第2話 |
「君は……誰だ?」 新聞を顔の正面から幾分下げて、訝しげに真澄がこちらを見ている。 「え、北島マヤです」 「知らないな」 マヤは驚いて息を呑むが、当たり前の事実にようやく気づく。 この目の前の存在が二十三歳の真澄だとすれば、確かに自分の事など知るわけがない。なぜならあの新春の椿姫の舞台で出会うのはこの約一年後なのだから。 「そっか……、私の事、まだ知らないんだ……」 思わずそんな声がこぼれ落ちるが、怪訝そうにこちらを見つめる真澄の眉間のシワは深くなる一方だ。 「えっと、あの……、私女優なんです」 口にした瞬間「私は宇宙人です」と口にしたぐらいの突拍子の無さを自分でも感じてしまい、なんとも言えない沈黙が広がる。 「……出演作は?」 真澄は新聞を軽く脇に置くと、おもむろに先程までとは少し違う形のグラスを持ち上げて口にした。琥珀色の液体はやはりウィスキーだろうか。この時から ずっと、変わらず真澄の体内を流れていたのだと感慨深い気持ちになる。 「黒沼龍三先生の舞台とか、映画とかドラマも出てます」 言っていて、吹き出しそうになってしまう。きっと何を言っても 「知らないな」 と言われるだろう。そうだ、知るわけがないのだ。11年前のこの時点で女優・北島マヤはこの世界のどこにも存在しない。 「知らないな」 思った通りの抑揚で真澄がそう言ったので、本当に口元が崩れるように吹き出して笑ってしまった。まずい!と思ったが遅かった。真澄は気分を害したよう に、あるいは頭のおかしい女優(もどき?)に絡まれたとでも思ったのだろう、今にも荷物をまとめて席を立ちそうな雰囲気になる。 「つ、椿姫!! 今度、椿姫もやるんです」 それは嘘ではなかった。毎年、大都劇場で正月に行われる新春公演、来年は「椿姫」を北島マヤ主演で上演する事になっている。ヴィオレッタを演じるにはま だ早いという声もあったが、大都芸能の看板女優として立たせたいという、社長である真澄の一存でマヤの主演が決まった。無論それはマヤにとっては一年後の 話であるが、23歳の真澄にとっては12年後の話になる。 だが、大都芸能での新春公演における椿姫の初演は、あの10年前の姫川歌子主演の舞台だったと聞いている。そう、二人が出会ったあの舞台だ。 舞台の制作は数年前から始まる。一年前のこの時期はキャスティングや細かな設定など、記者発表前の大詰めの段階のはずだ。「椿姫」という単語を出せば、 多少真澄の気に留まるかもしれないと、マヤは慌てて口にしたのだ。 「この椿の花がしおれた時に……」 そう言って、マヤは椿の花を捧げるように真澄の方へ手を差し出す。 「ごめんなさい、あたし好意をもった方をからかってしまうくせがありますの」 あっけにとられてこちらを見ている真澄に対して、口元を扇で隠すような仕草で笑ってみせる。 「わたくしはあなた一人のわたしではないことよ。ああ、なのになぜ、あなた一人をこんなにも愛してしまったのかしら?」 そう言って、苦悩に満ちた表情で真澄をじっと見つめてみせた。 「驚いたな。ものまねにしては上手い方だ」 「ものまねじゃないですっ! もーー、本物なのにっ!」 言ったところで信じてもらえそうもなかったが、貰ったばかりの台本から有名な台詞を幾つか読み上げると、幾分かは真澄の興味を引くことは出来たようだ。 「今いくつだ?」 「今日、23歳になりました!」 唐突な「今日」という単語に、少し驚いたようにグラスに伸ばした真澄の指が一瞬止まる。 「誕生日なのか?」 「はいっ!」 思った以上に元気な声が出てしまう。明らかに自分はこの状況に浮かれていて、そして楽しんでいる。 そのタイミングでウェイターがカクテルリストをマヤに差し出そうとする。 「何かご用意致しましょうか?」 「ブルームーンお願いします」 リストを受け取る前にマヤはそう答える。先程、真澄から教えてもらったばかりのカクテルの名前を口にした。 「えっと、速水さんも23歳ですよね? 去年の11月に23歳になった。違います?」 今度こそグラスに口をつけようとしていた真澄の動きが完全に止まり、やや乱暴にロックグラスがガラスのテーブルの上に硬質な音を立てて戻される。 「なぜそんなに俺の事を知っている? スパイか? 名前も年齢も、君に教えた覚えはないが?」 マヤにとってはただの当たり前の確認事項程度のつもりで口にした事が、真澄にとんでもない警戒心を抱かせてしまった事に気づくが、それにしても「スパ イ」などというとんでもワードにマヤはまたもや吹き出してしまう。 「こんなゆるゆるなスパイ、います?」 マヤは目尻から溢れた涙を拭うほどにひとしきり笑うと、ずっと怪訝そうにこちらを見ていた真澄に対して、さすがに謝る。 「ごめんなさい、スパイがツボにはまってしまって……。えっと、速水さん自覚ないみたいですけれど、顔も名前も有名ですよ。約束された大都芸能の若き次期 社長って」 嘘ではない。自分が初めて真澄をこの一年後に椿姫の初日で見かけた時だって、周りの一般客が聞いてもいないのにご丁寧にそう説明してくれた。 周囲の視線や注目には慣れているのだろう、この目の前の存在が一方的に自分の事を知っているという状況に、一応は折り合いをつけたのか、真澄は再びソ ファーに深く腰掛けた。 「どこの舞台の椿姫だか知らないが、君は椿姫を演じるには少し若すぎるんじゃないのか?」 11年後にも散々周囲から言われた懸念を真澄が口にした。思わずまた笑ってしまいそうになる。