第5話 |
| 唇が触れると思われたその瞬間、微弱な電流が走ったかのごとく、真澄の肩がわずかに震え、引力を振り払うように後退った。今は呆然と固まった体勢でこちらを見下ろしている。 「絶対キスすると思ったのに」 「はぁっ?!」 取り乱した時に、乱暴に前髪をくしゃりと掻き上げる仕草は今と変わらない。そんな些細な部分にこそ、今も残る真澄らしさを感じてしまう。 11年前に飛ばされる直前、自分は会ったこともない、今の自分と同い年の23歳の真澄に会いたいと願った。そして、ただ会うだけではなく、できれば同い 年である23歳の真澄と対等に向き合って恋をしてみたいとも思った。更にもっと言えば、どの年齢でどんな状況で出会ったとしても、二人は惹かれ合う事がで きるのかを知りたいと思った。 つい先程まで二人の間に存在した、あの抗いがたい引力について、マヤは考える。あれがマヤだけが感じたものでなかったと言えるのかどうか。 「キス、する流れでしたよね?」 「いや……、流れでするようなものでもないだろ」 歯切れ悪く、真澄が抵抗する様子が見て取れる。 「やっぱり遊んでたわけではないのかな……」 絶対になびかない、あるいは頑なに抵抗する姿や取り乱す様子が、マヤの知る34歳の余裕ある今の真澄とはかけ離れていて、自分の思い込みに対して疑問の欠片がこぼれ落ちる。 「さっきから何を言ってるんだ、君は!」 「ああ、わかった、好みじゃないのか……、いくら何でもこんな子供みたいな──」 「同い年だろ? そんな事は思っていない。ただ……、決めているだけだ」 遮るように真澄にそう言われる。 「決めている? 何をですか?」 「女優には絶対手を出さないと」 それは真澄の中の掟だったはずだ。女優を商品としてしか見ていない事の何よりの証拠となる、自らに課した掟。 「女優の私の事知らないって言ったくせに」 「知らなくても女優は女優だ」 バツが悪そうにそう言って、もう一度前髪を掻き上げた真澄の困惑した表情が23歳の速水真澄、等身大そのものなのだと漠然と思った。自分がたった今、心が動いたものに対して、心を開きたくても、簡単にはそう出来ない立場と生い立ちを背負っている。 「無名だとさらに面倒だし? 色々要求されそうで、女優の方から近づいてくるのは下心の塊が見えて怖いって、確かに速水さん言ってました」 「ハハ……、よく分かってるな。その通りだ」 自嘲的な乾いた笑い声が虚しく響く。 「……信用出来ないんだ。人の好意には裏があると、徹底してそう教え込まれた。人の上に立つ人間の鉄則だと」 そう言って真澄はどこか遠くへと視線を向ける。ここではないどこかに置き忘れてきた、遠い昔の残像を探すかのように。心のままに誰かに対して素直に心を 開いたり、笑ったり、そういった人間らしい感情の動きが、遥か昔の幼き頃の自分には確かに存在していたことを思い出すように。 「女だって道具に過ぎないと言われてきた。女優やタレントも商品にしか見えない。心が動く事など一度もなかった。幼い頃から徹底してそう教え込まれたからな」 確かに昔から真澄がそう豪語していたという話は人づてにも聞いた事がある。若くして全てを約束された芸能界の実力者が、不要なトラブルを避ける為のポーカーフェイスだと思っていたが、自分から望んでそんな人間になった訳ではないだろう。 誰一人、本当の意味で心を寄せることも信じることも出来ない人生はどれほど孤独だったのか。大都芸能の後継者として完璧な存在である事だけを望まれてきた人生の計り知れない重責と、それがもたらした途方もない闇に、マヤは胸を塞がれる。 「だが、君はそういうのではない。何か、俺に伝えたい事があるのだろ? あるからこそ、11年後から俺に会いに来たんじゃないのか?」 耐え難いほどに真っ直ぐな熱い眼差しで見つめられる。23歳の真澄から投げられる、その誤魔化しようのない若さと情熱がマヤを揺さぶる。 言葉の代わりに真澄の唇に今度こそ触れたいと思う。 いつだって、真澄がキスをしてくれた。 不安な時も、幸せな時も、想いが溢れた時も、真澄の方からその想いをキスにしてくれた。自分はいつだって真澄がくれるその愛を受け止める側だった。 でも、今夜は自分からキスしたいと思う。 今の23歳の自分と呼応する、孤独と幼さと戸惑いをまだ抱えたままの23歳の等身大の真澄に。 