第4話

 もともと家具付きの状態でこの部屋は用意されていた。何も持たずともすぐに生活が始められるようにと、大都芸能が全てを取り計らってくれたのだ。
 初めてこの寝室を見た時、大き過ぎるベッドにひるんだ。部屋のほとんどを占めるキングサイズのベッドは、小柄な自分が一人で眠るには必要以上に大きかった。

「まぁ、寝室って言うぐらいで寝る為だけの部屋なんだからいいんじゃない?」

 他に何の家具も置けないとボヤくマヤに対して、麗はそう言って笑った。

 その大き過ぎるベッドの縁に、マヤは今、一人腰掛けている。廊下の向こうから僅かにシャワーの音が聞こえてくる。

「雪で冷えただろう。先に温まりなさい」

 そう言われ、先にシャワーに入るよう促された。言われた通りにシャワーを浴び、戻ってくるとすれ違いざまに真澄にクシャリと濡れた頭を撫でられた。

「寝室で待っていてくれ。寝るんじゃないぞ」

 マヤの全身から電気のように気を放つ緊張を感じとったのか、からかうようにそんな事を言われる。

「寝ませんっ! もぉっ──」

 真澄の狙い通りにそう言って噛み付くと、真澄は笑いながらバスルームへと入っていった。
 実際、神経は限界まで昂り、とてもじゃないが寝られる状況ではなかった。

 本当に自分はこのまま真澄に抱かれるのだろうか?
 それでいいのだろうか?
 
 数秒置きにそんな自問が喉元までこみ上げてきては、マヤを苦しくさせる。

 誕生日の夜だからと、無理を言って好きな人に抱いてもらう──。

 冷静に考えればとても浅はかで愚かな行為だと分かる。

 それでも──、それでもなのだ。
 抱えきれない程に孤独が大きくなり過ぎた、周りの全てが凍えるほど の寒い夜。救いであるはずの星すらも見えない大雪が、このガラス張りの部屋を覆い隠す。今この部屋には、もう自分と真澄しかいない、まるで世界にはこの二 人しかいないかのように……。

 たとえ後で死ぬ程後悔する時がきたとしても、それでも今日だけは真澄といたいとマヤは思う。今日という日を逃したら、もう二度と自分は真澄に触れる事が出来ない気がする。
 あの時雪の中で、真澄が目の前に突然現れた瞬間、そこが世界の中心であるかのような錯覚を覚えた。あたかもその人は自分の為に存在するかのような……。そう、まるで神様がくれた誕生日の夜の奇跡のように。

 後でどんな罰でも受けるから、それでも真澄というひと時の温もりが欲しいと、切実に思う気持ちをマヤはもう止める事が出来なかった。









 熱い湯が流れるシャワーヘッドを最も高い位置に固定し、真澄は両手を壁に付くと、その水流を頭頂部から受ける。
 
 ──これで本当にいいのか? 冷静になれ。

 まるでそんなふうに自分自身を戒めるように。

 マヤには好きな男がいる。
 それは水城の話からも、マヤ自身の先ほどの話からも明らかだ。
 バレンタインに苦労して用意したのであろう、そのチョコレートを渡せなかった。あるいは上手くいかない何かがあった──。状況としてはそういう事だ。

 そして、孤独に耐えきれなくなっている──。

 それは真澄の目から見ても明らかだった。安全性や利便性を考慮して、良かれと思って用意したこの部屋もマヤにとっては負担だったのかもしれない。昔の仲間と暮らすあの場所は、貧しくともマヤにとって大切な場所であった事は間違いない。
 
生き急がせ過ぎてしまったかもしれない──。
 そんな想いが真澄の脳裏を掠める。自分の理想の為にマヤに無理をさせた可能性は否定出来ない。
 とは言え、紅天女の人気とともにマヤの知名度も上がり続ける中、あのアパートに暮らし続けさせるのはセキュリティーの面において、真澄にはありえない選択肢だった。
 また、女優として更なる高みを目指して欲しいという思いもあった。その為には、ふさわしい場所というものがある。いつでも甘えられる立場でいられる、昔の仲間との同居は、一流女優として生きていくにはそのうち足枷になるのは目に見えていた。
 だがそれも、全て真澄個人の考えであり、あくまで芸能事務所の社長としての目線だ。過去にその事が原因で、母親を死なせるという取り返しのつかないミ スも犯した。二度とあのような事があってはならない、それは誰より分かっているつもりだったが、自分がいつだって想定していたのは女優としてのマヤの生活 の最善であり、そこにプライベートの場面、それも恋愛面で何か大きな支障が出てくる事など、自分は本当のところ、全く想定していなかった事に気付かされ る。いや、気付こうともしていなかったというほうが正しいかもしれない。

 自分が求める最高の女優としての輝きを、この手で掴ませてやりたい、その誰よりも強い想いを胸に秘め、大切に育てていくつもりだったし、実際順調にその手はずを踏んでいたはずだ。
 どこの誰だか知らないが、それをつまらない恋の一つや二つで棒に振られては困るし、受け入れる事など到底出来ない。

 寂しさに耐えられないのであれば、自分が相手になる──。

 真澄が出した結論は、そういうことだ。
 自分はずっとマヤを見てきた。遠くから、近くから、何年もずっと見てきた。見てきたからこそ分かる。今夜こそが、マヤがもっとも誰かを必要としている夜なのだと。救う為なら、何だってする。