11年後に23歳のマヤをヴィオレッタに反対を押し切って まで推すのは、他でもない真澄だというのに。 「デュマの原作にはヴィオレッタの年齢は明かされてないけれど、ヴィオレッタのモデルと言われてる実在の高級娼婦のマリー・デュプレシーは23歳で亡く なっているんです。だから23歳は全然若すぎるなんて事ないんです。むしろ、こんなに若くして散らなければならなかった美しい花の悲劇性を際立たせる、重 要なポイントなんですよ」 これらはすべて11年後の真澄の受け売りだ。23歳のマヤを椿姫にさせる為に、用意したものだろう。それを今、自分がもっともらしく口にしているなん て、と思わず心の中で真澄に謝る。 新聞を完全に畳んで横に置いた真澄が、なにかを見定めるように自らの顎先を指先でゆっくりとなぞる。 「説得力のある見解だな。君は……、何というか見た目よりはしっかりしているようだ」 随分失礼な事を言われたような気もするが、不審者を見るような視線が少しだけ和らいだので良しとしよう。そもそも、今の自分は間違いなく真澄にとってた だの不審者でしかないのだから。 「23歳にも見えない。もっと年下だと思った」 最初から敬語ではない口調で問い詰められる様子からして、相当年下だと思われているとは分かっていた。23歳になっても、童顔だから仕方ない。自分が真 澄に対して、今は同い年だからといってタメ口で話す事ができないように、そもそもあの真澄から敬語でなんか話されたら、それこそ居心地が悪すぎて受け入れ られなかったかもしれない。 「今、何してるんですか?」 「一息ついている」 そう言って、またゆっくりとグラスに口をつけた。物凄く落ち着いた所作だ。 速水真澄は一体いつから、自分の知る”速水真澄”で、いつからカッコ良かったのか、などと思った事があるが、少なくとも23歳の速水真澄はすでに嫌にな るほどあの”速水真澄”で、すでに出来上がっていた事は間違いない。 「来年の新春公演の大詰めの内容がようやく決まった」 おそらく「椿姫」の事だろう。不審者同然の自分が無視されなかったのは、「椿姫」という出したカードが間違っていなかったという事だ。 「お疲れみたいですけれど、すんなり決まらなかったんですか?」 「そうだな、自分が初めて最初から最後まで取り仕切った公演企画だったから、正式入社早々、大きな案件ばかり回している自分に対して面白くない連中から散 々横槍を入れられた」 最初からずっと順風満帆だとばかり思っていた大都芸能における真澄の人生も、自分が知らないだけで、そうではない側面や局面がこうして多々あったのかも しれない。疲労を逃がすように目を瞑って、首の片側を伸ばすように真澄が顎先を動かす様子をマヤはじっと見つめる。 「なんでこんな事を初対面の君に話しているんだか……」 自分でたった今口にした事が腑に落ちないとでも言うように、真澄がじっとこちらを見つめ返す。確かに仕事の愚痴を口にするなんて、真澄らしくない。やは り23歳の北島マヤという異分子は、図らずも23歳の真澄に対して不思議な作用を引き起こしてしまうのかもしれない。 23歳の真澄──。 やはりどこか少し若いというか幼い。肌や輪郭が今とは違う。 それにそこはかとなく無遠慮で不躾だ。勿論、目の前の自分があまりに不審者であるという点はあるが。 でも、11歳の年の差ありきのいつもの自分への態度とは明らかに違うものがあって、それをとても新鮮に感じる。それはもしかしたら、真澄がというより も、自分こそが真澄に対して11歳の年の差を感じていないという事に起因しているのかもしれない。 そう、二人は今、同い年なのだ。 「お腹すいてません?」 唐突なマヤのそれに、真澄はいよいよ怪訝そうに顔をしかめる。 「えっと、これからお仕事とかじゃないんですよね? もう飲んでるぐらいだし」 「それはそうだが……」 明らかに戸惑う真澄を強引に誘うのはある意味新鮮だ。普段なら絶対にやらない。強引なのはいつだって真澄の方なのだから。 これが夢だと考えれば、怖いものなど何もない。むしろ”同い年デート”をしたいという欲がムクムクと湧いてくる。 「じゃぁ、ご飯行きましょう! 同い年デートしたいです!」 どんなに突拍子もない言葉でも、夢だと思えば、いくらでもためらいなく口をついて出てくる。 その時、マヤがオーダーしたブルームーンが運ばれる。 「ブルームーン……、えっとパルフェタムール……『完璧な愛』でしたよね?」 美しい紫色のカクテルを掲げ、真澄に笑いかける。 「別の意味もある」 「え?」 グラスに口をつけようとしたマヤの手が止まる。 「奇跡の予感」 真澄に教えてもらった「完璧な愛」とは全く違うそれにマヤは戸惑う。 「そもそも、数年に一度、一ヶ月に二度満月が訪れる事をブルームーンという。めったにない事のたとえだな。カクテルに相反する二つの意味が隠されているのはよくある事 だ」 「へぇ……、じゃぁやっぱり今宵にぴったりのカクテルですね。乾杯!」 相変わらず腑に落ちない表情を隠しもしない真澄が、マヤが掲げたブルームーンを抱いたカクテルグラスに、ウィスキーグラスを少しだけ掲げて渋々応える。 夜空を閉じ込めたような美しい紫色のカクテルの表面が波打つように揺れた……。 2026 . 1 .18 …to be continued
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