大丈夫だと。 必ず自分と出会って、幸せになれる道がこの先にあるからと。 そこまでのひどく長くてつらい十年を想像して、心が苦しくなる。 それでも、この先の道で自分は待っている。必ず。 真澄の両肩に手を置き、つま先立ちになると、まだこの先の未来の何をも知らない真澄の無垢なそこに口づけた。 驚いた真澄が一瞬、身体を固くしたが、振り払われたりはしなかった。 ゆっくりと唇が離れると、額をつけたまま、まつげを伏せた真澄が苦笑する。 「大胆な女優だな」 「夢ですから」 その言葉にもう一度、真澄は鼻孔から息を払って笑うと、強くマヤの腰を抱いて引き寄せる。 「夢なら仕方ないな」 そう言って、マヤの顎を指先で持ち上げると一気に口づけた。情熱の塊が一気に注がれ、息もできなくなる。熱い吐息が二人の間を何度も往復し、二月の東京の極寒の夜空の下、二人の頬を紅潮させる。 「大丈夫です。速水さん、ちゃんと幸せになれます。私、待ってますから」 キスの最後にそう伝える。 応える代わりに、真澄は最後にもう一度、短くキスをすると、髪の間に髪を埋めるようにして、マヤを抱きしめた。 「結局、キスしてしまったな」 「でも、悔しい……」 真澄の胸の中で、思わずそんな言葉がこぼれる。 「何がだ?」 「二十三歳の速水さんもキス上手かった」 呆れたように真澄が笑う。 「君も上手かったぞ」 「私のキスは、全部速水さんに教えてもらいました」 「とんでもない殺し文句だ」 そう言って、真澄は大声で笑いながら夜空を仰ぎ見た。 「でもよかった。速水さん、凄い塩だった」 意味が分からないとでも言うように、真澄が怪訝そうに眉を動かす。 「二十三歳の速水さんなんて、凄いモテて遊んでると勝手に思い込んでて。でも、実際の二十三歳の速水さんは初対面の私に凄い警戒心で、めっちゃ塩で、二十三歳の速水さんてこんな感じなんだなーって。絶対遊んでたとか酷いこと言ってごめんなさい」 「どういう意味だ?」 「11年後にあなたの事なじるんです。絶対遊んでたとか言って。濡れ衣でした。今のうちに謝っておきます」 呆れたように真澄が片手を額にやって、頭を抱えるようにして笑った。それもやはり、呆れた時によくでる真澄の癖だった。 左手首の真澄の時計が目に入る。 「もうすぐ12時ですね」 「シンデレラは帰る時間か?」 からかうようにそう言われたが、あながちハズレではない。 「多分そうな気がします。例の最近でたタイムリープ物の映画だと、0時ピッタリに現代に引き戻されましたから」 ドヤ顔でそう告げると、マヤの背中で両手を組んだ緩やかな拘束でマヤを抱きしめたまま、穏やかな笑みで真澄が見下ろす。 「未来から来たかわいい女優さん。これからのおそらく前途多難な俺の人生に何かアドバイスは?」 おどけた口調が、この世の重要機密や歴史的大事件を漏らせと言っている訳ではない事がわかる。ならばとマヤは、思いつく限りのアドバイスを口にする。 「お見合いはしないほうがいいですよ。凄い苦労します、あとで」 「ハハハ、リアルだな」 天を仰いで、またしても大声で真澄が笑う。 「あと、年下の女の子をからかったり、いじめたりするのも程々にしたほうがいいです。ガチで嫌われますから」 「肝に命じておくよ」 「それから……」 そこで迷いが生じた。言うべきか、言わざるべきか。 きっと0時になれば、自分のこの身体はここから跡形もなく消え、真澄の記憶からも消えるだろう。この次元に自分は存在してはならない異分子だ。記憶になぞ、残るはずもない。 それでもどうしても無視できない事実が一つある。 何度も時を戻せるならばと思ったことだ。 「一つだけ……、あなたは一つだけ間違いを犯します」 真澄の腕の拘束が外れ、真澄が心配そうにマヤを見る。 「将来、あなたは私の母さんを閉じ込めるの。それはしちゃいけないことだった」 俯きながら言葉を探していたマヤは、意を決して真澄を見上げる。 「あなたがしてきたこと全部、私が女優になる為には必要なことだったと、全部許したけれど、母さんだけは違う。母さんは私の演劇とは関係ない人だった。犠 牲になってはいけない人だった。母さんは私の女優人生を盛り上げるための道具じゃない。母さんを演出に使わないで。死なせないで。ちゃんと……会わせ て……」 真澄のコートの襟元をすがるように掴んでしまう。