 遠い昔の記憶が蘇る──。
 あの日は激しい雨の夜だった。冷たい雨に打たれ、心も体も限界に達したその姿を見て、自分は初めてマヤへの愛を男として認めた。
 自分に出来ることなら何でもすると、あの夜誓った。迸る想いと水薬、その両方をマヤの体内に流し込んだ。マヤが必要とするものなら、何でも与えたい。その想いは今も全く変わらない。
 
 今、再び認める時がきた。
 自分はマヤを愛している。誰よりも──、何よりも──。
 彼女を救う為ならば、何だってする覚悟はもう出来ている。何だって利用するし、犠牲にもする。自分が男であることも、利用する。そして自らの愛すらも犠牲にする。
 北島マヤを愛するということは、つまりはそういう事なのだ。


 シャワーの水栓を止めると、真澄の中で覚悟が決まった。
 



 






 寝室のドアが開く、カチャリという音に、マヤはビクリと反応する。
 Yシャツをラフに羽織り、完全には乾いていない髪が、普段の隙のない姿の真澄とは対極にある男の色気を感じさせ、マヤは息を呑む。この寝室に、確かに一人の男性が入ってきたのだと、自覚させられる。

「あ、あの……、これ、お水……」

 そう言ってマヤは両手で握り締めていたペットボトルの水を差し出す。風呂上がりは喉が渇くのではと思ったのだ。

「ありがとう……」

 真澄はそう言ってペットボトルを受け取ると、カチリとボトルの栓の開く音がした。勢い良く上下する喉仏に思わず目を奪われる。
 じっとこちらを凝視するマヤの視線に気付いた真澄が、なんだ? と表情で返す。

「なんか……、速水さんのそういうラフな格好見たことなかったから、ちょっと意外で……。やっぱり男の人の体って全然違うんだなって、ドキドキしちゃって──」

 そんなことか、と苦笑した真澄がベッドの隣に座ると、ギシリとマットの軋む音がして、一瞬沈み掛かった船のように揺れた。

「俺はこれからもっとラフな姿を君に見せるつもりなんだが」

 そう言って真澄は、後ろにまとめていたバレッタを器用に外すと、マヤのまだ少し水分を含んだ髪がはらりと落ちた。その指先がほんの一瞬、肩に触れただけで体がビクリと震える。

「そんなに怖がるな。ここでやめても構わない──」

「違うのっ! そうじゃないのっ!!」

 思わず、真澄の言葉を遮るようにしてマヤは叫ぶ。

「怖いとか、嫌だとか、そういうんじゃないの。ただ……、どうしたらいいか分からなくて……。こんなこと初めてだから、上手くできないの。こんなのが相手じゃ、速水さん……イヤ?」

 上目使いで恐る恐る、真澄の顔を見上げると、真澄が深い溜息を吐く。

「あざといな……」
 
 小声でぼそりとそう呟いたかと思うと、真澄は手のひらで顔を覆って頭を左右に軽く振った。

「そうやって煽っているつもりなら満点だ。無自覚ならば、相当な小悪魔だ」

 そう言って、小さなご褒美のように軽くキスをされる。真澄が何を言っているのかはよく分からなかったが、ほんの僅かに唇に触れたそのキスで、二人の間の空気がふわりと男女の色気を帯びる。

「君を見ていると放っておけない。昔からそうだ」

 真澄の美しい指先が、ゆっくりと髪の間を梳いていく。

「君が感じる孤独について、ずっと考えていた。君が手にした成功や名声の裏で、君が手放したものの重さや大きさについても……。君が抱えた孤独や空虚さ は、君にしか分からないものかもしれない。だがこれだけは覚えていて欲しい。どんな時も君の後ろには俺がいる。君を見ている。孤独に倒れそうな夜には振り 向けばいい。俺がいる……」

 真澄の腕が強い意思を持って、マヤを抱き寄せる。

「こうして君を抱きとめる。それは俺の役目だ……」

 マヤは目を閉じて何度か深呼吸を繰り返す。複雑に絡まり合い、分からなくなってしまった結び目を時間をかけて解いていくように。苦しかった想い、頑なに閉じ込めた想い、それらが溢れ出る。
 自分にはこの人がいる──、その想いに辿り着く。
 壊れそうな夜に、自分を後ろからそっと包むように抱きとめてくれるのは、この人しかいないのだ。紫の影として、ずっと自分を見守ってくれていた、この人しか──。

 マヤの中に最後まで燻り続けた、恐怖やためらいが跡形もなく消えていく。この人に抱かれるということは、もう昔から決まっていたとても自然な流れにすら思えた。

「速水さん……、あなたで良かった……」

 そう言ってマヤは真澄の首に、そっと腕を回す。

「速水さん……、あなたが良かった……」

 今度はほんの少しだけ勇気を出して、自分の想いを託す。

 マヤの体から力が抜け、ゆっくりと真澄にベッドへと押し倒される。二人分の重みでベッドのスプリングが軋み、いつもよりも深く沈む。
 ただ眠る為だけにこのベッドに身を横たえていた時より、一段深い階層へと自らの体が沈んでいくのをマヤは自覚する。


 東京の夜空からは深々と音もなく雪が降り続ける。
 明日の朝にはどんな景色を見せてくれるのか──。

 世界の誰も、まだその景色を知らない……。




 2018.2.26


…to be continued


 












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