子供が欲しいとは思った事はない」 急にそんな本音を打ち明けられ、マヤは驚いて目を見開く。 「正確には子供を持つ勇気がないといったほうが正しいかもしれないな。家族というものに対して、まともな思い出がない。こんな自分が良い父親になれるとは 思えないし、子供が可愛そうだ」 冗談で言っている訳ではない事は、すぐにその表情から分かった。淡々とそう告げられただけだが、その言葉からとてつもない痛みをマヤは感じる。 「そんな事言ったら、私だってとても親になんてなれないです。私なんかが親になったらって思ったら、とてもとても……」 それは嘘ではない本音だ。麗やさやかなど、周りの人間に聞いたところで「たしかに……」と言われてしまうぐらい、本当のことだ。 「でも私は子供の頃から怒られてばっかりだったから、もし自分が親になったら、子供の事いっぱい褒めてあげたいなって思います。子供は思った通りには育た ないってよく聞くし、きっとそうなんだろうなって思うので、だったら多少色々あったとしても怒ったりしないで、何でもどんな事でも凄いねって褒めてあげた いです。それで逆に『もー、お母さんしっかりしてよー』って子供に怒られるぐらいでちょうどいいかな」 ずっと否定されたまま大きくなり、否定されたまま自分は母を失った。一度も褒められた事も認めて貰った事もない。母親に対する感謝や愛情とは別に、一度 でいいから褒められたかったし、認めてほしかったというその気持ちは、ずっと北島マヤという人間の根底に拭いようがなく残っている。 「……なんて、自分がしっかりしてない言い訳なんですけどね。でも……、速水さんだって、速水さんが子供の頃欲しかった親になればいいじゃないですか。今 の自分が親になれるかどうか、じゃなくて、あの頃欲しかった親になるんです。どんな親が欲しかったんですか?」 驚いたように真澄が一瞬息を止めたのが分かる。けれども否定するふうでもなく、やがて思案する様子が伝わってくる。 「そうだな……、ありのままの自分でいてもいいという、そういう親だったら良かったのかもな……。速水家に入ってからというもの、勉強でも何でも、自分の 為と思ってやった記憶がない。自分のやりたい事や好きな事を選ばせて貰えていたら、もっと自分という存在を今となって認められたのかもしれない」 真澄もまた、特別な何かを親に求めていた訳ではなかったと分かり、不用意に胸を掴まれたように苦しくなる。 「まぁ……、これもただの”たられば”だな。結局はそうやって生きてきた自分の責任だ」 一瞬でも思い描いた事を手放すように真澄が小さく笑う。 「でも私は、今のこの速水さんがいいです。こんな私の事を好きになってくれた、この速水さんだから好きになりました」 どうしても伝えたくて、それでも言葉が足りなくて、マヤはもどかしさを感じる。どうやったら伝わるのかが分からない。けれども伝えたいという気持ちがマ ヤを内側から動かす。 「速水さん、お仕事とか立場とか、それこそ凄い人だけれど、でも私といる時の速水さんは、ただの速水さんです。ちょっと意地悪でいたずらっ子で、時々嫌味 とか言っちゃって、でも凄い優しい人です。それだけ完璧な人なのに、凄い人なのに、速水さん全然自分の事認めてないし大事にしてないですよね……。それだ けは私ずっと気になってて……」 ふいに強く抱きしめられる。言葉にできないもどかしさと気持ちごと包まれるかのように。 「君は凄いな……。降参だ……」 そう言って、目をつむったまま、何かの感情が引くのを待つように、真澄はしばらくずっとただマヤを抱きしめていた。自分の想いが果たして伝わったのか、 真澄の中に澱のように沈む、過去に取り残してきた物たちに少しでも自分の声が届いたのか、あまりにも手応えも何もなく、マヤには何も分からない。けれども 自分はこの人とどんな形でも、ずっと一緒に居たいという想いがせめて伝わるよう、同じ強さでぎゅっと抱きしめ返し続けた……。 2020 . 11 . 06 …to be continued
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