涙声でこんな事を訴えても、今の真澄には意味の分からない事なのに。にも関わらず、 「わかった……」 ただ真澄はそう言って、襟元を掴んだ、かじかむマヤの両手を包むように握った。 その一言にマヤは大きく鼻をすすって、気持ちを引き取ると、俯いた頭を上げ、もう一度その瞳に焼き付けるように23歳の真澄を見つめる。戸惑いながらも心配そうにこちらを見るその姿は、間違いなく、遠い未来で自分が愛することになる人だった。 「これ、プレゼントです。素敵な一夜のお礼。つきあってくれてありがとうございました」 そう言って、真澄の手のひらにアメジストのカフリンクスを乗せる。驚いた真澄が手のひらのそれを凝視する。 「いつ用意したんだ?」 「さっき、速水さんが指輪の刻印のオーダーしてくれてる時、コソっと。私だってお金持ってるんですよ。あなたのおかげで。沢山お給料頂いてます。大都芸能から」 そう言って、いたずらっぽく笑うと、やられたとでも言うように真澄もまたクシャリと笑った。 「この時代のものを私が持って帰る事はきっとできないけれど、この時代で私が買って速水さんに渡したものは同じ時代だから残れるはず。この石はきっと速水さんと一緒に年をとれると思う」 手のひらに託された限りなく透明に近い薄紫の石に真澄の指先が触れる。 「アメシスト……、私の誕生石なんです。意味は”真実の愛”。不誠実な相手に惑わされず、真実の愛を見極める冷静さをもたらすって言われているので、ちゃ んと身につけて下さいね。あと、心身のストレスや不安を和らげ、穏やかな気持ちにしてくれる御守り効果もあるらしいから、速水さんにピッタリでしょ?」 真澄は苦笑しながら頷いた。 「あと、結婚を禁止された恋人たちの愛を結ぶ手助けをした聖バレンタインって人が、アメシストの指輪を身に着けていたっていう伝説もあって”恋人の石”と か”愛の石”とも呼ばれるらしいです。私たちがつきあうまでも本当に本当に大変なので、速水さんこれを御守にしてめげずに頑張って下さいね!私も頑張りま すからっ!」 そう言って、内側に23の刻印が施された指輪がはめられた右手を掲げる。 真澄は穏やかな表情でわかったと何度か頷く。 「今、何時ですか?」 「23時59分だ」 左手首のロレックスに素早く目をやった真澄が答える。 「時間ですね。じゃぁ……」 さようなら──、は違うと思った。必ずまた会えると信じているのだから。 「またっ!!」 そう言って、上げた手を振った瞬間、時空が歪んだようにマヤの身体だけが放り出される感覚に襲われ、深夜のテレビ放送が途絶えるように、意識はそこでプツリと途切れた。 ![]() ホテルアマンロビー。 真澄は一瞬、自分が意識を失っていた事に驚いて目を覚ます。公共の場でうたた寝など、そんな迂闊な事はついぞした事がなかったはずだ。 左手首の腕時計を見ると、ほんの一瞬の出来事だったことが分かり、幾分ホッとする。 夢を見た気もするが思い出せない。 こんな場所で、一瞬のうたた寝で夢まで見たなど、そもそも理解に苦しむが。 その時、ラウンジバーのバーテンダーが、おもむろに真澄の目の前にカクテルグラスを一つ置く。 「君、これは?」 「ブルームーンです。先程、お客様がオーダーされましたが?」 身に覚えのないオーダーに真澄は驚くが、カクテルグラスの内側の透明度の高い薄紫色の液体には既視感があった。 「ブルームーン……。カクテル言葉は”完璧な愛”と”奇跡の予感”だったか?」 二十歳を過ぎて酒が飲めるようになると、カクテルに興味を持ち、バー通いが趣味になった。カクテル言葉は自然と覚えていったが、甘いテイストのブルームーンを自分で頼むとは思えなかった。 「”完璧な愛””奇跡の予感”、そこから派生して、もう一つございます」 バーテンダーの意外な言葉に、真澄の身体に僅かな緊張が走る。 「”奇跡が起きない限り成就しない愛”という意味も……。奇跡は起こりましたか?」 驚いた真澄の手が、カクテルグラスへと伸びる。 「甘いな……」 夜空を抱いたグラスの味は、真澄の舌の上で甘く広がる。 グラスを持つ真澄の手元で、薄紫のカフリンクスが静かに光った……。 2026 . 1 .30 エピローグへ続く
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